閑話「フィリア、出汁を知る」
1589年・第一部後半
発端は、善右衛門の娘が持ってきた椀だった。
味噌汁だった。ただし、いつもと違った。
佑は一口飲んで、止まった。
旨い。旨いのだが、味噌の奥に何かある。味噌だけでは出ない、透明な旨味が椀に沈んでいた。
「……これは」
「鰹と昆布で出汁を取っています」と娘が答えた。「うちは昔からそうしています」
佑は二口目を飲んだ。三口目を飲んだ。
隣でフィリアが椀を覗き込んでいた。
「飲んでいいですか」
「どうぞ」
フィリアが一口飲んだ。
五秒、黙っていた。
「……もう一杯もらえますか」
「どうぞ」
フィリアがもう一杯飲んだ。また五秒、黙っていた。
「佑」
「なんですか」
「これは、何ですか」
「出汁です」
「出汁?」
「鰹と昆布から取る旨味です」
「鰹と昆布」
フィリアの目が、佑の知っている目になった。
菌の話をする時と、同じ目だった。
三日後、フィリアがいなくなった。
書き置きが一枚あった。
高知へ行きます。鰹を見てきます。申請は後で出します。
佑(内心):申請は先に出してください。
〔高知・フィリア視点〕
土佐の漁村は、潮の匂いがした。
フィリアは浜に立って、鰹を見ていた。漁師たちが水揚げした鰹は、銀色に光っていた。大きかった。思っていたより、ずっと大きかった。
「これを削るんですか」とフィリアは漁師に聞いた。
「そうですよ」と漁師は答えた。「煮て、燻して、カビをつけて、乾かして」
「カビ?」
フィリアの目が光った。
「何のカビですか」
「さあ、先祖代々のカビですよ」
「何代前からですか」
「さあ」
「カビは生きていますか」
「生きてますよ、今も蔵に」
フィリアは蔵を見た。古い蔵だった。
菌は、待つことを知っている。先日自分が言った言葉を思い出した。
鰹節の蔵の菌も、ずっと待っていたのだ。削られる瞬間を。湯に入る瞬間を。旨味になる瞬間を。
「見せてもらえますか」
「どうぞ」
フィリアは三日、蔵から出なかった。
四日目の朝、漁師に頭を下げた。
「ありがとうございました。次は昆布を見に行きます」
「昆布は北ですよ」
「知っています」
〔利尻・佑視点〕
フィリアから通信が来た。
『利尻にいます。昆布が想像より複雑です。もう少しかかります。』
佑は返信した。
「いつ戻りますか。」
『分かりません。昆布が面白すぎます。』
佑(内心):面白すぎますで済ませないでください。
十日後、フィリアが戻ってきた。両手に昆布を抱えていた。乾燥した昆布が、腕からはみ出していた。
「戻りましたか」
「戻りました」とフィリアは言った。顔が上機嫌だった。「昆布は海の菌です」
「昆布は植物では」
「菌ではないですが、菌と同じです。時間をかけて旨味を蓄えます。利尻の昆布は冷たい海で育ちます。冷たいほど、ゆっくり育ちます。ゆっくり育つほど、旨味が深くなります」
「……なるほど」
「鰹も同じです。黒潮で育ちます。速い流れの中で育ちます。速いほど身が締まります。身が締まるほど、削った時の香りが高くなります」
「申請書は」
「後で書きます」
「先に書いてください」
フィリアが昆布を床に置いた。大量だった。
「佑」
「なんですか」
「出汁は、二つのものが合わさった時に初めて完成します」
「はい」
「鰹だけでも昆布だけでも、足りないんです。二つが合わさって、初めて出るんです」
佑は少し考えた。
「……合わせ出汁ですね」
「合わせ出汁」とフィリアは繰り返した。「いい言葉です」
その夜、フィリアは鰹と昆布で出汁を取った。味噌汁にした。
工作船に、出汁の匂いが広がった。
佑は飲んだ。
旨かった。
その日の帳簿に、佑は書いた。
【1589年・秋・記録】
フィリア、高知と利尻へ無断出張。
申請書、未提出。
帰還後、昆布を大量持ち込む。
合わせ出汁の味噌汁、旨かった。
備考:菌の次は出汁か、と思ったが、
考えてみれば出汁も菌も同じだ。
時間と素材が合わさって、初めて出るものがある。
フィリアはそれをよく知っている。




