第60話 オニイチャン・前編
本話は『エリオ・ヴァレンティ』視点で進行します。
「セ、セレネ……?」
氷塊に身体を封じられたエリオが、恐る恐る呼びかける。
巨大な頭部が、ゆっくりとこちらを向いた。
「フ……フフ……」
セレネは不気味に笑う。
そして片腕の触手を伸ばすと、エリオの身体を拘束する氷塊に纏わりつかせた。
ググッと力を込める。
すると――
――バキィン!
「わ、割れた……! 雪禰ちゃんの魔法が……!?」
ライラが驚いて声を上げた。
触手はエリオの身体を掴み、そっと床へ下ろす。
慈しむようにエリオの頬を擦りながら、触手はセレネの腕へと収まった。
「セレネ……」
「……オ……ニイ……」
「セレネ!? わ、分かるのか……!? オレが分かるのか!?」
「――オニイ、チャン」
「……!!」
エリオは目を大きく見開く。
途切れ途切れの声だったが、はっきりと自分を呼んだ。
姿はすっかり変貌してしまった。
理性もとっくに失われているように見える。
それでも『兄』という認識は、今も根深く残っているらしい。
「ェ、ァ……オ、ニイ、チャ……」
人のものとも獣のものともつかぬ声で、何度も繰り返すセレネ。
その姿を見て、エリオはかつての妹を思い出していた。
「オ、ニイ――」
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「――ちゃん!」
「うわっ!?」
いきなり背後から飛びつかれ、エリオは思わずつんのめる。
「お前……いきなり何だよ?」
「へへ、ごめーん。お詫びに、ハイこれ」
背にのしかかったまま、セレネはエリオの口元にクッキーを近づけた。
エリオははぐっとそれを口内に迎え入れ、咀嚼する。
「どう? お母さんと作ったんだよ!」
「うん、上手い。流石母さんだな」
「あーっ! セレネの事も褒めてよぉ!」
「はいはい、セレネの作ったものは何でも上手い」
「へへーん。その通り!」
得意げに笑うセレネ。
エリオは、その笑顔を見るのが好きだった。
九歳の頃のエリオは、自分が不幸になるなどとは考えたこともなかった。
父も母も魔力工学のエンジニアで、家に帰っても仕事の話ばかりしていた。
難しい単語ばかりで、会話の内容はほとんど分からなかったが、研究に打ち込む両親の姿を見るのは好きだった。
忙しくても、休日には四人で出かけた。
父は何かにつけてエリオの頭を撫で、母はかいがいしくセレネの髪を結いながら、「二人は世界で一番の宝もの」だと口癖のように言っていた。
愛されている。
子どもながらに、強く感じていた。
両親が仕事をしている間は、研究施設内の託児所で過ごしていた。
その日もそうだ。
エリオは床に玩具を広げ、セレネは隣で静かに絵を描いていた。
「お兄ちゃん、これ見て!」
「なんだこれ」
「お兄ちゃんだよ?」
「オレ、こんなに目尖ってないだろ」
「カッコよくしたのー。お兄ちゃんはカッコいいから」
「ふーん……じゃあいいや」
そんな会話をしていると、託児所の扉が開いた。
入ってきたのは見覚えのある職員だ。
確か両親の同僚で、一緒にいる所を何度か見かけたことがある。
「セレネちゃん、お父さんとお母さんが呼んでるよ」
「お父さんとお母さんが?」
「うん。少しだけ手伝ってほしいことがあるんだって」
セレネはエリオに視線を向ける。
「行ってきてもいい?」
「いいんじゃね? オレここにいるし」
「じゃあ、行ってくる!」
「おう」
あの時、行かせなければよかった。
そう、何度後悔したか分からない。
「……遅い」
セレネが連れていかれてから、数時間が経っていた。
父も母も迎えに来ない。
壁にかかった時計を何度も見上げ、少しずつ不安が膨らみ始めた、その時。
――ドゴォォォン!
腹の底まで震わせるような轟音が響いた。
床が大きく揺れ、棚に詰まれていた玩具や絵本が崩れ落ちる。
「きゃあっ!?」
「な、なんだ!?」
託児所の子供たちや、職員が悲鳴を上げる。
それと同時に、耳をつんざく警報音が鳴り響いた。
『――緊急事態発生。職員及び来訪者は、直ちに避難してください。繰り返します。緊急事態発生……』
スピーカーの放送を聞き、職員たちが一斉に動き始める。
「みんなー、こっちだよ!」
「はい走らないでねー! 一列に並んでー!」
子どもたちが出口に誘導されていく。
エリオも腕を掴まれ、列に並ばされそうになった。
「セレネは!?」
「え?」
「妹! さっき奥に行ったんだよ!」
「そんな……だけど、今は避難が先よ! 妹ちゃんはきっと奥の職員が――」
「離せ!」
エリオは掴まれた腕を振り払った。
「ちょっと!? 待ちなさい、キミ!」
制止する声を背中に受けながら、人の流れとは逆方向へ駆けていく。
通路には煙が蔓延している。
天井の照明は割れ、壁には亀裂が走っていた。
エリオは何度か転びそうになりつつも、それでも足を止めなかった。
妹の行き先は分かっている。
父と母の研究室なら、連れてきてもらったことが何度かあった。
「――お父さん! お母さん! セレネ!!」
研究室に入って叫ぶが、返事はない。
辿り着いた研究室は記憶にある姿とはまるで違っていた。
扉は全て吹き飛び、内部の大型設備はもはや原型を留めていない。
天井からは配線が垂れ下がり、床には砕けた金属やガラスが散乱している。
あちこちから炎が噴き上がり、黒煙が漂っていた。
「な、何だよ……これ」
エリオの足が止まった。
怖い。熱い。帰りたい。
助けてくれる大人を呼ばなければ。
そんな思いが、彼の頭の中をぐるぐる回った。
「――……――……!」
その時、何かが聞こえた。
「……セレネ?」
もう一度、今度はしっかりと耳を澄ます。
「――お、にい、ちゃん……!」
「セレネ!」
声の方へ走る。
倒れた機械の向こうに、巨大なカプセル型のケースが横倒しになっていた。
透明な外壁には亀裂が入り、その内側でもぞもぞと動く華奢な身体が見える。
「待ってろ!」
ロックへ飛びつく。
手が震えてうまく外れない。
「くそっ……開けよ! 開けって!」
何度も叩き、ようやく解除音が鳴った。
蓋を開く。
「セレ――」
言葉が止まった。
中から出てきた妹の姿を見て。
「ひっ……」
思わず手を離した。
セレネの左腕は、肩から先が、人間のものではなくなっていた。
白かった肌は黒く変色している。
首筋から頬にかけても、黒い筋が血管のように這っていた。
腕や脚も同じだ。
細かった骨が歪に膨らみ、皮膚の隙間から小さな棘が突き出している。
身体の五分の一ほどが、魔物のようになっていた。
「お……にい、ちゃん……」
セレネが手を伸ばした。
怯えている。
泣いている。
怪物なんかじゃない。
いつも自分の後ろをついて歩いていた、大切な妹だ。
「……ご、ごめん」
エリオはすぐに抱きしめた。
「セレネ、オレが分かるか」
「こ、こわ……い……よ……」
「大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように何度も繰り返す。
「兄ちゃんがいるからな。大丈夫だぞ。絶対、大丈夫だから」
そこで、はっとした。
「そうだ……父さんと母さんは?」
「……あっち」
セレネは震える指を伸ばした。
崩れた設備の向こう。
巨大な鉄骨と機械の下に、二人の姿があった。
「母さ――」
駆け寄ろうとした直後、天井の一部が崩れ落ちた。
「うわっ!」
熱風が吹きつける。
近づけない。
炎が壁のように立ちはだかっている。
「父さん! 母さん!」
「え……エリオ……?」
母の声。
「そこに……いるのか……エリオ……!」
父も生きている。
「ふ、二人とも……!」
涙が止まらなくなった。
助けたい。助けなければ。
けれど、九歳の身体ではどうにもならない。
積み重なった瓦礫は、大人でも動かせそうになかった。
「エリオ……」
「な、なに!?」
「お前に……言わなければならないことがある」
「そんなの後でいいよ! 今助けるから!」
「聞け……!」
父の声が強くなる。
「世界ランキング……その、1位を探せ……」
「世界ランキング……!?」
何を言っているのか、エリオは始め分からなかった。
だが、すぐに思い当たる。
最近制定され、ニュースで毎日のように取り上げられている全世界ダイバーランキング。
ただし、第1位は空席のはずだ。
政治的配慮、秘密結社の仕業……などと色々な噂が飛び交っていた。
「ど、どういうこと……!?」
エリオは泣きながら叫ぶ。
「1位を探してどうするの!? 何をすればいいの……!?」
「こ、この事故の原因も……セレネをそんな風にしたのも……ソイツだ……」
「なんだって……!?」
父は答え、苦しそうに息を吐く。
「俺たちは……もう駄目だ」
「やだ!」
「セレネを……頼んだぞ……」
「お父さん! やだってば……!」
「ヤツなら……治し方を、知っているはず……」
今度は母の声が聞こえてくる。
「エリオ……お願い……セレネを……」
「嫌だ! そんなの嫌だよ! お父さん! お母さん!」
ゴゴゴゴゴゴッ。
低い地鳴りのような音が頭上から響き、天井全体が大きく軋んだ。
「待って! まだ――」
エリオの叫びを遮るように崩落が始まった。
鉄骨と瓦礫が滝のように落ち、炎と黒煙の向こうにいた両親の姿を一瞬で呑み込んでいく。
「お父さあああん! お母さああああん!!」
喉が裂けそうなほど叫んだ。
だが、返事は二度と戻ってこなかった。
崩れた瓦礫の向こうで、炎が赤々と燃えている。
足から力が抜けた。
最愛の両親が目の前で亡くなった。
もう、何もかもどうでもよかった。
いっそ自分も、このまま父と母と一緒に――。
「お兄……ちゃん……苦しいよ……」
背中から聞こえた震える声が、エリオを現実へ引き戻した。
自分には、まだセレネがいる。
エリオは血が滲むほど唇を噛み、膝から崩れ落ちそうになる身体を無理やり立たせた。
「……行くぞ」
セレネを背負う。
頬を伝う涙を拭う余裕などなかった。
「兄ちゃんがいるからな。絶対……守るから」
崩壊を続ける研究施設の中を走った。
どうして事故は起きた。
どうしてセレネはこんな姿になった。
どうして父と母は死ななければならなかった。
どうして自分たち家族がこんな目に遭わなければならない。
何一つ分からなかった。
幼い胸の中で、行き場を失った悲しみが、次第に別の感情へ変わっていった。
「……許さない」
煙と涙で前が滲む。
「絶対に……許さないぞ……!」
憎しみを胸に焼きつけながら、エリオは研究所を後にした。




