閑話「老婆の緑茶」
静岡の茶畑の道を、佑は特に目的もなく歩いていた。
仕事ではなかった。フィリアの用事に付き合って近くまで来て、ついでに歩いていた。ただそれだけだった。
道の脇に、小さな家があった。
縁側に老婆が座っていた。佑を見て、目を細めた。
「お疲れのようだねえ、耳の長い旦那」
佑は立ち止まった。
耳について言及する人間は、三種類いる。怖がる者、崇める者、そして——この老婆のように——ただ事実として言う者だ。
「お茶でも飲んでいきな」
「……結構です。等価——」
「遠慮するな」
老婆は立ち上がって、家の中に入った。出てきた時、茶が二つあった。
佑は断る言葉を持ったまま、縁側に座った。なぜ座ったのか、後で考えてもわからなかった。
お茶は、青く透き通った緑色だった。湯気が真っ直ぐ上がっていた。
一口飲んだ。
渋みと甘みが、順番に来た。土の匂いがした。茶畑のすぐそばで育った葉の、真っ直ぐな味だった。技術も工夫も余計なものも何もなく、ただ旨かった。
「旨いだろう?」
「……はい」
「うちの茶畑の、今年の一番茶だよ」
老婆は自分の茶を飲みながら、遠くを見た。
「お客さんは、どこから来たんだい」
「遠くから」
「そうかい。遠くから来たわりに、疲れた顔をしておる」
「……疲れていますか」
「疲れているよ。体じゃなくて、ここが」
老婆は胸のあたりを指で叩いた。
佑は何も言わなかった。
二人で黙って茶を飲んだ。茶畑の風が来て、葉の匂いがした。遠くで鳥が鳴いた。
老婆が話した。今年の茶の出来の話、孫が来月結婚する話、去年の台風で傷んだ樹の話。佑は相槌を打ちながら聞いた。特別な話は何もなかった。ただの、老婆の日常だった。
十一分後、佑は立ち上がった。
「ありがとうございました」
「また来い」
「代金を——」
「いらん」
老婆は手を振った。
「ただのお茶だよ。旨かったなら、それでいい」
佑は、等価交換の言葉を持ったまま、言えなかった。
道を歩きながら、十一分間のことを考えた。あの時間に、値段をつける方法がわからなかった。お茶の原価ではない。老婆の時間の分でもない。
ただ、茶畑の風と、旨いお茶と、誰かの日常を聞いた時間。
その値段が、わからなかった。
帳簿に書かなかった。書けなかった。
しかし、その十一分間を、佑はずっと覚えていた。




