閑話「看板を読む子 1665年」
報告書は三日前に届いていた。
瀬川研究所からの調査報告だった。表紙に「識字率調査・寛文五年」とあった。数字が並んでいた。
市 中:推定七十二パーセント。
農村部:推定四十一パーセント。
全国平均:推定五十四パーセント。
シャリアは数字を見た。
八十年前、シャリアが最初に寺子屋の設計を佑に売り込んだ時、全国の識字率は五パーセント以下だった。武士と一部の商人だけが文字を読めた。農民は読めなかった。女は読めなかった。老人は読めなかった。
今は五十四パーセントだった。
シャリアは報告書を閉じた。数字は分かった。正しいと思った。ただ、何かが足りなかった。五十四パーセントという数字が、実感として胸に届かなかった。
翌々日、シャリアは用事で市場に来た。
春の市場は賑やかだった。青物売りが声を上げていた。魚売りが声を上げていた。子供たちが走り回っていた。
通りを歩いていた時、シャリアは足を止めた。
六歳くらいの男の子が、青物売りの前で立っていた。看板を見上げていた。看板には「大根 一束 銀一分」と書いてあった。
男の子が、声に出して読んだ。
「だい……こん。ひとたば。ぎん……いちぶ」
読めた。
たどたどしかった。指で字をなぞりながら読んだ。全部読み終わるのに少し時間がかかった。それでも、読めた。
シャリアは動けなかった。
男の子がシャリアに気づいた。耳の長い女を見上げた。怖がらなかった。
「おばさん、耳が長いね」
「長いですね」とシャリアは言った。
「なんで」
「生まれつきです」
「ふうん」
男の子が看板をもう一度見た。
「大根、買うの?」
「いいえ」とシャリアは言った。「看板を読んでいるのを見ていました」
「読めるよ」と男の子は言った。当たり前のように言った。「寺子屋で習った」
「いつから行っていますか」
「去年から」
「好きですか」
「算盤が好き」と男の子は言った。「字はまだ難しい」
母親が来た。三十代の女だった。シャリアを見て少し驚いたが、会釈した。
「太助、迷子になったら困りますよ」
「迷子じゃない、看板読んでた」
「はいはい」
母親が太助の手を引いた。太助がシャリアを振り返った。
「またね、耳長おばさん」
「またね」とシャリアは言った。
二人が人混みの中に消えた。
シャリアはしばらくその場に立っていた。
青物売りが声を上げていた。別の子供が走り回っていた。誰もシャリアを見ていなかった。
気づいたら、泣いていた。
声は出なかった。涙が出た。拭いたが、また出た。
八十年前、シャリアが最初に教えた子供は、今は老人になっているか、死んでいるかのどちらかだった。その子供が誰かに教えた。その誰かがまた誰かに教えた。それが続いて、今日、太助という六歳の男の子が市場の看板を読んでいた。
シャリアは何もしていなかった。
正確には、最初だけした。あとは人間が続けた。
太助の母親は文字が読めた。だから太助に寺子屋へ行かせた。太助は算盤が好きだった。字はまだ難しいと言っていた。それでも看板を読んだ。読もうとした。
シャリアが教えたのは、最初の子供だけだった。
あとは全部、人間が自分でやった。
工作船に戻って、シャリアは佑を探した。
佑は帳場にいた。
「佑」
「なんですか?」
「報告書、読みましたか」
「読みました」と佑は言った。「五十四パーセントですね」
「今日、市場で子供が看板を読んでいました」
「そうですか」
「六歳でした」
「……そうですか」
佑が帳簿から目を上げた。シャリアの目が赤いことに気づいた。何も言わなかった。
「良かったです」とシャリアは言った。
「そうですね」と佑は言った。
それだけだった。
その日の帳簿に、佑は書いた。
【1665年・春・記録】
識字率調査報告:全国平均五十四パーセント。
シャリアが市場で六歳の子供が看板を読むのを見た。
泣いていた。
備考:五十四パーセントという数字より、
太助という名前の方が、
ずっと重い気がした。




