その3
会場は30畳ほどの洋室だった。えんじ色の毛足の長い絨毯が敷き詰められていて、その上にパイプ椅子が横5席×6列に並べられている。
一番前にはヒーリング用のベッドと、その正面にホワイトボードと、施術者が座るためだろうか、椅子が二脚置かれていた。
さっきの龍との約束で「あゆみ」になった紗由が部屋に入ってきた。すでにほぼ満席で後ろの列しか空いてなかったが、とりあえず二人並んで座ることができた。
「あのね、あゆみのおばあさまは病気なの」先ほど龍に教わった設定を繰り返す紗由。
「早く治るといいね」龍がにっこり笑う。
二人の会話を聞いていた、龍の隣の老婦人が龍に声をかける。
「大丈夫よ。先生がきっと治してくださるわ。…二人は、二人だけで来ているの?」
「僕たち、関係者なんです」老婦人の顔を見て、にっこりする龍。
「あら、そうなの。坊やもそうだけど、かわいいわねえ、あゆみちゃん」
「ほめられた」うれしそうに顔をくしゃくしゃにして笑う紗由。
「ありがとうございます。…よかったね…あゆみ」紗由の目を見ながら龍が言う。
部屋の右手の入り口から美紗緒が入ってきた。
「お待たせいたしました。それでは、本日2回目のヒーリングセッションを始めることといたします。先生、どうぞ」
美紗緒が言うと、同じ入り口から禊屋が入ってきた。会場から沸き起こる拍手。禊屋は深々と頭を下げると、ヒーリングベッドの正面に立った。
「それでは始めましょう。…ご希望の方は?」
禊屋が穏やかな声で会場の聴衆に聞くと、最前列の60代の女性がすっと手を上げた。
このセッションでは、一番早く並んで会場に入った最前列の客が最初にヒーリングを受けるという暗黙の了解があるのだ。
「では、三村さん、どうぞ」
「ありがとうございます」指された女性がヒーリングベッドに向かう。
「個人セッションを2度受けていらっしゃいますが、今日はセミナーのほうですね」禊屋が優しく女性に微笑む。
「はい。私、セミナーを受けずに、雑誌を見ていきなり個人セッションに申し込んだものですから、皆さん、どんなふうになさってるのかと思って、受けることにしたんです」
「そうですか。まずは横になってください。今日は、どこか具合の悪いところは?」
「あの…先日見ていただいた、胃の辺りがまた痛み出しまして…」ベッドに横たわりながら女性が言う。
「失礼します。お腹、触りますね。…ああ、皆さんが見てるからと言って、そんなに緊張なさらないでください。胃がきゅーっとなってますよ」
禊屋が言うと、会場から笑い声が漏れる。
「あ、その辺。そこら辺が一昨日から時々痛んで…」少し苦しそうに女性が声を上げた。
「ああ。すこーし、腫れてる感じがしますね。何か気にかかることでも起こりましたか?」
「あ…はい。嫁とちょっと…」
「お嫁さんとですか。…それは胃によくありませんね。大変でしたねえ」女性の胃の両脇に手を当てる禊屋。
「ここに来ることも内緒なんですよ。いちいち五月蝿いもんですから」
「うん、まあねえ。そういう方、たくさんいらっしゃいますよ。ここへおいでの皆さんは、網の目をかいくぐって来て下さっている勇気ある方々なんです」
再び笑い声で包まれる会場。
禊屋はその後1分くらい女性の腹部に手を当て、最後に額と後頭部を両手で挟むようにして、しばらくすると、手を離して女性に声を掛けた。
「さあ、どうですか。だいぶ軽くなったでしょう」
禊屋が女性に微笑みかけると、女性は少し困惑したように彼を見上げた。
「あの…ちょっとまだ、この辺が重いんですけど」女性がまた自分の胃を押さえた。
「…そうですか。では、もう少しやってみましょうね」禊屋は同じ動作を繰り返したが、結果は同じだった。かえって不安げに禊屋を見上げる女性。会場も少しざわつき始める。
「少しご説明しておいたほうがいいかもしれませんね。なかなか実感を得られない場合というのもあるものなんです」美紗緒が話し始める。
「何度も受けていらっしゃる方は特にですが、前回以上の実感をお求めになりますから、少しわかりづらいというか、もっとよくなるはずなのにと思えてしまうことも、稀にあるんです。
ですが、ご心配は要りません。体のほうには、頭が考える以上に効いているものですから。三村さんも、そうですよ」彼女のほうを見ながら、ゆったりと優しい声で話す美紗緒。
「は、はい。すみません…」消え入るような声で答える彼女。
それを見ていた紗由が、リュックを開くとスケッチブックを取り出してめくった。
「な、何してるの?」驚いて紗由を見つめる龍。
「これで元気になるよ!」
すっくとイスの上に立ち上がり、スケッチブックを両手で頭の上に掲げる紗由に、会場中の視線が集まる。
紗由が見せたスケッチブックのページは、清流旅館へ行ったときに、龍に教わって初めて書いたものだった。そこには、“ちゆ さわり”の文字が並んでいる。“さゆ”と書き損ねのが2回、“りゅう”と書こうとして最初の“り”だけを書いたページだった。
ざわざわする会場。
だが、紗由は会場の様子など気にせずに、次をめくり、“りゆう”と書かれているページを見せた。こちらは、“りゅう”の“ゅ”が、やや大きくなってしまっていた。
父の涼一が元気をなくしていたときに、自分が初めて書いた、この字を見せたら元気になったと思っていた紗由は、他の人にもそれを見せれば元気になると思ったのだ。
「あらあら、お嬢ちゃん。だめよ、静か…」美紗緒が紗由の席へ向かおうとしたとき、禊屋がその腕をつかんで静止した。
「…先生?」
「治癒…障り…理由……治癒に障りがあるのには、理由がある。そういうことなのか?…」小声でつぶやき、青ざめる禊屋。
「しっかりなさってください」
耳元でささやく美紗緒の声にハッとし、禊屋はベッドのほうに戻って三村に言った。
「三村さん、すみません。少し時間をおいて、このセミナーの途中で、もう一度施術させてください。稀に…稀になんですが、その時の相性というか、コンディションがうまく重ならない場合があって、いったんリセットしたほうが体にはいいんです」
「は、はい。すみません…」ベッドの上で起き上がって、何度も頭を下げる三村。
その時、ベッドの上の彼女の様子を見ていた紗由は、彼女を元気にするには文字だけでは足りないと思い、次の方法に打って出た。
「まだ元気にならないので、ポンポンのおどりをします!」
イスから降りて後ろの空間で踊りを始める紗由。チアーのポンポンが今手元にないので、持っているつもりで、そのお遊戯を踊る。
懸命に手首をクイクイと曲げて、足を前に踏み出しながら、手を正面にかざすように振る仕草を繰り返す。
それがチアーのダンスだとわかっている龍には、そのようにしか見えないわけだが、お腹の痛い人間の病状がうまく回復しないヒーリング会場においては、その聴衆たちは紗由の言う“ポンポンの踊り”を、お腹を治すためのダンスというふうにしか受け取っておらず、会場の人々は食い入るように紗由の踊りを見つめていた。
「ぽんぽん! ぽんぽん!」何度も繰り返しながら踊る紗由。
その状況にあっけに取られて痛みを忘れたのか、当の三村が紗由の踊りを見ながら大声で笑い出す。「こんなにかわいいお嬢ちゃんに踊っていただいたら、治らないわけにはいきませんよね」
「げんきなった?」踊りを止めて、訪ねる紗由。
「ええ、なりましたよ」微笑む三村。
紗由は「よかったあ」と言いながら微笑み返し、イスに戻り座った。
「お嬢ちゃん…」
美紗緒が再び紗由に近づこうとした、そのとき、入り口から一人の男性が入ってきた。
「剣先生! 遅かったじゃありませんか。…ちょっと禊屋先生がお疲れなので、次のヒーリングお願いします」美紗緒がまくしたてるように言う。
「…あ、はい。わかりました」
剣と呼ばれたその男性は、禊屋と美紗緒に一礼すると会場をざっと見渡した。後列にいる龍と紗由のところで目が留まる剣。その視線に反応するかのように、龍が剣を見つめる。
“あの子は……まさか…”
“写真と同じ顔だ……”
二人の視線がもう一度クロスする。
「あ。おうまさんだ!」
紗由が叫ぶと、隣の老婦人が入り口の横の窓を見た。
「あら。隣の教会にポニーちゃんが。きっとバザーのアトラクションね」
老婦人の声で客が一斉に窓を見る。少しざわつく会場。
「帰るよ」龍は紗由の手を取ると、剣の横を通り過ぎ、急ぎ足でドアから外へ出た。
「ちょっと、あなたたち!」気づいた美紗緒が二人を追いかけようとするが、剣がそれを遮るようにドアの前に歩を進めた。「次のヒーリングにかかりましょう」
「でも、あの子たち…」
剣は美紗緒の背中を軽く押して、前に行くように促しながら、会場の人々に言った。
「すみませんでした、皆さん、お騒がせしてしまって。…たぶん、隣のバザー客の子供が紛れ込んでしまったのでしょう。禊屋先生は、お子さんも呼び寄せちゃうんですねえ」
剣の話に合わせるように美紗緒が後を続けた。
「ちゃんと帰れたかしら。送っていかなくて大丈夫だったかしら。そうそう、ついでと言っては何ですが、最近ご質問が多いんですけど、あれくらいのお子さんがセッションを受けるときの注意について、先生から少しご説明していただきましょうか」
美紗緒が促すと禊屋が説明を始め、その場は丸くおさまったような形になった。
* * *
“見つけた…”紗由の手をギュッと握りながら、龍は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
「おうまさん、いたね」ニコニコと笑う紗由。
「そうだね、いたね。一緒にちょっと駆けっこしよう。ほら、あそこの車のとこまでだよ」
「かけっこー!」龍を引っ張るように、紗由が走り出した。
車のドアが開くと、紗由が後部座席によじ登る。そして龍も足早に乗り込んだ。
「おばあさま。見つけたよ」
「ありがとう」車の中で待っていた華織が、静かな声でささやく。
「連れて来なくていいの?」
「今私が顔を出すと、ちょっとまずいかもしれないわ。居場所がわかれば、とりあえずは…。悪かったわね、無理させて。…紗由もありがとう」
華織が微笑むと紗由が頬を膨らませて言う。
「あゆみだもん」
「もういいよ。“ごっこ”はお終いだよ」
「もっとするう」
「女の子は、“ごっこ”が好きなのよ。ねえ、あゆみちゃん」
華織が頭をなでると、紗由は龍に教えられた設定を繰り返した。
「あゆみのおばあさまは病気なの」
「あらあら、早く治らないとねえ」華織は、もう一度紗由の頭をなでた。
* * *
3人が華織夫婦の仮住まいに到着すると、玄関先には周子が立っていた。
「かあさま!」
「あ。かあさまだあ!」駆け寄る紗由を抱きしめる周子。
「どういうつもりですの? 伯母様。勝手にこんなことをされては困ります! 皆どれだけ心配したか…」見る見るうちに周子の目から涙が溢れ落ちる。「もう二度と、こんなことなさらないでください!…帰るわよ、龍、紗由」
くるりと踵を返す周子を、龍がしがみついて止める。
「かあさま、違うの! ちゃんと言っていかなかった僕が悪いの。紗由も僕が連れてったの。おばあさまは悪くないの。だから、だから怒らないで。おばあさまのこと、怒らないで…!」龍の目からも涙がこぼれる。
「龍…」
「うわあぁーん」2人の様子を見ていた紗由が、大声で泣き出した。
「…ごめんなさい、周子さん。私が悪かったわ。本当にごめんなさい」頭を深々と下げる華織。
「紗由、泣かないで。ごめんね」龍がハンカチで自分の涙と紗由の涙を拭く。
「何でこんなことなさったんですか? そりゃあ、静岡に移られる前に龍ともたくさん会いたいでしょうけど、何も無断で…」手で涙を拭う周子は、まだ怒りが収まらぬ様子だ。
「…おばあさま、ちゃんと話そう。かあさまに、全部話そうよ。でないと、僕たちもう会えなくなっちゃうよ」
「そうね…」
「全部って…週末に翔太くんと行くことになってた宝探しとやらですか? そのために龍はここに来たんですよね。それなら玲香さんからうかがいました。何のイベントか知りませんが、ちゃんとお話してくださればいいじゃありませんか」
「話したら、かあさまは反対したよ。ていうか、きっと理解できなかった」下を向く龍。
「何を言ってるの?」
「…龍、わかったわ。おばあさまが、ちゃんと話すわ。周子さん、中で話しましょう」
* * *
「じゃあ、私のせいで2人は…」
「違うわ、周子さん。あなたの“ために”2人は頑張ろうと思ったのよ。それに、私がもっと心配をかけないで済むやり方をすればよかった。…ただ、今回時間がなくて」
「紗由が急に反応したものだから、予定を早めたんだ。見つからなくなっちゃうと困るから。ごめんね、かあさま、心配かけて」
「じゃあ、あの針水晶を持っているときの、あの感覚は…」
「そう。その影響ね」
「私は…私はこのままだと、龍や紗由の傍にはいられないんですか?」苦痛に満ちた表情で聞く周子。
「龍は、もう自分で調整ができるから、心配は要らないわ。…でも、紗由のほうは正直わからないの。影響しあった結果が、心身にどんな結果をもたらすのかは」
「伯母様の力で、おわかりにならないんですか?」
「かあさま、“命”の力は、まったく使えない時期もあるんだ。おばあさまは、今、“命”に戻るまでの準備期間で、力が制限されてる。僕もだよ。だから紗由の力を借りた」
「紗由は、これまでの誰よりも、力が出たのが早いものだから、先の状態をはかりかねる部分があるの。…でも、今の私にも近しい人間の危険ぐらいは察知できるわ。龍だって、あなたの異変に気づいたわけだし。
ただ、私にそれが降りてきてからじゃ、たぶん何もできない。事前に軌道修正しておかないと…」
「伯母様、お願いです。私を、私をこの子達の傍にいさせてください」泣き崩れる周子の肩をやさしく抱きながら、華織は静かに目を閉じた。
* * *
1ヵ月ほど前のことだ。華織と躍太郎が戻ってしばらくして、龍が2人を訪ねてきた。
「おばあさま。このままだと、まずいかも。僕じゃ、できなかった。どうしよう…」
「どうしたんだ、龍」いつになく動揺している龍を心配して、躍太郎が顔を覗き込む。
「かあさまが紗由の力に反応してるよ。紗由が、何だかすごく波があるような気がしたから、気をつけて見てたんだけど、その波の原因は、かあさまなんだ」
「母親だし、紗由に力の兆候が出て以来、状態を心配して、神経が敏感になってるんじゃ?」
「グランパたちがいない間は、そうかと思ってた。でも、かあさまは、紗由がいなくても羽龍の水晶を持ってるとき、僕の考えを読んだりできてるみたいなんだ。
僕が入ろうとすると閉じちゃう感じがするんだけど、でも、僕が以前はこうだったでしょうとか、かあさまが知らないはずの前のことを言って僕を叱ったり…とにかく変なんだよ」
「それは、私たちのように、思念を直接読み取れるということ?」
「紗由との間では、そう見える。紗由が、そのやり方を他の人の前でやると困るから、ちゃんと言葉で話をするようにって、僕はいつも言ってるんだ。おばあさまに教わったように、ちゃんと普通の人のルールでしゃべらなくちゃだめだって。
でも…かあさまは、意識してないのかもしれないけど、時々紗由に直接話しかけてる。紗由もそれに答えてて、紗由は、それが当たり前だと思い始めてて、かあさまが答えないと…ていうか、答えられるときと、そうでない時があるんだと思う、かあさまは。それに対して紗由が不安になって、泣き出したり、怒ったりしてて」
「涼一は気づいてるの?」
「とうさまは紗由が反抗期だと思ってるみたい。でも、あのままだと、紗由は…ええと、情緒不安定ってやつになっちゃうよ」華織を厳しい表情で見上げる龍。
「そうなの…」華織が、じっと考え込む。
「彼女、血筋的にはどうなんだ?」
「鷹司の家の出だから、可能性がないわけじゃないけど、見ている限りだとねえ…」
「紗由の力が現れる前は、そんなことなかったよ。どっちかというと、そういうのに鈍い人っていうか…」
「そうよね」華織が苦笑する。
「じゃあ、どういう可能性が考えられるんだ?」華織に聞く躍太郎。
「そうね…後天的なものだとすれば、病気や事故が原因で脳の機能に変化が起きたり、あとは、その手のことを学んだり修行したりして、能力を身に着けるか…」
「事故…。もしかして、龍を助けて、こん睡状態に陥った、あれか?」
「可能性はあるけど、紗由のパターンに感応できる形になるとは限らないわ。むしろ…」
「むしろ?」
「可能性として高いのは、事故のとき、天馬がとっさに彼女に“伝授”した…」
「おとうさんが、かあさまの能力を開いたの?」驚いて華織を見る龍。
「そんな…。いくらなんでも、崖から落ちる寸前の1、2分で、しかも真央さんの運転を止めながら、まっとうな伝授なんて、できるわけないじゃないか」躍太郎が首を振る。
「それでも必死だったんでしょう。将来的に龍を任せる人間が必要だと思ったから。…結果は不十分だったにしても」
「…不十分だったということか」
3人は、しばし目線を落として考えていた。
「とにかく、このままじゃ紗由が、ややこしいことになるな」
「ええ。周子さんは制御できないようだし」
「どうする。例えば…おまえが伝授し直せないのか」
「今は難しいかもしれないけど…そうね、ちょっと待ってて。遠隔でやってみるわ」
華織はそう言うと、羽龍を持って奥の部屋へと向かった。
「グランパ…」不安そうに見上げる龍の頭を、躍太郎は優しく撫でた。
「大丈夫だよ」
15分ほどして、華織が戻ってきた。難しい顔をしている。
「うまく反応しないわ。私の開き具合の問題だけじゃなくて、タイミングもあるし…」
「おまえ以外なら誰ができそうだ?」
「“開かれた童”といっしょなら、チャクラの具合を確認しながらできるから、今の私にもできるかもしれないわ。あとは…天馬自身か。……そうね…あとは、風馬かしら」
「風馬か…」
「ここは翔太くんの力を借りましょう」
「年齢的に大丈夫なのか? 確かまだ6歳だろ」
「大丈夫だと思うよ、グランパ。翔太くんは、もう開きかけてる。羽童に触れた後、しばらくなら胸のピカピカが見えるんだ。それって、チャクラを見分けられるってことでしょ」
「ええ、そうよ」
「それに、紗由と翔太くんは探し物が得意なタイプだから、2人に頼めば風馬おじさんを探せるかもしれないよ」
「そうね。とりあえず伊勢にもう一度行って来るわ。方法を探してみる」
そう言うと華織は、寝室に行き、慣れた手つきでスーツケースに荷物を詰め始めた。
* * *
「先生、気になさることなんてありませんわ」今日のセミナーでの一連の出来事を聞いた木下は、禊屋の部屋を訪れていた。
「あまりお気になさらず…今日は2人でゆっくり休みましょう」木下が、禊屋の肩に手を掛け、彼の頬をゆっくりと撫でる。
「…一人にしてくれないか。疲れてるんだ」彼女の手を払いのける禊屋。
「先生…!」
「一人にしてくれ!」禊屋は苛立ったように部屋を出て行った。
「先生!」
駆け寄る木下の前でドアがバタンと閉まった。ドアを思い切り殴る木下。
“あの女…あの女のせいよ。彼女が来てから先生は、あんなふうに…”
木下は唇を噛みながら、彼がどこへ行ったのかを確信しながら、拳を強く握り締めた。
「許さない…」
木下は自分の部屋に戻ると、ベッドに突っ伏し、ロケットペンダントに入れてある写真を眺めた。そこには、幼い女の子が写っている。木下の目から、涙が溢れ落ちた。
“先生のために、私はこの子を捨てたのに。それまでの仕事も捨てたのに…。先生のことを世間に知られるまでにしたのは私なのに…。また、こんな…。どうして何度もこんな…”
木下の心の中には、禊屋を自分から奪った美紗緒への憎しみと、置いてきた子供への罪悪感、そして絶望感が渦巻いていた。
元々、山口の片田舎で整体師を本職として、ヒーリングを細々と営んでいた関根を、東京へ連れ出したのは木下だった。
出版社で雑誌の営業をやっていた関係で、広告の打ち方、読者の気の引き方を熟知していた木下は、代替医療を取り扱う専門誌のページを買い、関根のセッションの体験談を交えた広告記事を書かせ、クライアント数を増やした。
その後、彼に事務所を構えさせ、彼のヒーリング手法を伝授するセミナーを企画し、成功させ、その結果、業界で彼の名前はそれなりに知られるところとなった。いわば、禊屋というヒーラーは、彼女のマネジメントの産物とも言えるものだった。
最初は、純粋に彼のヒーリング能力に傾倒し、仕事の傍ら、彼の仕事を手伝っていたに過ぎなかった木下だが、やがて男女の関係となり、それが夫に知られて離婚することになった。
当時まだ2歳だった娘は、夫が親権を得た。
そして、社内でもうわさが広がり、居づらくなった彼女は、退社して禊屋の弟子として再出発をする道を選んだ。3年前のことだ。
彼女にとっては、すべてを投げ打って禊屋に賭けたのだ。その禊屋を横から出てきて奪った美紗緒の存在は、苦々しいものでしかない。
最初は、決して女癖がいいとは言えない禊屋の、よくある一時的な気の迷い程度にしか思っていなかった木下だった。年齢的にも。どうせ、いつものように、青い桜を見たくないかとか、奇跡を実感してみないかとか何とか、いつもの口説き文句で彼女を誘ったんだろうと。
だが、実際にヒーリングの心得もあり、彼をいい形でサポートする美紗緒に時を重ねるに連れ心惹かれていく禊屋の様子は、これまでにない危機感を木下に感じさせた。
“このままで引き下がったりするものか…”
木下は、ロケットを首からはずすと、バッグの奥へしまいこみ、唇を強く噛んだ。
* * *
「美紗緒、いるかい?」
禊屋が美紗緒の部屋をノックすると、美紗緒が静かにドアを開けた。
「先生…すみませんでした、先生…」
目に涙を浮かべて謝る美紗緒を、禊屋が抱きしめる。
「おまえのせいじゃない。私が悪いんだ。…ちゃんと施術できなくなってしまったことも、彼女との関係を断ち切れずにいることも。全部、全部私のせいだ」
「いいんです。木下さんは、先生にとって必要な方です。わかってますから…」
「今日はもう、それ以上言わないでくれ」
美紗緒は、自分をいっそう強く自分を抱きしめる禊屋に、されるがままでいた。
* * *
剣は、さっきの子供たちの顔を思い出していた。
“あの子はたぶん……いや、間違いない。でも、どうして?…”
そして剣は、あの夢の意味を、もう一度考えていた。
懐かしい顔。いくつかの懐かしい顔と、知らない顔。でも、皆が笑っている。
変わる場面。
彼の叫び。彼女の叫び。
再び変わる場面。
あの人が自分を必要としている。そして、自分が今ここにいるのは、あの人を待つためなのか…。
剣は目を閉じ、心の中でその人に呼びかけた。
だが、彼の心に届く返事はなかった。
* * *




