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その16


「今…何時や?」

「2時…50分よ」時計を見て答える木下。

「5時までに返してくれへんかなあ。今日は団体さん来るんで、夕飯の支度忙しいんや」

“まだ、そんなに時間は経ってないんやな。かくれんぼをする前に携帯の時計を見たら、2時20分くらいだった。うちから雀まで車で来たら10分くらいかかるし、かくれんぼの途中やから、俺がいないこと気づくまで、けっこう時間がかかるよなあ。…ちうことは、まさか紗由ちゃん、一緒に車に乗ってたんか?”

「欲しいものを渡してくれたら、ちゃんと返してあげるわ」

「だから、龍の玉は清流にはないんや」

「でも、さっき渡された羽童はあるでしょう?」

「ああ。けど、俺がこのままの状態じゃ、それだけ渡しても使えへんわ」

「どういうこと?」

「このままじゃ、印が結べへん。手が結ばれてるしな」

 印とは、密教で使われる、指を使ったポーズ、まじないの一種だ。“命”が拠るところの神道上でのものではないが、おそらく彼女は、そこまで詳しく知らないないだろうと思った翔太は、いちかばちか打って出た。

「印…」

 慌てて翔太の体を結んだ紐と、手首の紐を解く木下。

 上半身が自由になった翔太は、着ているフィッシングベストのジャケットを、あちこち探った。

“影童様とスマホはあるな”

 翔太は、ベストから影童を取り出して木下に一度示すと、くるりと背を向け、影童を頭上にかざしたあと、胸の前で手を組み、「はっ!」という声を何度か発した。

 そして、再度影童を頭上にかざすと、木下のほうに向き直って、それを彼女に渡した。

“この前といい、ごめんな。いっつも、ごめん。我慢してな”

「普通はすぐに、どうこういうもんやない。関根はんは元々力の強い人やから、しばらくすると、体がすっきりするような感覚になったらしいけどな。…どや?」

「暖かい…。体が熱くなってきた」幸せそうに影童の像に頬ずりする木下。

“玲ちゃんが言ってた通り、この手のねえさんは、暗示にかかりやすそうや”

「しばらく持っとればええ。今、うちで渡せるのは羽童だけやし、どのみち、龍の玉を使うには時間がかかるんや。俺かて、まだ見習いの見習いや」


 木下の息遣いが荒くなってきた時、窓をコンコンと叩く音がした。

 振り向いた翔太の視線の先には、にっこり笑っている紗由がいた。

“うわあ!”

「…誰?」

 ふらりと立ち上がった木下が窓に向かって歩み寄る。翔太も近づこうとするが、足を縛られていたので、うまく立ち上がれず、慌てて紐をほどく。

 木下が窓を開けると、紗由が元気に挨拶をした。

「こんにちはあ!」

「お嬢ちゃん、どうやってここのお庭に入ってきたの?…ここはおばさんのお部屋のところだから、ママのところに帰りましょうね」優しく言う木下。

 紗由は木下に向かって首を横に振ると、にっこり笑って言った。

「さいとうあゆみです! もうすぐ、よっつです!」右手で数字の4を示す紗由。

「ないとうあゆみ…?」紗由の言葉を聴き間違えた女は震える声で聞き返した。「あゆみちゃんて言うの…?」

「はい!」

 その返事に黙り込む木下。


「おねえさんの言うとおりや。ママんとこ帰りぃ!」

 翔太が木下の背後から声をかけると、木下はハッとわれに返った。

「お外、暑いわね。お部屋に入りましょうか」

 木下はそう言うと、紗由をそっと抱き上げて部屋の中に入れた。

「その子は関係ないやろ。これ以上誘拐してどないするん!」

「あゆみちゃんて言うのね…」紗由の頬をそーっと撫でる木下。

“大丈夫よ、翔太くん”

 その時、翔太の頭の中で知っている声が響いた。

「え…?」

“翔太くん! 紗由の龍の玉をその人に渡して。そうしたら逃げて!”

 声はそれっきり聞こえなくなったが、紗由のほうを見ると、紗由はこくんとうなずいた。

「さゆちゃん…」思わず声に出す翔太。


「もしかして、この子を知ってるの?」翔太のほうを振り返る木下。

 翔太は一瞬返答に窮した。知っていると言ってしまって大丈夫なものなのか、翔太には判断がつきかねていたのだ。

「知ってるのね…」

「ないとうあゆみって誰や」咄嗟に言葉が口をついて出る。

「…あゆみちゃんね、おばさんの娘と同じ名前なの」

 直接翔太には答えず、紗由の頭を撫でながら言う木下。

「関根はんの子供なんか? 舞喜ちゃん、子供が一緒やなんて言うてへんかったで」

「…別れた主人のところにいるわ」

 翔太はその時、彼女のぴかぴかの一部分が、腐りかけたリンゴみたいに傷んでいるのに気が付いた。傷んだ跡は3つある。

“いっこは、あゆみちゃんのことなんやな…。あとは、関根はんが美紗緒さんと行ってしもたことか?”

「ねえ、あゆみちゃん。おばさんちの子にならない? おばさん、お金持ちだから、きれいなお洋服やおもちゃ、いーっぱい買ってあげるよ」

 彼女の言葉に黙り込む紗由。

“…あ、やばい。紗由ちゃんこと、かわええ思う気持ちが、どんどん強うなっとる。俺やのうて、紗由ちゃんこと連れてきたがっとる。俺んときみたいに、「ならへん!」てすぐに断ったら、腹立てるかもしれへんから、だめやぞ”

 はらはらしながら二人を見つめる翔太。

「子供なら作ればええやん。べっぴんさんやし、なんぼでも結婚したい人おるやろ」

「おともだちなら、いいよ」木下を見上げる紗由。

「え?」

「おねえさんちのこどもには、なれないけど、おともだちになる」紗由がにっこり笑う。

「あ…」木下の目から涙が零れ落ちた。「ありがとう…」


「おにんぎょう、だして」

 紗由が木下に言う。一瞬言われた意味がわからずに、ぽかんと紗由を見つめるが、もう一度言われて羽童のことなのだと気づき、それに従う木下。

「はい! おともだちのしるしだよ」

 紗由がポシェットから天珠を取り出し、羽童の腕の中に入れて、木下に差し出す。

「あ、ありがとう…」木下は羽童と天珠を受け取った。

 だが、次の瞬間、まるで雷に打たれたかのように彼女の体は崩れ落ちた。

「あ!」

「木下はん!」

 叫ぶ紗由と翔太。

 仰向けに倒れた彼女のジャケットの下からは、ゴールドにスワロフスキーをあしらったベルトがのぞいていた。


「ほーでんばんど!」

 キラキラしたベルトを見ながら叫ぶ紗由。周子と玲香が話していた腰痛ベルトのことを思い出したのだ。

 意識を失いかけていた木下が、紗由の言葉をまた聞き違えて反応した。「好転反応?…」

 好転反応というのは、代替医療用語で、何か施療をしたときに一時的に症状が悪化することを指す。ヒーリング関係者の間では、毒出しと言った呼ばれ方をすることもある。

 6歳にしてはかなり博識な翔太だが、ヒーリングの専門用語などまで知る由もなく、彼女の言葉は理解出来なかった。当然、彼女が倒れた理由もわからない。翔太の場合、羽童や龍の玉を持ったときに具合が悪くなったりはしなかったからだ。

 そして、天珠を渡して逃げろという龍の声も、相手がそれに気を取られた隙に逃げ出せという意味だと思っていた。

“この天珠…”

 木下の意識はさらに朦朧とし始めたが、翔太の声は聞こえていた。

「違う。これはそんなもんやない」

「わるいことすると、やられちゃうんだよ」

「せやけど…」


 翔太はベストのジャケットからスマホを取り出したが、つながらなかった。

“救急車呼ばな…”

 紗由の手を取り、外に飛び出そうかと思った瞬間、木下は右手で頭を押さえながら、上半身を起こした。

「だいじょぶか?」

 翔太が木下に声をかけると、彼女は右手で頭を抑えたまま、左手で翔太の腕をつかんだ。

「まだ…用事は済んでないわ…」

「…わかったから、寝とき」

 翔太は彼女の腕を振り払おうともせず、そのまま寝かせた。


「紗由ちゃん、廊下から表の入り口んとこ行って、舞喜ちゃんに救急車、呼んでもろてや。それと、迎えに来てってかあさまに電話してもらうんや。はよ行き!」

「しょうたくんは…?」

 紗由が聞くと翔太は言った。「救急車待っとるわ」

「あゆちゃん…」苦しそうな息で、紗由を呼ぶ木下。「行か…ないで…」

「…さゆもいる」

「あかん。はよ、行きや!」

「おともだちだもん! さゆ、おねえさんとおともだちになったもん!」

 紗由が苦しそうにしている木下の手を握る。その手の上に手を重ねる翔太。しばらくそのままでいるが、木下の苦しそうな様子はよくならない。

“おねえさん、ごめん。俺、ヒーリングとかでけへんのや。やっぱり救急車呼ばな…”

 考えあぐねた翔太は、ある案を思いついた。

「紗由ちゃん、おばあさまに聞いてや。どないしたら、具合がよくなるか、聞いてみてや!」

「はい!」紗由は静かに目を閉じた。


  *  *  *


「紗由の靴と、翔太の二足目のスニーカーだ。一緒に動いてる。…やっぱり雀のお宿だ」

「賢ちゃん…」心配そうな声の周子。

「翔太のノートにも、雀のお宿とおぼしき絵が残ってた。間違いないよ。あれが正夢なら、2人は助かるから大丈夫だ。安心して、周子さん」

 2人がいなくなったと聞いて、瞬間的にノートのことを思い出した賢児は、玲香に言って翔太の部屋を見せてもらった。

 部屋には、賢児がアドバイスしたとおりの場所に、紫のノートが貼り付けられていた。


「そうですよ。大丈夫です。絶対に、絶対に大丈夫です」

 きっぱりとした声で言う玲香。声の確かさとは裏腹に、震える手をぎゅっと握り締めたままだ。

「伯母さんと龍が、二人揃って大丈夫だと言ってた。その後、二人で部屋にこもったということは、たぶん何かしてるんだろう。通信…のようなことを」

「そうよね。…紗由に何かあったら、今の私なら…わかるはず」唇を噛み締める周子。

「でも、鈴音さん、どうしてあんなに落ち着いてたんだろう。玲香に任せるって、この前の誘拐騒動のときのこと考えたら、ありえなくないか?」

「…確かに」賢児に指摘されて初めて気が付く玲香。「義兄さんは出かけてたけど、父さんには話は伝わってるはずなのに、玄関にも出てこなかった。…ありえないです」

「…ということは、起こるべくして、起こったことなのかもな。彼らも納得済みで」

「そうね。ある程度、彼らはわかっていたんじゃないかしら」周子がつぶやく。「でも、あの龍が最初は慌ててたから、どういう形で“それ”が起こるのかまでは、わかってなかったのかもしれないけど…」

「そういうこと…ですか…。でも、いったい誰が…」うつむく玲香。

「このノート、ちゃんと検証していけば何かわかるのかしら」

 周子の言葉に、翔太の夢ノートをもう一度めくり直す玲香。

「そうですね。漫画の吹き出しの部分、言葉で書いてある部分ばかり気にしてましたけど…」

「むしろ絵のほうが情報量多いんだからな。翔太が神様との交換日記で、無駄なことを書くとも思えない。もう一度確認してみてくれ」

 賢児に言われて、玲香はノートを再度見直した。途中でふと玲香の手が止まる。

「賢児さま…これ、床の間の端に見えるこれって、もしかしたら…」


  *  *  *


「あのね、おにんぎょうと、おめめのほうせき、かえしてくれたら、だいじょぶだって」

 紗由が言うと翔太が木下に話しかけた。

「ねえさん、だいじょぶか?…苦しいんなら…人形、はなしいや。たぶん、楽になる」

「だめ…これを…あの人にあげたいの…」息苦しそうにしながら言う木下。

「関根はんにヒーリングさせるためか?」

「先生は…それがなかったら、だめなの…」

“この人、美紗緒さんより、ずっとずっと関根さんこと、好きや…”

 恋愛のことを深くわかるはずのない翔太にも、彼女の思いの切なさが伝わってきて、苦しい思いに包まれた。

「ねえさんが元気にならへんと、渡されへんやろ!」羽童と龍の玉を取り上げる翔太。

「あ…」木下は両手を前に伸ばしたが、吸い込まれるように目を閉じ、眠りに落ちた。

「木下はん!」


“翔太くん、紗由。彼女なら大丈夫。目が覚めたときには体は元に戻っているわ。だから、あなたたちも元の場所へ、清流へお戻りなさい”

「紗由ちゃん、行くで」翔太が立ち上がり、紗由の手を握る。

「まって」紗由はポシェットの中身を広げた。

「あった!」

 紗由は眠っている木下の胸の上に、自分が折った折り紙の鶴を置くと、中身をポシェットにしまった。

「じゃあ、行くで」

「うん」

 二人は部屋を出ると、表玄関へ続く廊下を走り出した。


  *  *  *


 木下が残された部屋の押入れの襖が開くと、その向こうから一人の男が現れた。

「意外な展開だったな…。まあ、それもありだろうけど」

 男は木下に近づくと、彼女の首の脈を確認し、額から足のほうまで、さーっと左手を流れるようにかざした。

「こんな状態の人に持たせるなんて、劇薬与えるようなものじゃないか。まったく、あの人と来たら昔から…」

 溜め息をつくと、男は彼女の額にそっと右手を当て、目を閉じた。


  *  *  *


 翔太と紗由が玄関に行くと、ちょうど車を降りて駆け込んでくる玲香たちの姿が見えた。

「翔太! 紗由ちゃん!」

「玲ちゃん!」

「かあさま!」

 靴を部屋で脱がされていたにもかかわらず、紗由は一目散に外へ駆け出し、周子の胸に飛び込んだ。

「紗由!」力いっぱい抱きしめる周子。

「あのね、あのね、かくれんぼしてたの。くるまにかくれたの。もうふかけたら、おねむになって、とりさんちだったの…」

「んもう…紗由はかくれんぼ禁止よ」周子が目に涙を浮かべる。

「そうだな。かくれんぼはダメだからな」唇をかんで紗由の頭を撫でる賢児。


 玄関の石畳のところに旅館のサンダルを履いて、翔太が表に出てくる。

「翔太…大丈夫? どこも怪我はない? 平気?」

 翔太に駆け寄った玲香が、翔太の肩をつかんでから、体を撫で回す。

「くすぐったいわ、玲ちゃん」

「いったい、どうしたっていうの?」翔太の頬に手をやりながら尋ねる玲香。

「あ…えーと、かくれんぼしてたら、車が出てもうたみたいで…」

「誰の車に乗って来たの? 車の人はどこ?」

「さあ…」

「旅館の中から出てくるって、いったいどこにいたの。何で電話しなかったの」

「具合悪うなって倒れた人がおって、携帯通じんかったから、舞喜ちゃんに知らせよう思うて出てきたら、玲ちゃんがおった」

「具合の悪い人? 倒れちゃってるの? あ…じゃあ、早く舞喜ちゃんに知らせないとね」

 玲香が玄関の中に上がりこみ、フロントの女性にもその旨を告げ、舞喜雄がいるという帳場のほうへと向かった。


「翔太…。無事でよかった」

 玲香と入れ違いに翔太のところへ来て、頭を撫でる賢児。

「賢ちゃん…。ごめんな」

 うつむく翔太に賢児は言った。

「なあ。今のおまえにどこまで答えられるのかわかんないけど、とりあえず聞いておくよ。紗由と一緒に示し合わせて車に隠れたのか?」

「そんなこと、せえへん」

「そうだよな。車のドアが開いてたとしたら、紗由が隠れるのはわかる。乗って隠れたら寝ちゃって、気づいたらここにいた。紗由の言うのは、そのとおりなんだろう。でも、おまえが宿に来た車、つまりお客さんや業者さんの車で、そんなことするとは思えないんだよ。むしろ、紗由がそんなことするのを見てたら止めるだろう」

 黙りこむ翔太。

「それに、鬼は普通隠れない」

「あ…」

「もし隠れたとしても、紗由のようにすぐ寝ないだろうし、車が走ったとしたら、その時点で声かけるよな。だって、どこに連れて行かれるか、わからないわけだから」

「…」

「すぐに電話しなかったのも変だ。電話が通じないということは、電波が届かないのか電池切れかはしらないが、舞喜雄くんに伝えればいいだけの話だ。前回のこともある。まっさきにおかんに連絡するだろ。紗由が一緒なら、なお更だ」

「それは…」

「…ということは、電話できない状態だったんだ、物理的に。関根さんの弟子の女性が一緒だったんだろ? ノートの絵、床の間の絵の端に描かれていたのは着物なんだろ?」

 翔太が困った顔でうつむいていると、玄関から玲香の声がした。

「翔太! 具合の悪い人ってどこ?」

「ごめん、賢ちゃん。俺、行くわ!」

 翔太は一目散に玲香のところに駆け出した。


  *  *  *


 玲香を部屋に案内しながら、翔太は考えていた。

“連れてっても、ええもんなんやろか。誘拐がばれてまうなあ。誘拐は悪いことやけど、なんや、すっきりせえへん。この感じ、何なんや…”

「ここね…」

 玲香が舞喜雄の腕を引っ張りながら、部屋に入った。

 だが、部屋には誰もいない。

「翔太、どこにいるの、その人」

「え?」

 木下がいたはずの場所に、彼女はいなかった。慌ててトイレやバスルームを探す翔太。

「なんでや!」

 周子に手をつながれて後から入ってきた紗由が、キョロキョロしながら翔太に言う。

「おねえさんは?」

「おらへん。…どういうことや?」

「ここ…木下さんが使ってる部屋だけど」

 わけのわからぬ顔をしながらも、舞喜雄がとりあえず知っていることを皆に告げる。

「関根さんの弟子のだね?」確認する賢児。

「は、はい」

「具合がよくなって、お部屋を出て行かれたのかしら?…」

 周子が言うと、紗由が笑った。

「じゃあ、かえろう!」

「…そやな。もう用ないし」

 そう言いつつ、翔太は考えていた。

“紗由ちゃんが渡した折鶴もあらへん。意識が戻って自分で持って行ったということやろか”

「用がないって、それはそうだけど…どこかで倒れていたりしたら大変でしょ」

「玲ちゃん、あとはうちの人間で宿の中と周囲を探すよ」舞喜雄が言う。

「…そうね。じゃあ、お願いするわ」

「うん。後で連絡するね」

 舞喜雄はそう言うと、足早に帳場のほうに向かって行った。


“あ。さゆのおててだ!”

「え?」

 紗由が心の中でつぶやいたのを聞き取った翔太と周子が同時に叫ぶ。

「どうしたんですか?」周子に問いかける玲香。

 だが、周子も翔太もその声には反応することなく、紗由が手にとって眺めていた絵に近寄り、覗き込んだ。

 その絵には、舞い落ちるいくつもヒマワリの花と、それを受け取るように差し出された両手が描かれている。

「さっきはなかったやん、これ…」つぶやく翔太。

 周子は、紗由の右手を額縁から離させ、掌を広げると、その絵の中の手と見比べた。

「見て…同じ」

 そう言われて、賢児と玲香が覗き込む。手相の線をひとつひとつ指差しながら見比べる玲香。

「…おんなじです。右手の二重の頭脳線に、左手の神秘線…それから上下を突き抜ける運命線。特徴的なところだけ見ても、同じです」

「絵のモデルになったことあるの?」

 賢児が周子に確認すると、周子は静かに首を横に振った。

“…でも、このタッチは…まさか…”

「さゆのだよ!」ニコニコと皆を見回す紗由。

「そうね。紗由ちゃんのだわ」玲香は紗由に微笑み返すと紗由に言った。

「でも、きっとこのお部屋の人の持ち物だから、お家には持って帰れないわね。だから、写真に撮っておきましょうね」

 玲香はそう言うとスマホで写真を3枚撮った。


  *  *  *


 清流まで帰る車の中、翔太の隣で玲香が尋ねた。

「ねえ、翔太も車で雀に行ったのよね。運転してた人は知ってる人なの?」

「車乗ってた記憶ないから、わからへんわ。気が付いたら部屋だったし」

「木下さんが翔太を連れて行ったの?」

「…気が付いたら部屋の中で、襖の模様で舞喜ちゃんちだなあ、思うて、紗由ちゃんが窓から入ってきて、女の人が倒れて…」

「かくれんぼのとき、車に隠れたの?」

「…隠れへん」

「記憶がなかったって、誰かに何かされたの? 体の具合は大丈夫?」

「だいじょぶや」

「なら、いいわ。…言えないこともあるんだろうし。でも…私は教えてもらえないから、翔太が危ない目に遭っても、どうしていいか、わからない…」玲香は両手で顔を覆った。

「玲ちゃん、泣かんといて。…ごめん、心配掛けて。…でも、俺も、全部わかってるわけやないんや。ごめん、ごめんな、玲ちゃん…」翔太の目から、涙がぽろぽろと零れ落ちる。

 二人の会話を聞きながら、運転席の賢児が言った。

「玲香、翔太はもっと辛いんだよ。おまえが泣いたら駄目だ」

「賢児さま…」

「3ヵ月すれば、俺たちにも教えてもらえるんだろ? 翔太が誘拐だと言って警察に行こうとしないのなら、それは事件じゃないんだよ」

「賢ちゃん…。あんな…」

 話しかける翔太を遮るように賢児が言った。

「だけど今回のことも、いろんな人を巻き込んでいることには変わりはない。…特別な力があるからと言って、力を持たない人を巻き込んでいいはずはないんだ。そんなもの、ありがたがるようなものじゃない」

「賢ちゃん、伯母さまは、そんな…」慌てたように周子が言う。

「周子さん。俺は一言も伯母さんのことだなんて言ってないよ」

「あ…」

 信号が変わると、賢児はアクセルを踏み入れた。


  *  *  *


「賢児さま…やっぱり、そうです」ノートパソコンの画面を差し出しながら言う玲香。

「なに?」

「さっきの絵にされていたサインです。これ」

 賢児が覗き込みながら、文字を読む。「シー・エイチ・アール・ワイ・エス・エー・オー…最後はアールだろうか」

「Chrysaor…クリュサオルです。黄金の剣を持つ者…」

「どういうこと?」

「クリュサオルというのは天馬ペガサスの双子の弟の名前で、黄金の剣を持つ者という意味なんです。“剣”を持つ者」剣を強調する玲香。

「まさか…剣という人が、天馬の弟の風馬ということなのか?」驚く賢児。

「わかりません。でも、紗由ちゃんの掌をあんなに正確に描けるって…」

「伯母さんに確認する必要がありそうだな」

 賢児は立ち上がると、右手を握り締めた。


  *  *  *


「伯母さんたち、東京に戻ったんですか?」眉間にしわを寄せる賢児。

「いつ? 今日はお泊りになる予定だったんじゃ…」鈴音に確認する玲香。

「そうなんだけど、急な来客で、どうしてもお戻りにならないとと、おっしゃって…」

「いいじゃない。僕たちも東京に戻るんだから。用事があるなら、そのまま、おばあさまの家に行けばいいよ」部屋に入ってきた龍が言う。

「おまえは本当にすごいよなあ。…俺がおまえの歳の時に、そんなふうに納得したりなんて、絶対にできなかったよ。ある意味、そういう教育をした伯母さんもすごいんだろうけど…」諦め半分、呆れた感半分で言う賢児。

「…僕は、今回はパスできただけで、いずれは継ぐんだ。ずーっとずーっと先だけどね」

「龍…」心配そうに龍を見る周子。

「かあさま、大丈夫だよ。今の紗由じゃ継げない。身近な人間のことを読んだりする力があるから、力が強いように見えるかもしれないけど、そういうのは、下のほうだから」

「下のほうって?」不思議そうに聞く賢児。

「うーん。このくらいは話してもいいかなあ。…受け取ることは最重要課題じゃないんだ。それができる人間は、けっこういるから。問題は、受け取った後に、それをどう処理できるかってこと」

「処理?」玲香も不思議そうに聞く。

「最終的にみんなが幸せになるように、しなきゃいけないんだ、“命”は」

 龍は微笑みながらそう言うと、周子の横で寝ている紗由を静かに見つめた。


 そこへノックをして部屋に入ってくる翔太。

 鈴音は彼の手を引いて玲香の前に連れて来ると、言った。

「この子も東京へ連れて行って。“命”様のところへ」

「え? だって鈴ちゃん、今日こんなことになったばかりなのに…」

 姉の真意を読み取れずに玲香がとまどっていると、翔太がきりっとした表情で玲香を見上げる。

「神様からリクエストされたら、行かんわけいかんやろ」

「…いいんですか、鈴音さん」賢児も困惑気味だ。

「よろしくお願いいたします」丁寧に頭を下げる鈴音。

「いっしょに、おうまさんにあいにいくんだよね!」

 ノックの音で目を覚ました紗由が、嬉しそうに翔太の手を取って、ぶるんぶるんと振る。

「ああ、そうや。一緒に行くんやで」

 翔太も紗由の手を振り返した。


  *  *  *


 東京に戻った一同が華織を訪ねると、部屋では、白い袴姿に身を包んだ華織が待っていた。横には、やはり袴姿の躍太郎がいる。

「いらっしゃい、賢ちゃん」微笑む華織。

「伯母さん…」そういう衣装の華織を見たことがなかった賢児は、一瞬戸惑いを覚えた。「その衣装は何? 伯父さんまで…」

「“命”さま、おじゃまします!…さあて、俺らも着替えるで、龍くん」

「うん。おばあさま、あっちの部屋使うよ」

 ぽかんとする賢児と玲香を尻目に、二人は奥へ消えた。

「周子さんと紗由は、こっちの部屋に来て」躍太郎が手招きをすると、紗由が元気に走り出す。「はーい!」慌てて後を追う周子。


「賢ちゃん、ごめんなさい。10分くらい待ってて。終わったら、全部話すわ。今日の翔太くんのこともね。玲香さんも、もう少しだけ待っててね」

 華織は微笑むと、周子たちが入って行った部屋へと消えた。

「どういうことなんだ…?」


 華織が言ったとおり、10分経つと奥の部屋から、華織、躍太郎、龍と翔太が出てきた。龍と翔太も袴姿だ。

“わあ、かわいい…なんて思ってる場合じゃないわね”玲香は小さく咳払いをした。

「お待たせ」

「皆でそんな格好して、何してたの」改めて怪訝そうに聞く賢児。

「あの…周子さんと紗由ちゃんは?」

「少し、休んでてもらうわ。…でも、心配しないで。具合が悪いわけじゃないから」

「わかった。じゃあ、説明してもらおうか。少なくとも、今日、翔太の身に起こったことに関しては、ちゃんと話してくれ」

「それなら僕が説明するよ、賢児」奥の部屋から一人の男が現れた。

「風馬…?」賢児は驚いて彼の顔を見つめた。


  *  *  *


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