表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ミケンチの日常生活  作者: 秘霧 輝男


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/5

第2話「雨のやむところ」

下北沢の古書店

中秋、最初の冷たい雨


☆☆☆


初めての冷たい雨に降られて、ミケンチは下北沢の小さな古書店へ逃げ込む。窓辺にいたのは、青灰色の丸い猫。紙とインクと、古い本に残った人の気配に包まれながら、ミケンチはその店で過ごす時間を少しずつ好きになっていく。


☆☆☆


あの古書店の前を、僕は百三回通ったことがある。なぜ知っているかというと、途中から数えたからだ。自分には関係のない場所だと決めたあと、それを確かめたくなることがある。


店は、駅の南側へ伸びる二本の路地のうち、狭いほうにある。古着のラックが出ていて、窓に猫の絵が貼られたレコード店がある路地ではない。もう一本のほうだ。人通りが少なくて、そのこととすでに和解しているように見える路地。看板は木で、「古本」の文字はほとんど消えかけていた。偶然なのか、とても正直なのか、僕にはいつも判断がつかなかった。自分が何の店なのか、宣伝するのをやめた店。本たちは、自分が何であるかを知っている。たぶん、必要な人は見つけるのだろう。


僕が入らなかったのは、その中に、僕が行く必要のある場所がなかったからだ。百四回目に、雨が違う判断をした。


☆☆☆


今季はじめての冷たい雨は、こちらの都合を聞いてくれない。晩夏には、一枚の劇的な幕みたいに降って十五分で消える雨がある。六月の梅雨は、灰色で、辛抱強く、徹底している。けれど中秋のどこかで、たいていは日付のわりに暑すぎる火曜日のあとで、夏をもう一午後だけ延命させているような日のあとで、本物の冷たい雨が来る。警告はしない。前触れの雲を寄こしたりもしない。ただ、さっきまでなかったのに、次の瞬間にはそこにいて、本気なのだ。


一歩目では、路地は乾いていた。次の一歩で、もう乾いていなかった。


あ、まずい、と思った。正確だったが、十分ではなかった。


僕は走った。僕の脚は設計上短い。そして走ることについて意見がある。必要なら走る。けれど一歩ごとに、この行為全体を品のないものだと記録している。古書店の戸口の暖かい黄色い四角形が半ブロック先に見えた。藍色の暖簾が、本物の雨の直前に来る冷たい風に揺れていた。使えない警告だ。暖簾をくぐり、古書店の擦れた木の床へたどり着いたころには、雨はもう毛の奥までしみこんでいた。僕はそこで滴を落としながら立った。片方の前足を振った。もう片方も振った。雨に降られた小さな猫として、この状況を哲学的な不満とともに評価した。誰のせいでもないことだけは、正確にわかっているときの不満だ。


☆☆☆


最初に気づいたのは、本ではなかった。匂いだった。


何年もそっとしておかれた紙。湿っていない。埃っぽくもない。古びている。石が古びるように。長く人が暮らした町が、それぞれの空気の残り香を持つように。辛抱強い。四十年かけて、一つの部屋の中で静かにたまってきて、今日、何の予定もない濡れた小さな猫に気づかれる準備ができていた匂い。


僕は気づいた。


棚は床から天井まで伸びていた。あの大きさの店では、つまり棚が壁そのものだということになる。あらゆる形と時代の本が、すぐには読めない仕組みで並んでいる。大まかには分野別。大まかには年代別。ときどき色別か、店主だけが内側から理解できる私的な論理に従っているようにも見えた。天井から一つだけ吊られたタングステンのランプが、その全部に暖かい光を落としていた。奥の二枚目の暖簾の向こうで、ラジオが何かやわらかく、判別できない音楽を流していた。建物が自分で鼻歌を歌っているのかもしれないくらいの低さだった。トタン屋根を叩く雨は、急に街でいちばん大きな音になっていた。けれど同時に、ひどく閉じ込められた音でもあった。外の天気を中へ運び込み、飼いならしたもの。外側の雨が、そのぶん店の中を少し暖かく感じさせていた。


僕はもう一度、前足を振った。本を見た。僕は本について何の意見も持っていなかった。けれど暖かい木の床に立ち、毛の端が少しずつ乾き始めるうちに、ひとつくらい持ってもいいような気がしてきた。


☆☆☆


主通路のいちばん奥、互いにもたれ合う古いもの同士みたいな二本の高い棚のあいだに、窓があった。ガラスは雨で銀色になっていた。その前の広い木の窓台に、一匹の見たことのない猫が座っていた。まっすぐ、少しも動かずに。


まるい。青みがかった灰色。特定の品種が本気でやる、深くてぬいぐるみのような毛並み。毛というより、とてもよくできたクッションの表面みたいだった。大きな銅色の目は、完璧な落ち着きで外の雨へ向けられている。両脇には本が積まれていて、まるで注意深い司書が蔵書の一部としてそこに置いたようだった。迷い込んだ猫には見えなかった。店が彼女を育てたように見えた。


僕がその評価の途中にいると、彼女は急がない様子で頭を向け、僕を見た。


「川端を濡らしているわ」


僕は固まった。自分の足元を見た。左前足の下にある本の表紙を見た。顔を上げた。


「……すみません」と僕は言い、前足を隣の裸の木の床へ移した。本にも川端にも深い敬意を持っている猫に見えるよう、十分に芝居がかった慎重さで。川端が何なのかは、知らなかった。


彼女はそれについて強い感情を持っているようには見えなかった。四十年ぶんの紙の匂いと、トタン屋根の雨音を長い目で見てきた猫にとって、たいていのことは本当に困るほどのことではないのだろう。


「大丈夫よ」と彼女は言った。「その人は四十年、誰かに読まれるのを待っていたの。少し濡れたくらいで午後が台なしにはならないわ」


☆☆☆


僕は窓台の下の床に座った。路地からここまでのあいだに、尊厳の置き場所が少し変わっていた。僕はもう、予定のある猫ではなかった。どこかにいる必要があって、居場所をもらった、小さな三毛だった。


「ここに住んでいるの?」と僕は聞いた。


彼女は考えた。難しいからではない。明らかに、前にも考えたことのある問いだった。正しく答えたかったのだ。


「私は匂いの中に住んでいるの」と彼女は言った。


僕は彼女を見た。彼女は雨を見ていた。


「匂い。」


「紙よ」と彼女は言った。「糊。埃ではない埃。ほとんどは古いインクで、少しだけ、これまでページをめくった人たち。」


彼女は誇らしげでもなく、見せつけるようでもなくそう言った。神社でシロが物を言ったときと似ていた。やり方は違う。シロの言葉は、静かな水に落ちる石のようだった。彼女の言葉は、ひとつの場所に長くいて、それが何でできているかを理解した者の、落ち着いた確かさで届いた。外から授かった知恵ではない。内側から、辛抱強く積もった知恵。


僕は考えた。何かに触れたすべての人でできた匂いのこと。もし読み方を知っていれば、世界のどれだけがそうやってできているのかということ。他の存在が層になり、濃く重なっている場所のこと。四十年、それを読みつづけてきた店のこと。


外では、雨が雨であることに全力を尽くしていた。


☆☆☆


僕らはしばらくそのままでいた。二匹とも窓を向き、雨で外の景色がぼやけ、ランプが内側をすべてにしていた。ラジオが鳴っていた。棚はただ静かに並んでいた。どこか背後で、一冊の本が自分の並びの中へ少し深く沈み、小さく正確な木の音を立てた。


僕は、濡れていることを考えなくなっていた。というより、ほとんど何も考えなくなっていた。店には、世界をその中にあるものだけへ狭める力があった。匂い。銀色のガラス越しの灰色の光。そして僕が入ってから一度も動かず、この先も動きそうにない、まるい青灰色の猫。時間は古書店で流れるときの流れ方をした。つまり、外とは違う速さで流れ、顔を上げるまで気づかない。


僕は顔を上げた。雨の質が変わっていた。まだ降っている。でも軽い。途切れ途切れになっている。窓の灰色が、銀白に近づいていた。


「雨、やんできましたね」と僕は言った。


「雨はいつもやむわ」とペネロペは窓から目を離さずに言った。


☆☆☆


僕は戸口を見た。外の路地は濡れて光り、静かになり始めていた。濡れた石の上に、早めについた街灯の光が一本伸びているのが見えた。僕が気づかないうちに、午後は夕方へ渡っていたらしい。そこから入ってくる冷たさは、もう本物だった。何かを証明しようとする天気の冷たさではない。雨がしに来たことを終え、温度だけを置いていったあとの冷たさ。


僕は窓台の猫を見た。


「また来たらどうなるかな」と僕は言った。「雨じゃない日に。」


彼女は目を完全に開いた。それまでは、そこまで開いていなかった。銅色で、まっすぐで、驚いてはいない。四季とそのすべての機嫌を窓越しに見てきて、時間をかけて、どの季節がいちばんいいかについて意見を持つに至った猫の目だった。


「匂いはここにあるわ」と彼女は言った。


小さな間。それから。


「私も。」


☆☆☆


僕は、出るときに出た。路地は冷たく、清潔だった。雨のあとに残る鉱物のような新しさがあり、空気が最初からやり直そうとしていた。毛は乾いていた。足先は冷たかった。歩くにつれて、古書店の黄色い光が背後へ遠ざかっていった。僕は振り返らなかった。振り返りたくなかったからではない。まだそこにあることを、もう知っていたからだ。


私は匂いの中に住んでいるの。


帰り道、その言葉を何度も転がした。人生を、自分が何の中にいたかで測ることはできるのかもしれない。四十年分のページが、誰にも見られていないときに放つ積もった気配。古いインク。辛抱強い時間。何かを開いたすべての手。僕はあの路地を百三回通り過ぎ、そこに見つけるべきものなど何もないと思っていた。百四回目に、雨が僕には何かを見つける必要があると決めた。外の世界が一時的に必要なくなっているあいだ、僕は暖かい木の床に座っていた。あらゆる合理的な予想に反して、それはまさに正しかった。


家の手前の最後の路地に入るころには、雨の降っていない日に、もう一度行くと決めていた。


それが匂いのためなのか、猫のためなのか、今でも説明できない。


たぶん、そこに意味のある違いはない。


☆☆☆



私は匂いの中に住んでいる。



☆☆☆

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ