閑話「瀬川澪 初登場」
工作船に、見知らぬ女が来た。
正確には、見知らぬではない。顔に見覚えがあった。目の形と、帳面を脇に抱える持ち方が、誰かに似ていた。
「瀬川澪と申します」
三十代前半の女だった。母親と違うのは、廊下で盗み聞きしないで最初から入ってきたことだった。
「……結殿の」
「娘です。二代目所長を拝命しました」
佑は少し間を置いた。
「結殿は」
「先月から床についています。長くはないと言っています」
「……そうですか」
澪が帳面を開いた。母親と同じ動作だった。
「引き継ぎを受けました。佑殿との等価交換の取り決め、分析結果の共有、質問の持ち込み窓口。全部です」
「……全部、聞いていたんですね」
「物心ついた頃から聞かされていました」と澪は言った。「母が帰ってくると、必ず佑殿の話をしていました」
佑は黙った。
「良い話ばかりではありません」と澪は続けた。「値段をつけ損ねた話も、蕨餅に負けた話も、全部聞きました」
「……それは」
「あと」と澪は言った。帳面から目を上げて、佑を見た。「銅の精錬差益の端数、黄金三枚分を毎回負けているのは把握しています。今後は正規の値段でお願いします」
佑は止まった。
等価交換の原則から言えば、澪は正しい。正しいのだが。
「……結殿は何も言いませんでした」
「母は甘かったんです」と澪は言った。ただし、少し笑いながら。「私は甘くありません」
佑(内心):また値段をつけ損ねそうな予感がする。
「分かりました」と佑は言った。「正規の値段で」
「ありがとうございます」
澪が帳面に何かを書いた。母親と同じ速さで書いた。
「最初の質問があります」
「どうぞ」
「信長様が亡くなりました。佑殿は今後、誰を窓口にするおつもりですか」
佑は少し考えた。
「信忠殿に話を通します。ただ」
「ただ?」
「あなたのような人間が引き続きいてくれるなら、変わらず此処に来てください」
澪が少し間を置いた。
「……それは値段がつきますか」
「つきません」と佑は言った。
「では等価交換ではありませんね」
「そうですね」
澪がまた帳面に書いた。何を書いたのかは見えなかった。
帰り際に、澪は一度だけ振り返った。
「母が言っていました」
「何と」
「佑殿に蕨餅を持っていく時、本当は毎回緊張していたと」
佑は返事をしなかった。
澪は振り返らずに出て行った。母親と違うのは、そこだけだった。
その夜の帳簿に、佑は書いた。
【1632年・記録】
瀬川澪、初来訪。
銅の精錬差益の端数、正規の値段に戻すことになった。
値段をつけ損ねた。また。
結殿が蕨餅を持ってくる時、緊張していたとは知らなかった。
知っていたら、もう少し早く払っていた。
次は忘れない。




