閑話「フィリアが味噌蔵で泣く」
(1620年代・京都の老舗味噌蔵)
フィリアが温度計を置いてから三十年が経っていた。
蔵の当主は三代目になっていた。耳の長い女が季節ごとに来て、桶の匂いを嗅いで、何かを確認して帰る──それが当たり前になっていた。
その日、フィリアは桶の蓋を開けて、いつものように鼻を近づけて。
止まった。
「……」
「どうしましたか」と三代目の当主が聞いた。
「ちょっと待ってください」
フィリアはもう一度嗅いだ。それからまた少し待った。
「……出来た」と小さく言った。
「出来たとは」
「私が目標にしていた麹菌の状態に、今日はじめて達しました」
当主が桶を覗き込んだ。見た目には、いつもと変わらない。ただ、フィリアが言っていることは本当なのだろうと──三十年、この女を見てきた直感が告げていた。
「……何年かかりましたか」
「三十八年です」とフィリアは言った。「最初にこの蔵の菌を見てから」
「長かったですね」
「私は五百年生きるので」とフィリアは言った。「まだ序の口です」
それから少し間を置いて。
「ただ」とフィリアは言った。声が少し、変わっていた。「嬉しいです」
当主は黙っていた。フィリアの目が、うっすらと光っていた。
「……泣いてますか」
「泣いていません」
「目が光っています」
「佑に同じことを言ったことがあります」
「どう答えましたか」
「照明の問題だと言いました」
当主はしばらく考えてから、「少し待ってください」と言って奥に引っ込んだ。戻ってきた時に、椀を二つ持っていた。味噌汁だった。
「今日の分を、少し分けます」
「……いいんですか」
「三十八年、うちの菌を見てくれた礼です」
フィリアは椀を受け取った。一口飲んで、また少し目が光った。
「……良いですね」
「良い味噌ができましたから」
「はい」とフィリアは言った。「最高です」




