第53話 急転直下
「――これならどうだっ!」
鋭い踏み込みと同時に、細剣の切っ先が跳ね上がった。
狙いは俺の喉元。
俺は上体を反らし、鼻先を通過した刃を見送る。
「読んでたっすよ!」
七瀬は止まらない。
踏み込んだ右足を軸に身体を回し、返す刃で俺の脇腹を薙いできた。
避け方まで読まれていたらしい。
「へえ」
思わず感心の声が漏れた。
胴へ伸びてきた切っ先を、身体を捻ってかわす。
ひゅ、と鋭い音がした。
直後、腹に僅かな抵抗。
七瀬が大きく目を見開いた。
「――入った!」
細剣の先が、俺の上着を浅く裂いていた。
俺は破れた個所をつまみ、出来たばかりの切れ目を確認する。
「服にな」
「同じことす! 今、確実に先生を捉えたっすよ!」
「先生の身体は服の内側にあるんだよ。知らなかったか?」
「意地の悪い……!」
まあ、成長はしている。
以前の七瀬なら、自分の速さを押しつけるだけだった。
今は俺の視線を誘い、足の運びを読み、逃げ道を潰してから剣を置いてくる。
S級の看板を背負うようになって、少しは頭も使うようになったらしい。
「……だが、喜ぶのはまだ早いな」
「え――」
踏み込む。
七瀬が反応した時には、もう懐へ。
細剣を握る手首を下から押し上げ、同時に足を払う。
七瀬の身体が綺麗に宙を舞った。
「うおっ――!?」
受け身を取った七瀬の手から、細剣が離れる。
俺は足でそれを跳ね上げてキャッチすると、尻もちをついた七瀬の喉元へ切っ先を突きつけた。
「服を斬った祝いに、自分の剣で負けさせてやったぞ」
「そんな祝いないっす……!」
七瀬が仰向けになったまま、悔しそうに床を叩く。
訓練終了。
俺は細剣を放り返した。
七瀬は慌てて起き上がり、両手で受け止める。
「で、S級としての日々はどうだ?」
俺はリングから降りて壁際のベンチへ向かい、置いてあったタオルを投げてやる。
七瀬は顔を拭きながら、少し考えた。
「正直、思っていた以上に忙しいす。地方での仕事も増えましたし、顔を覚えられて街を歩きづらくなりました」
「そりゃあ、ご愁傷さま」
「先生の苦労が百分の一くらいは分かったすよ。鬼籠野の配信で、また人気者になってたすね」
「あー……まあ、世間は忘れっぽい。そろそろ忘れてくれる頃だ」
鬼籠野ダンジョン攻略から、二ヵ月の時が経った。
攻略直後は騒ぎ立てていたマスコミも、今は下火だ。
「そうすかね。先生が思ってる以上に、世間は先生に興味があると思うすけど」
嫌なことを言う。
俺は聞かなかったことにして、ペットボトルの水を口に含んだ。
「まあ、何かと仕事は大変すけど……悪くありません」
七瀬が細剣を鞘へ収める。
「以前より責任は重いですけど、それ以上に――」
そこで言葉を切り、七瀬は僅かに照れたような顔をした。
「御影先生に鍛えてもらったことが、ちゃんと活きてるのが嬉しいっす」
「はっは。そりゃ結構」
「もう少し感慨深そうにしてください」
事実、悪くない返事だった。
「――先生、次はアタシもお願いします!」
訓練場の入口から、快活な声が飛んできた。
振り向けば、緋見が大盾を片手に立っている。
赤茶色の髪を高い位置で結び、準備運動でもしてきたのか、額には薄く汗が浮かんでいた。
「七瀬ばっかり朝からずるいです。アタシも先生とやりたいんですけど!」
「朝から元気だな、お前は」
俺が言うと、七瀬が不満そうに細剣を抱える。
「緋見、俺の訓練はまだ終わっていない」
「終わったでしょ。見てたんだからね、思いっきり転がされてるとこ」
「あ、あれは……あそこから逆転する予定だったんだよ」
「へえ? 死んでから?」
「誰が死んだって!?」
二人がいつもの調子で言い合いを始める。
S級になっても、この辺りは変わらないらしい。
変わらない方がいいこともある。
「とにかく、次はアタシですからね!」
緋見は七瀬を押し退けるように前へ出ると、大盾を床に置いた。
「先生に試したい動きがあるんです。七瀬みたいに服だけじゃなくて、ちゃんと一発入れてみせますよ」
「服を斬られた時点で、一発入ってんだってば!」
「自慢することじゃないでしょ」
「お前はまだ掠らせてもいないだろ!」
「はいはい。二人で言い合う前に――」
俺の言葉を遮るように、またも勢いよく訓練場の扉が開いた。
「――先生! お昼にしましょう!」
文月がこちらへ手を振っていた。
壁の時計はもう頂点をさしている。
「ほら、昼飯だ」
俺はすぐに訓練用の剣を片づける。
「先生、逃げましたね?」
「馬鹿言え。飯を食うのも立派な訓練だ」
「何のですか!?」
「……午後も生きるための」
文月が満足そうに頷いた。
「さすが先生です。よく分かってらっしゃる!」
「文月さんまで乗らないでください!」
緋見の抗議を背に、俺は訓練場を出る。
平和な一日は、まず腹を満たすところから始まるのだ。
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文月が意気揚々と案内したのは、東京支部から歩いて十分ほどの定食屋だった。
煤けた暖簾に、年季の入った木枠の引き戸。
壁に掛かった看板は端が日に焼け、店名の何文字かが薄くなっている。
「ここです!」
文月が暖簾の前で振り返る。
胸を張り、眼鏡の奥で得意げに目を細めていた。
「東京支部周辺の飲食店を徹底的にリサーチした結果、ここが最も先生におすすめの店だと判断しました!」
「昼飯にずいぶん手間かけたなあ……」
「先生を放置すると、お酒と乾き物だけで一日を終わらせかねませんからね」
「俺をなんだと思ってんだよ」
「実績に基づいた評価です」
反論しづらい。
横で七瀬が真顔で頷き、緋見は苦笑していた。
文月は勝ち誇った顔で引き戸へ手を掛ける。
「というわけで、今日は私が先生に良い店を教えてあげます」
「へいへい。楽しみだ」
「その反応、気に入りませんね。入れば分かりますから」
からり、と引き戸が開く。
煮魚と味噌汁の匂いが、温かな空気と一緒に流れてきた。
「いらっしゃ――」
カウンターの奥から顔を出した女将が、俺を見て目を丸くする。
「あら、仁ちゃんじゃない!」
店内の視線が、一斉にこちらへ集まった。
「おっす、ご無沙汰だな」
「ご無沙汰も何も、何年ぶりよ。ちっとも顔を見せないから、どこかで野垂れ死んだのかと思ってたわ」
女将はカウンターから身を乗り出すと、俺の後ろへ並んだ三人を見渡した。
「まあ。今日はずいぶん若い子を連れてるのね」
「仕事仲間だよ」
「……へえ。仁ちゃんに、こんな立派なお仲間がねえ」
「どういう意味だ」
「そのままの意味よ」
女将は楽しそうに笑い、空いている奥の卓を指した。
「四人ね。座って座って。仁ちゃんの好きな鯖味噌、良いのが入ってるわよ」
「じゃあ、それで」
「相変わらず即決ねえ」
俺が席へ向かおうとすると、文月がその場から動いていなかった。
引き戸の前で固まり、俺と女将を交互に見ている。
「せ、先生……この店、ご存じで……?」
「まあな。二十年くらい前から」
「にじゅっ……!?」
文月の眉間に、深い皺が刻まれた。
七瀬が堪えきれずに吹き出し、緋見も口元を押さえている。
「何を笑っているんですか、二人とも」
文月が二人を睨む。
だが、怖くはない。
むしろ子供が拗ねているようにしか見えず、七瀬と緋見の笑いはさらに深くなった。
「ほら、立ってないで座れ。腹減っただろ」
四人で卓を囲む。
文月はまだ不満そうだったが、女将が運んできた料理を見た途端、僅かに頬を緩めた。
鯖の味噌煮。
湯気の立つ白飯と味噌汁。
小鉢にはひじきの煮物と漬物が添えられている。
七瀬は生姜焼き。緋見は唐揚げ。文月は焼き魚定食だった。
「どうですか、先生」
文月が改めて尋ねてくる。
「何が?」
「味に決まってるじゃないですか」
「まだ食ってないって」
「では早く食べてください」
「急かすなよ……」
箸を入れると、よく煮込まれた鯖の身が簡単にほぐれた。
一口食べる。
味も変わっていない。
「……うまいな、相変わらず」
「そうでしょう!」
なぜか文月が得意げだった。
二十年前から俺が知っている店なのだが、それを指摘するとまた長くなりそうなので黙っておく。
それからしばらくは、誰も喋らなかった。
絶品な料理を目の前に、皆食うことに集中していたのだ。
静かな昼飯だった。
鬼籠野から二ヵ月。
あの騒ぎが遠い昔に思えるほど、穏やかな日々が続いていた。
「……そういや、また訓練生からS級ダイバーが出たらしいすね」
七瀬が味噌汁の椀を置く。
「ああ、そうらしいな」
「らしいな、って。指南役として、もっと喜ばないんすか?」
「喜んでるさ。だけど、昇格は本人の努力の賜物だからな」
「でも、先生の指導がなければ難しかったと思うすけど」
「……きっかけくらいにはなったかもな?」
「またそうやって、自分の評価を低くする」
文月が焼き魚を箸でほぐしながら、じろりとこちらを見る。
「先生が指南役に就いてから、東京支部全体のダイバーの昇格が加速しています。これは明確に先生の功績でしょう」
「うんうん。アタシも先生の訓練を受けるようになって、前よりずっと動けるようになりましたよ」
緋見が口を挟んだ。
「俺が関与してるかはさておき、そりゃ良い傾向だな」
鯖の骨を皿の端へ寄せながら言う。
「若い連中が育ってるってのは健全な証だ。そんで、とっとと隠居させてほしいもんだね。この歳になると、走り回るのも億劫でな」
「先生、最近は走り回っていませんけどね」
文月の言葉に、俺は「確かに」と頷いた。
世界ダンジョン協会からも、この二ヵ月はほとんど呼び出されていない。
ほんの数ヵ月前。
日本の会長――久世が世界の対応をしていた時は引っ張りだこだったらしいが、俺が特別顧問になってからは晩餐会くらいのもんで、それ以外はとんと音沙汰がない。
「平和ってのはいいな」
俺と七瀬と緋見、三人でうんうんと頷く。
だが、文月だけは箸を持ったまま、考え込むように黙っていた。
「……静かすぎると思いませんか?」
「思わない」
「は、早いです」
「仕事も事件も無い。最高じゃねえか」
「そうですが……これまで忙しかったのに、落差が急すぎるというか……」
文月は少し声を落とした。
「大丈夫すよ。便りがないのは良い便り、って言うじゃないすか」
七瀬が言う。
「組織運営において、情報がないことと問題がないことは同義ではありません」
「文月さんは心配性すね」
「七瀬君が楽観的すぎるんです」
「でも、何も起きてないうちから不安がっても仕方ないすよ」
緋見も七瀬に同意する。
「アタシも、平穏ならそれでいいと思います。みんなが強くなって、事件が起きても現場だけで解決できるようになってきたってことでしょう?」
「その可能性はありますが……」
文月は納得しきれない様子だった。
俺は茶碗に残った飯を口へ運ぶ。
「まあ、今までがおかしかったんだよ。何か起きるたびに呼び出されて……今の平穏が普通なのさ」
湯呑みを手に取り、温い茶を飲む。
「こうやって少しずつ、良い方向に向かってけばいいんだよ」
「……そうですね。すみません。考えすぎでした」
俺は小さく息を吐き、湯呑みを置いた。
窓の外には、柔らかな昼の光が差していた。
何か特別なことがあるわけじゃない。
誰も傷つかず、誰も泣かず、明日のことを気楽に話せる。
そんな日が続けばいい。
そして俺がまた隠居生活に戻れる日も、そう遠くはないだろう。
少なくとも、その時の俺は本気でそう思ってたんだ。
だが世界ランキング第3位・神代ライラ、同第4位・鳳城麗華――。
両名が消息を絶ったとの報せが入ったのは、その翌日のことだった。




