閑話「フィリアの弟子入り」
善右衛門の孫の代になった味噌蔵に、フィリアは相変わらず通っていた。百年以上通い続けた蔵だ。三代目の当主、次郎兵衛は六十代の、発酵のことしか考えていないような老人だった。
その次郎兵衛が、ある日フィリアに言った。
「フィリア殿、この冬の麹菌の管理を見てくれ」
フィリアが見た。
見て、止まった。
「……次郎兵衛さん、この管理の方法は」
「先月思いついた。どうだ」
「……私が教えた方法より、良いです」
次郎兵衛が少し照れた。「そうか」
「この温度帯での菌の分布の考え方が──どこから思いついたんですか」
「お前さんが百年前に置いていった温度計を、ずっと使い続けてたらな。数字を見るうちに、菌がどこで一番元気かが分かってきた」
「百年分のデータで?」
「ああ」
フィリアは少しの間、次郎兵衛を見た。
「弟子にしてもらえますか」とフィリアは言った。
次郎兵衛が目を丸くした。「……え?」
「あなたの方が上手いので。学びたいです」
「わしが教えるのか、あんたに」
「はい」
次郎兵衛はしばらく口をぱくぱくさせていた。それから「……まあ、ええか」と言った。「変な話だが、ええか」
フィリアが工作船に戻ってきて、佑に報告した。
「弟子入りしてきました」
「聞きました。京都の味噌蔵に」
「立場が逆転しました」とフィリアは言った。穏やかに、しかし何かが弾けたような顔で。「最高です」
「最高ですか」
「菌は正直です」とフィリアは言った。「上手い人のところに集まります。次郎兵衛さんの蔵の菌は、今、私の管理した菌より活発です。それが答えです」
「あなたが百年かけて教えた成果が」と佑は言った。「あなたを超えた」
「そうです」
「悔しくないんですか」
フィリアが少し首を傾けた。「悔しいという感情が、どこかにあります。ただそれより嬉しい気持ちの方が大きいです。なぜだと思いますか」
「……なぜですか?」
「私が教えたからです」とフィリアは言った。「私が教えたものが、私を超えた。それは私の一部が次郎兵衛さんの中に入って、彼がそれを超えたということです。誇らしいです」
佑はフィリアを見た。
「……そうですね」と佑は言った。
「佑も同じことを感じる日が来ます」とフィリアは言った。「日本人があなたを超える日が」
佑は少し間を置いた。「楽しみです」
「本当ですか」
「……本当です」と佑は言った。「たぶん」




