閑話「ただ、愛するものを失うのが怖いだけの男だ」
捕虜はジョージ・ハミルトンといった。
七十を超えていたが、目が死んでいなかった。イギリスの情報機関に四十年勤めた老人で、日本に送り込まれてから三年、一度も正体がばれなかった。最終的に内部告発で捕まったのだから、腕は本物だった。
佑が直接会いに行ったのは、好奇心からだった。
この男は、工作船について詳しい報告書を本国に送っていた。観察眼が鋭く、思い込みが少なく、「日本の技術は悪魔の力ではなく、長年の蓄積である」と正確に見抜いていた。そういう人間に、佑は会いたくなる。
房の前に椅子を置いて、佑は座った。
「話しかけていいですか?」
「あなたが城佑ですか」
「そうです」
ハミルトンはしばらく佑を見た。耳の形を見て、顔の造りを見て、目の奥を見た。
「思ったより、ふつうですね」
「よく言われます」
「悪魔に見えない」
「私は悪魔ではありません」
「神にも見えない」
「神でもありません」
ハミルトンは壁にもたれた。
「では、何ですか」
「商人です」
「商人は、三百年間同じ顔をしていません」
「……私の商売は長い」
ハミルトンは、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「あなたは、神でも化け物でもない」
佑は何も言わなかった。
「報告書を書きながら、ずっと考えていた。なぜこの男は、三百年も日本にいるのか。何が目的なのか。黄金か、権力か、支配か。どれも違う」
「……」
「答えは単純でした」
ハミルトンは佑の目を見た。
「あなたはただ、愛するものを失うのが怖いだけの男だ」
沈黙が落ちた。
「この国が好きなんでしょう。この国の人間が好きなんでしょう。だから、失いたくない。だから、守ろうとする。だから、三百年いる」
「……」
「違いますか」
佑は、長い間、答えなかった。
最終的に言った。
「……等価交換の商売です」
「嘘をついている」
「……」
「あなたは嘘が下手だ。三百年生きて、嘘が下手な生き物というのは、珍しい」
佑は椅子から立ち上がった。
「あなたを本国に返します。条件は一つです」
「なんですか」
「その——」佑は少し間を置いた。「その見立てを、報告書に書かないでください」
ハミルトンは、老いた目で佑を見た。
「……なぜですか」
「読まれると、困ります」
ハミルトンは、初めて笑った。
「わかりました」
佑が立ち去ろうとした時、ハミルトンが言った。
「城佑」
「何ですか」
「愛するものを失うのが怖いというのは——恥ずかしいことではない」
佑は振り返らなかった。
帰り道、帳簿を開こうとして、やめた。
今日のことは、書けなかった。書く必要もないと思った。
ハミルトンの言葉は、書かなくても、忘れなかった。




