第3話「鳥は何のためにいるのか」
谷中の屋根の上
中秋の終わり、夕暮れ
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頭を空っぽにするため、夕暮れの屋上へ上がったミケンチ。そこで出会ったのは、渡り鳥の群れを前に「もしも」の不安に溺れそうな先客――ヒマラヤンの猫、クモだった。 「考えないため」に来たミケンチは、図らずも「考えすぎる」クモの錨となる。 二匹が静かに見送る、二つ目のV字。クモが最後にぽつりと呟いた、ミケンチが持ち帰ることになった言葉とは。
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考えるのをやめるために、ここへ来た。
これは、成功するかどうか怪しい作戦だ。「考えること」という厄介事は、たいていどこへでも僕についてくる。冷たい外階段を三階ぶん上がるときでさえそうだ。あの金属の階段はがたがた鳴るし、短いこの脚でもなんとかなるさ、という根拠のない楽観が必要になる。それでも、高さが役に立つことはある。屋上は、夕飯の匂いや自転車のベルや、地上の生活特有のしがらみが澱む高さより少し上にある。ここでは、街はただの街だ。ただの景色であり、音であり、ほんの少しの間だけ、自分がその上に乗っかっているだけのもの。
僕はこれを「運動」と呼ぶことにしていた。
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金属の階段は、足の裏に冷たかった。午後ずっと日陰に置かれていた金属だけが持つ冷たさだ。単なる気温の問題を通り越し、それ自体が明確な意思を持っているかのような冷たさ。建物の階段はアパートの南側をジグザグに上っていて、踊り場ごとに手すりの向こうから下の路地が小さくなり、静かになっていくのが見えた。遠くの端を人影が横切る。その音はただのあいまいな響きとなって届き、僕がいちいち気にする必要もなくなっていく。僕は上った。脚は、わざとらしいほど大げさな足取りで不満を訴えてきた。僕はその抗議をただ聞き流し、そのまま上り続けた。
足の短い猫が高い階段を上るという行為には、どうしても尊厳の問題がついて回る。僕はそれを、唯一可能な方法で解決している。つまり、そもそもそんな問題はないものと決め込むことだ。一段一段が小さな交渉であり、僕はそのすべてに合意していった。高い場所へ行くことの恩恵とは、地上で自分を悩ませているものたちが、単純な幾何学上の都合で、そこに留まらざるを得なくなることだと僕は思っている。彼らは僕ほど速く階段を上れない。あるいは上らないことを選ぶ。どちらにせよ、彼らが階段の場所を突き止めるまで、屋上には数分間の猶予が生まれる。
屋上への出入口を越え、タール紙の縁に前足をかけ、頭がパラペットの上に出たとき、最初に来たのは風だった。
地上の風とは違っていた。こちらの風はもっと乾いていて、冷たく、はるか遠くから吹いてきていた。その中に細い糸のようなものが混じっていた。何かを燃やす匂い。遠すぎて、むしろ心地よいくらいだ。東のほうの町に晩秋が沈んでいくときの落ち葉の煙か、誰かの夕飯か、たぶんその両方だと思った。空が一気に開けた。上のほうは冷たい青。地平線のあたりには、沈んだ太陽が次の居場所を指し示すように残していった、暖かな金色の帯。
雁のV字が頭上を渡っていった。きれいな編隊。十五羽くらい。何世代にもわたって同じ旅を繰り返し、もはや進むべき道を疑うことすら忘れてしまった生き物だけが持つ、焦りのない確信に満ちた羽ばたきで進んでいた。
僕は屋上へと完全に這い上がった。そして、そこにいるのが自分一匹だけではないことに気づいた。
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手すりの近く、猫十匹分の体長ほど離れたところに、最近見た中でいちばん大きな猫がいた。
長い毛。クリーム色と灰色。風に吹かれて、本来の骨格よりもさらに大きく見えている。ヒマラヤンだとすぐわかった。平たく広い顔、薄い青の目、どこか豪奢な目的のためにあつらえられたパーツで組み立てられた生き物、という佇まい。彼はパラペットの縁に、とてもまっすぐ、とても静かに座っていた。顔は空へ向いている。尻尾だけが、背後のタール紙の上で、ゆっくりと不安げに揺れていた。まだ僕には気づいていない。忙しかったのだ。
とても忙しかった。耳の角度が、頭の中で計算を重ねている生き物特有のものだった。内なる数字。膨大な数字。それも、猛烈な速度の。
僕は出入口の近くに腰を下ろし、雁の列が渡り終えるのを見た。
見た?
彼は目を空から離さないまま、どうやら僕を認識していた。冷淡な声ではなかった。ただ、これから僕が何を話しかけようと、それに応えるだけの余裕が残っていないような響きだった。
鳥のこと? と僕は聞いた。
ちゃんと着けるかな。
これは、僕に明確な答えが用意されている質問ではなかった。適当な返事をしようかと考え、思い直した。雁は渡っている。彼は、起こりうるトラブルをなんとか予見しようとする生き物のような、張り詰めた必死さで空を見つめていた。
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彼から、言葉が溢れ出していた。まるで川の流れが突然、自分の方へと向かってきたかのように。
いつも、無事に着けそうには見えるんだ。でも、どうしてそんなことが言い切れる? もしも風向きが変わったら? 若いのが一羽混じっていて、まだ道を知らないのに、年上の鳥たちが遅れていることに気づかなかったら? 予期しない建物が立ち塞がったら? 先頭の鳥の調子が悪い日だったら? 鳥にだって調子の悪い日はあるよね? あるはずだ。どんなものにだって、うまくいかない日があるものだから。
彼は、普通の会話のペースを追い越すような速さで、それらを一気にまくし立てた。言葉が塊になって押し寄せる。一日中溜め込まれていたプレッシャーが、余計なことを考えまいと階段を上ってきた小さな三毛猫に向かって、一気に放出されたかのようだった。気がつけば、僕は聞き手役に仕立て上げられていた。僕はその役割を受け入れた。
最初の雁のV字は、空のほとんどを渡り終えていた。下の街は、夜へと移り変わる準備を始めていた。
ヒマラヤンは初めて頭を向け、僕を見た。薄い青の目は大きく、少し恥ずかしそうだった。耳が一センチほど寝た。
ごめん。ごめん、ごめんね。僕、こうなんだ。
彼は気を取り直した。そして、名刺でも差し出すように言った。
クモ。
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僕は少し近づいた。全部ではない。礼儀正しい半径だ。とても速くたくさん話したばかりで、まだ終わっていないかもしれない相手に対して、屋上で保つ距離。
ミケンチ、と僕は言った。
それから、役に立つかもしれないと思って、付け加えた。彼らは暖かい場所へ向かっているんだ。あのVの字はそのためにある。みんな、道を知っているんだよ。
クモは少し黙った。尻尾の揺れが遅くなった。止まりはしなかった。
数えてるんだ、彼は言った。脈絡のない独り言ではない。何かに対する答えとしてだ。毎年。去年は百八十三羽。その前は二百十二羽。数字の意味はわからない。ただ、数える。
僕は横目で彼を見た。風変わりなこだわりを持つ僕を、奇妙な目で見てくる生き物たちに、これまで何度も横目で眺められてきた。見られる側の気持ちがよく分かっていたので、顔に出さないようにした。
その数字をどうするの?
書く、彼は言った。壁に。
その言葉を咀嚼するための、短い沈黙があった。下の街では、着々と夕暮れの支度が進んでいた。路地に街灯が点々と黄色く灯り始め、僕らの下の建物から夕飯の匂いが上がり、もっと低い場所から自転車のベルの音が響いた。地平線の金色の帯はまだあったが、細くなっていた。
そして二つ目のV字が現れた。小さい。九羽。最初の群れとは違う角度で左から入ってきた。誰にも経路を相談せず、それで平気だと言っているみたいだった。
クモの姿勢全体が変わった。くつろいだわけではない。だが、全身でその光景を受け止めていた。それは、ずっと待っていた宿題を差し出された生き物が見せる、心の準備のようだった。
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僕らは二匹で空へ顔を向けた。いつのまにか、パラペットのそばに並んでいた。彼の毛は風の中で巨大だった。僕は小さく丸く、風は、ちっぽけな僕のことなど眼中にないようだった。
九羽、クモはV字が真上を通過するときに呟いた。あれは九羽だ。
彼は静かになった。雁は進んでいった。下の街は、淡々と夜への移り変わりを進めていた。
僕は、どこかの壁に、人間が気づかない引っかき傷の数字が列になっていることを考えた。変えられないものを数えるとはどういうことか。毎年、寒い屋上に立ち、去っていくものを記録すること。明確な答えや結論が出るわけでもない合計に、それでも足していくこと。それでも、それを続けるということ。
クモの尻尾は止まっていた。彼の顔には、強く何かを心配し続けて、その向こう側へ一瞬だけたどり着いた生き物の表情があった。平和、ではない。でも、あり得るすべての災難を追いかけるのは、もうやめていた。
思うんだ、彼は言った。
…夕闇がもう一段深くなった。地平線の金色は糸のように細くなった。
心配って、まだ行き場を覚えていない愛なのかもしれないね。
静かに言った。三分の一は僕に、三分の一は自分に、残りの三分の一は誰に向けるでもなく、ぽつりと呟いた。午後ずっと頭の中でこねくり回していた思いを、初めて言葉にして口に出し、それが自分の外でどう響くかを確かめるような声だった。
僕は何でも心配する。
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空がほとんどすっかり藍色になり、地平線の暖かな帯が記憶の中の細い一本の線のようになった頃、僕は金属の階段を下りた。下りるときの階段はさらに冷たかった。僕の脚は、下るという行為に対してこれっぽっちのやる気も見せてくれなかった。三つ目の踊り場で手すりのそばに立ち止まり、空を見上げた。三つ目のV字がちょうど見えた。もう遠く、数えるには小さすぎるほどだった。ほとんど、見失いそうになりながらも。消えるまでに、十一まで数えた。
十一。どこにも書かなかったし、書くための僕の壁もなかった。けれど数えた。今夜まで、一度もしたことのないことだった。冷たい踊り場に立って、数えることは数字のためではないのだとわかった。何かが誰にも見届けられないまま、ただ去っていくのを拒むこと。見送ってあげるということなのだ。クモは、自らの習慣を守る姿を僕に見せることで、そのバトンを僕に手渡してくれたのだ。
路地は街灯の光で暖かかった。地上の夕飯の匂いは、いっそう具体的で家庭的なものへと変わっていた。誰かの魚。誰かの味噌。夜を迎える町だけが持つ、人間の暖かさ。
心配って、まだ行き場を覚えていない愛なのかもしれないね。
僕はその言葉を路地へ持っていった。まだ何なのかわからないものを渡されたときのように、頭の中で何度も転がした。寒い屋上で毎年数字を壁に書いているクモのことを考えた。「見守る」ということもまた、愛着やケアのひとつの形なのだと考えた。ただ見ているだけでは何も変えられないとしても、見届けた記憶を積み重ねていくことの意味を考えた。先頭の鳥が疲れれば後ろへ下がり、別の鳥が前へ出て、そうして群れの旅が続いていくことについて考えた。
考えがまとまる前に、家に着いた。
それでよかった。途中で置いたまま、余韻を楽しんだ方がいいものもある。
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