閑話「豆腐店仙吉、三代目」
時代:1703年、第三部。
豆腐屋は、看板が変わっていなかった。
「仙吉」という屋号だけが、九十年前と同じだった。建物は変わっていた。仙吉が店を出していた小屋は、今では瓦屋根の店構えになっていた。店の奥に作業場があり、機械の音がした。
佑は暖簾をくぐった。
三代目の店主は、四十代の男だった。仙吉の面影はなかった。背が高く、仙吉より愛想が良かった。
「いらっしゃい」
「豆腐を一丁ください」
「冷やしですか、温めですか」
「温めで」
佑は店の隅に座った。
仙吉が死んだのは、九十年前だった。
その翌年、佑は一度だけ来た事がある。新しい工場が出来ていた。仙吉の息子が建てた、水車動力の豆腐工場だった。大きかった。仙吉の小屋の十倍はあった。
佑は工場の前に立って、しばらく見ていた。
仙吉は小屋で一人で作っていた。朝早く起きて、豆を煮て、にがりを打って、重しを乗せて、白い豆腐を切り分けた。その工程が今、水車と機械に分担されていた。仙吉がやっていたことを、機械がやっていた。
悪いことではない、と佑は思った。
思いながら、少し立ち止まった。
工場の隅に、古い木桶があった。仙吉の小屋から持ってきたものだろう。もう使われていなかった。ただ置いてあった。
佑は木桶を見た。
仙吉が最後に豆腐を作った日、この桶に水を張っていた。白い豆腐が浮いていた。仙吉は「今日のは上手くいった」と言っていた。毎朝そう言っていたが、その日だけは本当に上手くいったように聞こえた。
佑はその日、豆腐を二丁買った。いつもは一丁だった。
仙吉は「また来てください」と言った。
来なかった。翌月、仙吉は死んだ。
店主が豆腐を持ってきた。白い豆腐が、小さな鍋に入っていた。出汁の匂いがした。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
佑は一口食べた。
旨かった。
仙吉の豆腐と同じ味ではなかった。当然だった。九十年経っていた。大豆の品種が変わっていた。水の引き方が変わっていた。にがりの量が変わっていた。
ただ、根底にある何かが同じだった。
旨いものを作ろうとする、という何かが。それだけは九十年で変わっていなかった。
「美味しいですか?」と店主が聞いた。
「美味しいです」と佑は答えた。
「ありがとうございます」と店主は言った。「うちは三代続いてるんですよ」
「そうですか」
「初代がなかなか変わり者でして」と店主は笑った。「昔、変な客が来て、豆腐一丁の値段が分からなくなったって話が残っていて」
「……変な客」
「ええ。耳が長くて、目の色が薄くて、豆腐を食べながら泣いてたって」
佑は豆腐を見た。
「泣いていたんですか?」
「そう伝わってますよ。でもその後、また来てくれたって。毎朝」
「……そうですか」
店主が奥に戻った。
佑は豆腐を最後まで食べた。
出汁を全部飲んだ。
その日の帳簿に、佑は書いた。
【1703年・深川・記録】
仙吉三代目。
豆腐、旨かった。
仙吉の味ではなかった。
ただ、仙吉の続きだった。
店主が言った。「初代は変な客が来たと言っていた」と。
備考:値段をつけ損ねた話は、
三代経っても残るらしい。




