閑話「帳簿の誤差 1628年」
宗兵衛は娘に算術を習わせたことを、この夜ほど後悔したことはなかった。
きっかけは三年前だった。
近所の寺子屋が「女子も算術を教える」と言い始めた時、宗兵衛は最初反対した。女に算術など要らない、と思っていた。しかし妻が「帳場の手伝いができるようになる」と言い、宗兵衛は渋々許した。実用的な理由なら仕方ない、と思った。
三年後、娘は帳場に座って、宗兵衛の帳簿を静かに読んでいた。
おさきは帳簿の三ページ目で止まった。
数字が合わなかった。
正確には、合うように見えて合わない。足し算の結果が正しい。引き算の結果も正しい。しかし仕入れの単価と販売の単価の間に、説明のできない差があった。
おさきは算盤を弾いた。もう一度弾いた。三度弾いた。
やはり合わなかった。
おさきは帳簿を持って、父の部屋に行った。
「父上」
「なんだ」
「帳簿を見ていたんですが」
「ああ」
「三ページ目の仕入れ値なんですが」
宗兵衛が少し間を置いた。
「なんだ」
「藤屋さんからの仕入れが、反物一反につき銀二匁、記帳より高くなっています」
「……計算違いだろう」
「三度確認しました」とおさきは言った。声を上げなかった。静かだった。「違いませんでした」
宗兵衛はおさきを見た。
おさきは帳簿を開いたまま持っていた。算盤を右手に持っていた。表情は穏やかだった。怒っていなかった。ただ、数字が合わないという顔をしていた。
「……藤屋との取引は、お前には関係ない」
「そうですね」とおさきは言った。「ただ、この差額が毎月続くと、年間では銀二十四匁になります」
「分かっている」
「記帳されていない銀二十四匁は、どこに行っていますか」
宗兵衛は黙った。
おさきも黙った。
火鉢の炭が、小さく音を立てた。
長い沈黙の後、宗兵衛が口を開いた。
「……藤屋の主人と、古い付き合いがある」
「はい」
「帳簿に載せられない付き合いがある」
「はい」
「お前には関係ない話だ」
おさきは少し考えた。
「分かりました」とおさきは言った。「ただ、一つだけ確認させてください」
「なんだ」
「この差額は、毎年続きますか」
「……なぜだ」
「続くなら、別の欄を作った方が帳簿が綺麗になります。このままだと、来年また私が気づきます」
宗兵衛はおさきをしばらく見ていた。
おさきは帳簿を閉じた。算盤を置いた。
「父上の帳簿は、それ以外は完璧です」とおさきは言った。「三年分見ましたが、誤差はここだけです」
宗兵衛は何も言わなかった。
おさきは立ち上がった。
「夕餉の支度をします」
それだけ言って、部屋を出た。
その夜、宗兵衛は一人で帳簿を開いた。
三ページ目を見た。おさきの言った通りだった。数字は正確だった。差額は正確だった。藤屋との付き合いも正確だった。
ただ、隠したつもりのものが、十七の娘に三度の算盤で見抜かれた。
宗兵衛は新しい欄を作った。
「交際費」と書いた。銀二匁と書いた。
帳簿が、少し綺麗になった。
翌朝、おさきは何事もなかったように帳場に座っていた。
宗兵衛が帳簿を渡した。
「見ておけ」
「はい」
おさきが三ページ目を開いた。新しい欄を見た。何も言わなかった。算盤を一度だけ弾いた。
「合っています」とおさきは言った。
「そうか」と宗兵衛は言った。
それだけだった。




