第54話 氷の女帝
本話は『????』視点で進行します。
銀色の髪には夜気がまとわりつき、白い外套の裾には薄く霜が残っている。
それでも彼女の足取りに疲労は見えない。
攻略任務を終えた直後とは思えぬほど、彼女は凛とした佇まいをしていた。
「夜更けまでお疲れさまでした。月詠 雪禰様」
「うん」
宿舎入り口。
深く頭を下げた職員へ、 雪禰は小さく頷く。
雪禰が宿舎へ戻ったのは、日付が変わる少し前だった。
「その……本当に、こちらでよろしかったのでしょうか……」
職員が背後の建物を気にする。
そこはアルゼンチンダンジョン協会が所有するダイバー用の宿舎であり、設備に不足があるわけではない。
ただし、『氷の女帝』と呼ばれる存在を迎える場所としては、少々質素すぎる。
「近隣の高級ホテルでしたら、今からでも最上階の部屋を用意できます。警備についても万全の――」
雪禰は無言で首を振った。
「寝られればどこでもいい」
「ですが、月詠様ほどの方を一般の宿舎へお泊めするというのは……」
「ここが一番近いから」
「そ、そうでございますか……」
職員の善意の提案をバッサリ切る。
「でしたら食事はお任せください。一流のシェフを準備させて――」
「いらない」
「で、では……せめて何かお飲み物を」
「自分で用意する」
決して怒っているわけじゃない。
ただ、その声は静かで抑揚が無く、冷たい。
職員はそれ以上勧めることを諦め、もう一度頭を下げる。
「……何かございましたら、いつでもお申しつけください」
「うん」
雪禰は職員の横を通り過ぎる。
数歩進んだところで足を止め、僅かに振り返った。
「遅いから、もう休んでいい」
「え?」
「色々とご苦労様」
「は、はあ……」
抑揚のない声でそれだけ告げて、 雪禰は自室へ向かった。
職員はしばらくその背中を見送り、やがて小さく息を吐いた。
氷の女帝。
世界中からそう呼ばれる女は、噂ほど冷酷には見えない。
ただ、何を考えているのかは、微塵も分からなかった。
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部屋へ入る。
施錠を確認し、外套を脱ぐ。
雪禰は備えつけの洗面台で念入りに手を洗った。
水滴を一つ残さず拭き取り、乱れの無い銀髪をさらに整える。
それから、荷物の底に収めていた細長い箱を両手で持ち上げた。
その扱いは、極めて慎重だった。
ダンジョンから持ち帰った希少な高純度魔石を扱う時でさえ、ここまで細心の注意は払わない。
雪禰は机の上へ白い布を敷く。
箱を開き、中身を一つずつ並べていく。
折り畳み式の小さな机。
その中央へ一人の男――否、神が描かれた絵画を立てる。
絵画の前には黒い古びた布。
それはかつて、神が愛用していたグローブの成れの果てである。
古くなって捨てようとしていたところを、 雪禰が譲り受けた。
正確には「処分しておきましょうか」と尋ねたところ、神が「助かる」と仰ったため、そっと懐にしまったのだ。
すなわち、正式に下賜された聖遺物である。
隣には、くしゃくしゃになって黄ばんだ小さな紙。
そこには『酒 煙草 テキトーな肴』と書かれている。
神直筆の、 雪禰への有難い神託であった。
「……すぅ」
雪禰は祭壇の正面へ座り、深く息を吸った。
背筋を伸ばし、膝の上で両手を揃える。
金色の瞳が、絵画の神を見つめていた。
「――仁様」
雪禰の声がわずかに強張る。
ぴり、と空気が緊張感を帯びた。
「本日も、貴方様より賜りました力を有意義に使い、一日を無事に終えることができました」
仁から直接力を与えられた事実は勿論存在しない。
雪禰がそう信じているだけだった。
「私が今日まで生きてこられたのは、仁様が私をお救いくださったから」
十一歳だった 雪禰へ、仁は食事を与えた。
凍える夜には毛布を渡し、眠れない時には隣に座った。
家族を失い孤独だった 雪禰にとって、彼こそ世界のすべてだった。
「私が道を誤らず、心穏やかに、そして健やかにいられるのは、今も仁様が心の内よりお導きくださるからです」
両手を胸の前で組む。
「この力もこの命もこの身が積み重ねてきた全ても、仁様のためにございます」
静かな声。
熱に浮かされた様子はない。
それが、その言葉が決して冗談などではなく、真剣に発されているものだということを証明している。
「世界最強……などという呼び名は、私には過ぎたものです。私はただ、仁様がお歩きになった足跡を辿っているだけ」
雪禰はそっと目を閉じた。
「こんな私でも、いつの日か、再び御前へ参ることをお許しいただけましたなら……」
そこで、ほんの少し迷う。
「その時は、どうか……『よく務めを果たした』と、そう仰ってください」
それ以上は望まない。
褒美など要らない。
仁の傍らに立つ資格が、自分にあるとも思っていない。
ただ一言、『よくやった』と。
そう言ってもらえれば。
きっとそれだけで、この先の人生をすべて捧げられる。
雪禰が深く頭を下げた、その時だった。
――ぐにゃり
背後の空間が揺らいだ。
何もなかった壁際に黒い穴が生まれ、音もなく広がっていく。
闇の奥から、小柄な少女が姿を現した。
黒髪の姫カットに銀色の瞳。
トレードマークの和服を今日も見事に着こなしている。
雪禰はその人物を見て、慌てることなく顔を上げた。
「どうしたの、夕凪」
「……」
世界ランキング第7位――朧 夕凪。
彼女は何も喋らず、代わりに眉を僅かに歪ませた。
視線は 雪禰ではなく、その背後へ向けられている。
簡素な机で作った祭壇のようなもの。
中央に飾られているのは、生命なのかすらよく分からない、左手で描いたような謎の化け物のイラスト。
その周囲へ整然と並ぶ、ゴm……いや、手袋の切れ端やくしゃくしゃのメモ用紙。
夕凪はそれについて何かを言おうとして、しかし、言ってしまったらそれが自分の最期になる気がして、口をつぐんだ。
まだ十五歳。死ぬには早すぎる。
「用件は何?」
雪禰が尋ねる。
夕凪は祭壇から目を離し、 雪禰を見る。
「ぱぱが、よんでる。しごとだよ」
「っ…………!!!!」
雪禰の呼吸が止まった。
宝石のような金色の瞳が大きく見開かれる。
(聞き間違い……いや、聞き間違えるはずない……!)
指先が震えた。
それはすぐに手のひらへ、腕へ、肩へと広がっていく。
「私を……?」
「そう」
「仁様が……?」
「そう」
「この、私を、お呼びに……?」
「だから、そう」
全身がぶるぶると震えた。
背筋を駆け上がった甘い痺れに、ぞくぞくと肌が粟立つ。
「っ……」
雪禰は自分の身体を抱くように両腕を重ねた。
胸の奥から溢れ出す歓喜を抑えられない。
世界第2位として築き上げてきた威厳、冷静さ、理性。
それら全てを内側から激しく揺さぶる極上の感動。
(やっと……やっと、この日が来たのですね……)
雪禰は、仁が日本ダンジョン協会の指南役になったことを知っていた。
そこからすでに半年近く経過している。
無論、会おうと思えばいつでも会えた。
世界第2位という立場を使えば、日本での任務を組むことも、東京支部を訪問する口実を作ることも、何なら無理を言ってスケジュールを変えさせることすら容易だ。
それでも、 雪禰は会いに行かなかった。
仁から託された『世界を守る』『この世の役に立つ』という責務を放り出し、己の欲望を優先して御前へ参ることなど許されない。
だから 雪禰は待った。
呼ばれた任務を一つずつ果たした。
世界中のダンジョンへ赴き、魔物を討ち、人々を救い続けた。
仁の使いを名乗るに恥じぬ働きを続けていれば、いつか必ず、自分を必要としてもらえる日が来ると、そう信じていた。
そして今。
仁の方から、自分を呼んでくれた。
「仁様が……」
目頭が熱い。
夕凪はその姿を無表情のまま見つめていた。
「いこ」
「……うん、すぐに」
雪禰は立ち上がる。
外套を掴み、羽織る。
先ほどまでダンジョンに潜っていたせいか、ほんのり汗の香りがする。
本来であればシャワーを浴び、身を清めてから御前に立つべきだ。
しかし、すぐに思い直した。
神を待たせてはならない。
雪禰は祭壇へ向き直り、絵画へ深々と頭を下げる。
「お、お待たせいたしました……仁様」
声が震える。
「 雪禰は…… 雪禰はただいま……貴方様の御許へ参ります」
顔を上げる。
その瞳は微かに潤んでいた。
夕凪が開いた日本へ通ずる『天涯門』に一礼。
雪禰は震える足に鞭を打って、闇の中に踏み出した。




