第15話 「走りたい気持ち」
お立ち寄り頂き、ありがとうございます。
阿部武、三十二歳。
テレワーク歴、ほぼ三年。
「……今日も一歩も外に出なかったな」
夕方の薄暗い部屋で、
武は椅子の背にもたれながらため息をついた。
仕事は順調。
人間関係のストレスも少ない。
でも──
体は確実に重くなっていた。
腹の周りについた“脂肪の塊”。
階段を上るだけで息が切れる“筋力の衰え”。
(運動しなきゃ……って思うんだけどな)
思うだけで、
体は動かない。
ジョギングをしようと考えたこともある。
でも、走ることへのハードルは高かった。
(まずは……自転車、かな)
武は、
ベランダの隅に置きっぱなしだった自転車を引っ張り出した。
タイヤは少し空気が抜けている。
ベルは錆びていて、
触るとカランと頼りない音がした。
「……まあ、乗れればいいか」
武は自転車を押して、
マンションの下へ降りた。
目の前には、
いつも窓から見ていた公園が広がっている。
「久しぶりに……行ってみるか」
公園に入ると、
夕暮れの風が頬を撫でた。
武は自転車にまたがり、
ゆっくりとペダルを踏んだ。
「……あれ、意外と気持ちいいかも」
そのときだった。
自転車のベルが、
ふわりと光った。
「……ん?」
武は気づかない。
夕日が反射しただけだと思った。
しかし──
公園のベンチの下にいた野良猫が、
その光に反応して耳を立てた。
ベルの光は小さく震え、
丸い輪郭をつくり、
やがて小さな妖精の姿になった。
精霊リンクが、
自転車のベルに宿ったのだ。
(……あ。ひかり……
このひと……うごきたい……
でも……こわい……
ぼく……てつだう……!)
リンクは、
野良猫にだけ見えていた。
猫は目を丸くし、
リンクの光に近づいた。
(こっち……?
いく……?)
リンクは小さく頷き、
ベルをちりんと鳴らした。
「ん? 今、鳴ったか?」
武は首をかしげた。
猫は、
リンクの光を追うように走り出した。
(いく……!
こっち……!)
リンクは、
猫の少し前でふわふわと揺れた。
武は、
猫が自分の前を横切ったのを見て笑った。
「おいおい、急に走るなよ」
猫は振り返り、
まるで“ついてこい”と言うように尻尾を立てた。
武は、
なんとなくペダルを強く踏んだ。
風が頬を撫でる。
「……あれ、なんか……いいな、これ」
猫は公園の奥へ走り、
リンクはその少し前で光を揺らした。
武は、
その後ろを追いかけるように自転車を走らせた。
久しぶりに感じる“風”。
胸の奥が、
少しだけ軽くなった。
公園の奥へ進むにつれ、
武の呼吸は少しずつ荒くなっていった。
「……はぁ……はぁ……
やっぱり……体力落ちてるな……」
それでも、
胸の奥はどこか軽かった。
前を走る野良猫は、
時々振り返っては、
“ついてこい”と言うように尻尾を立てた。
その少し前で、
リンクがふわりと光を揺らしている。
(たけし……がんばれ……!
こっち……たぶん……!
いってみよ……!)
リンクの“たぶん”に、
猫は小さく「ニャッ」と鳴いた。
まるで「ほんとに大丈夫?」と
ツッコミを入れているようだった。
武は、
猫の鳴き声に思わず笑った。
「お前、なんか……誘ってるみたいだな」
猫は返事をするように鳴き、
公園の外へ向かって走り出した。
「え、そっち行くのか?」
武は、
気づけばペダルを強く踏んでいた。
公園を抜けると、
川沿いのサイクリングロードに出た。
夕暮れの風が、
武の頬を優しく撫でる。
「……うわ、気持ちいい……」
猫は先を走り、
リンクはその少し前で光を揺らした。
(たけし……かぜ……すき……?
もっと……いく……?)
武は、
自分でも驚くほど自然にペダルを踏んだ。
「……あれ、俺……走ってる?」
風が体を包み、
胸の奥がじんわりと熱くなる。
(たけし……すごい……!
はしってる……!
やった……!)
リンクは嬉しくて、
ベルをちりんと鳴らした。
「おっ……鳴った。
なんか……いい音だな」
猫はその音に反応して、
さらにスピードを上げた。
武も負けじとペダルを踏む。
「……はぁ……はぁ……
でも……悪くない……!」
久しぶりに感じる“走る感覚”。
風の匂い。
夕暮れの空。
猫の軽やかな足音。
全部が、
武の心を少しずつ軽くしていった。
しばらく走ると、
猫は川沿いのベンチの前で立ち止まった。
リンクもその横で光を揺らす。
(たけし……ここ……!
すこし……やすむ……?)
武は自転車を止め、
ベンチに腰を下ろした。
「……はぁ……はぁ……
でも……気持ちよかったな」
猫は武の足元にすり寄り、
小さく喉を鳴らした。
「お前……ありがとな。
なんか……久しぶりに走ったよ」
猫は満足そうに目を細めた。
リンクは、
その光景を見て胸をいっぱいにしていた。
(たけし……
はしりたい……きもち……
もどった……!
よかった……!)
武は、
夕暮れの空を見上げながら呟いた。
「……明日も、少しだけ走ってみようかな」
その言葉に、
猫は嬉しそうに尻尾を立てた。
リンクは、
その横で小さく頷いた。
(たけし……もう……だいじょうぶ……
こころ……うごいた……
ぼく……うれしい……)
リンクの体が、
ゆっくりと光に溶けていく。
猫はその光に気づき、
小さく「ニャッ」と鳴いた。
(ありがとう……)
リンクは微笑み、
光の粒となって夕暮れの空へ舞い上がった。
武は気づかないまま、
自転車のベルをそっと撫でた。
「……また走ろうな」
ベルが、
ちりんと優しく鳴いた。
お読み頂きありがとうございました。




