閑話「帳簿の余白」
信長が死んだのは、霜月の夜だった。
城佑は工作船の帳簿を開いたまま、夜明けまで何も書かなかった。
払うべきものは払い終えた。貰うべきものは全て受け取った。信長との五十年の取引は、数字の上では完全に等価だ。黄金、鉄、情報、そして——佑が測り損ねていた何か。それが何かを考えながら、彼はペンを走らせた。
信長殿との取引、完了。
書いてから、手が止まった。
思い出したのは、三年前のことだ。信長が風邪で臥せっていた時、佑が工作船に見舞いに行った。信長はいつもの威圧も虚勢も脱ぎ捨てて、しわの深い顔で薄い布団の中にいた。
「お主、火打石は持っておるか」
寝言のような問いだった。
「持っていません」
「そうか。ならこれをやろう」
信長は枕元から古い火打石を取り出した。表面が磨り減って、持ち主の長年の癖で角が丸くなっている。
「いりません。等価交換の——」
「黙れ」
信長は珍しく穏やかな声で言った。
「わしが死んだら、焚いてくれ。それだけでよい」
佑は受け取った。受け取るしかなかった。
問題は、今ここにある。
帳簿の「備考」欄に、佑はゆっくりと書いた。
備考:信長殿より預かりし火打石、一個。焚くべき機を失した。
失した、という言葉を書いてから、しばらく動けなかった。臨終の場には間に合わなかった。焚けなかった。手が出なかった。火打石を握ったまま、ただそこに立っていた。自分でも理由がわからない。
等価交換が成立していない。
返せないものが、ある。
佑は帳簿を閉じ、引き出しを開け、別の帳簿を取り出した。こちらは、もっと古い。
瀬川結との取引記録。
最後のページを開く。結が死んだのは、信長より十五年あとのことだ。春の終わり、桜が散り切った日に、静かに眠った。
佑は、その日の欄に一行だけ書いていた。
瀬川結より、蕨餅三個。代金、三枚。
三枚、というのは嘘だった。
あの日、病床の結が「私に値段をつけるとしたら」と聞いた。佑は答えようとして、答えられなかった。黄金、と言いかけた。全部でも、と言いかけた。それが嘘になると気づいたので、代わりに「三枚です」と言った。
結は笑った。「ずいぶん安い」と言って、また笑った。目の端に光るものがあったが、笑い続けていた。
佑は今も、その値段の正しい書き方を知らない。
三枚と書いた文字の下に、いつの間にか小さな文字で何かが書いてあった。結の字だ。佑が気づいていないと思っていたのだろう。
今日も和食が美味しかったですね。
いつ書いたのかわからない。帳簿がいつの間にか結に読まれていて、書かれていた。いつ気づいたのかも覚えていない。気づいた時にはもう、消せなかった。
佑は帳簿を二冊並べた。
返せない火打石。
値段のつかない人間。
どちらも、等価交換の外にある。外にあるのに、帳簿のどこかに書かずにはいられなかった。数字にならないものを数字の横に置いて、何度も読み返した。それが自分の習慣になっていたと、今初めて気づいた。
夜明けの光が、工作船の窓に入ってきた。
佑はペンを取り、備考欄の下に一行書き足した。
備考:返せないものの総数、二件以上。増加中。対処法、不明。
閉じた帳簿を引き出しに戻した。どちらも捨てられない。捨てる理由が見つからない。
等価交換は、成立していない。
それで、よかった。




