猫の子一匹、通ります ~収穫祭が終わる頃~
イアルは油断していたのだと思う。あまりにもなんにも起こらなかったから。
それが嵐の前触れで、束の間の静けさだと重々知覚していたはずなのに。
「領都の警備の都合上、何日かここを離れます」
結局、ラウルはいたって無難な口実で留守にすることを説明した。
発つ時に姫君に「気を付けてね」と言葉を掛けてもらい、何故かグッと胸を押さえていたのだけが、いたく不審だった。
嘘を吐くから心苦しいのか、単に年なのか。まあそのへんはどっちでもいい。
ともかく初めてのラウルの不在。しかし備え的に抜かりはなかった。
ゼフィネさんの隠居宅を遠回りに囲んで、二重三重に人が配されてもいた。
ただおっさんがついでみたいに物騒な指示を残して行ったから、イアルは微妙に気が張っていたのだ。
「万一、変なのが来たら……」
出掛けになるべく早く戻ると短く告げて、そっとラウルはイアルに囁いた。
「構わねえから、斬っとけ」
しかし。ラウルが懸念したような事態は何も起こらなかった。
この隠れ家は平穏で、何事も変わりはない。
おっさんの留守中にも都度連絡はあった。
湖魚を売りに来た態の繋ぎが最後に来て、ゼフィネさんが普通に応対したのだが「無事終了」となったので「明日には戻れる」とちゃんと言伝も届いた。
次第にイアルの警戒は薄れていった。
領境の砦で現認された胡乱な連中は、早々に拘束されていた。
発見から確保まで迅速だったのは、姫君の元護衛の功だったという。見知った顔があると目敏く気付いた気の毒なあの騎士は、しかしそれがあまり評判が芳しくない連中だったのも承知していた。それで、また他所で暴れて西の辺境領民達に難儀を掛けては申し訳ないと、律儀にも自ら進んで申告したのだそうだ。
案の定酔って酒場で管を巻き、乱闘騒ぎになりかけたところを纏めて引っ括って牢に入れられたというから、ラウルの言う通り「人も質も落ちて」いたのだろう。いや「質も数も」だったか?
イアルはそうした経緯を事後になって聞いた。
けっこうなお手柄のはずだが、それでも予定通りに西海の塩田へ赴いたそうだ。
いわく、騎士本人が「それはそれ。これはこれ。約束ですので」と生真面目ぶりを発揮したという。
(……クソ真面目かよ?)
ちょっと上手く立ち回れば、免除されたろうに。
なんか傍迷惑なくらい、諸々に忠実な気質なのかもしれない。
そんなヤツが無駄死にせずに済んでよかったよと、後にイアルは思ったものだ。
そんな溺れかけの犬搔きのごとき水面下での事態など、露程も知らず。
辺境領の収穫祭はようよう最終日を迎えた。
この家での暮らしにもとうに馴染んで、早ふた月目に突入している。
秋は駆け足で過ぎて行く。おそらくみんな気が緩んでいたのだ。
その日、予期せぬ事態が出来した。
騎士団からは、新たに助っ人としてランスが加わっていた。
当日限定の応援予定だとかで、様々言い含められているらしく母屋には近付こうとしない。イアルをちらと見て、おやと意外そうな顔をしたものの、元々口数は少ない男だ。すぐにも黙って敷地入口辺りで立ち番に就いた。
一応にも平服で、イアル同様に剣だけを腰に差している。ガタイがよくて、居るだけで用心になる。予め外周警備組から注意事項も伝達されていたのだろうか。
イアルから引き継ぐような内容も特になかった。
(アイツなら、無駄な詮索もしないか――)
適任かもしれない。ランスとは、イアルも何度か協働したことがある。
むこうは第二隊所属で、同期ではないが確かイアルと同年代。一つ二つ上だったと思う。仲間内でも万事に手堅いと評価されている。
(まあ第二隊にいるくらいだ。腕もそれなりなんだろう)
イーサン、エヴァンと立て続けにお館様の近習を出したため、ここ数年で第二隊の株は上がっている。精鋭第一隊の予備軍、と言った位置付けだ。
ラウルの代わりになるはずはないが、そこから応援を寄越すのは妥当な人選である。それにランスなら、飲んだくれてべらべら喋ることはない。
『ゼフィネ殿の隠居宅には誰も入れるな。猫の子一匹、通すな』
当のランスは、ただただそう厳命されて来ていた。
当初のイアルと同じく詳細説明は省かれていたのだが、彼はこれまでにも幾度かこの家での密談時に警護に付いたことがある。それで言い付け通りに質問をせず、速やかに黙々と仕事を遂行していた。まずまず適当な人間が選ばれてはいたのだ。
何も尋ねず、無駄口も叩かず。朝早い内に屋外で簡単な申し送りだけを貰うと、さも当たり前のようにランスは絶妙な立ち位置を取った。なるほど。堅い。
屋内及び母屋近辺を受け持つイアルは、その位置に感心した。
初日に点検したからわかる。柵から少しだけ離れたあそこからなら、庭と畑とが一望できる。母屋の裏口近辺に動く者があれば、その気配までも覚れる。
第二隊は伊達ではなかった。
正午までは何事もなく過ぎた。
ずっと屋内で過ごしていた姫君が、昼食に使うハーブを摘もうと僅かな間だけ勝手口から裏へ出た。玄関脇ではなく裏手、母屋裏の畑の方へだ。
無論、イアルも一緒に付いて行った。
そこまでなら出ていいかと先に問われたのに、ゼフィネさんは止めなかった。
水も漏らさぬ前侍女頭にも、用心の隙が生じていたのだろうか。
「自分が採ってきますよ」と申し出たくせに、「また虫がいると思うから私が採るわ」と返されてあっさり同意してしまったイアルだって。迂闊だったのだ。
要は、皆が油断してしまっていたのだ。
その時、有り得ないことが起こった。
くれぐれも持ち場を離れるなと念を押されていたはずのランスが、あろうことか自分の定位置から外れた。そして真っ直ぐ、家の玄関を目指して寄って来る。
イアルにはそれがはっきりと見て取れた。ランスのの受け持ちはあくまで外で、本来なら敷地入口の柵より内には立ち入らない。そういう取り決めなのだ。
明らかに領分を逸脱していた。
「おいっ」
イアルは鋭い声で制した。
しかしランスは止まらない。歩調だけを緩めて、足を止める代わりに手を上げた。そして悪びれもせず、まだゆっくり歩いて来ようとする。
話が違う――
ラウルの申し送りでは、絶対にランスは母屋には近寄らない。
つまり姫君とは関わらせない方針で、お姿さえ見せない前提なのだ。おそらくこの家に誰かいるとは気付いたろうが、例によって見るな、訊くな、知りたがるなと、きつく言い含められて来ているはずだ。
いったい今日の仕事を何だと思っているのか。
手を抜いているのか。それとも俺のことを舐めてかかっているのか。
両方だなと、イアルは瞬時に判定した。
「止まれっ。お前の持ち場を忘れたのかっ」
イアルの声に怒気が籠った。普段怒らない人間が本気で怒ると怖いものだ。
イアルの常にない激しい剣幕に、一瞬ランスは気圧された。それで驚いて固まり、ようやく立ち止まった。
「え。いや、違う。そうじゃない。ゼフィネ殿に、客なんだ」
同時に。イアルの目は目標物を捉えた。足許に蹲る姫君を見守りつつ、入口と母屋裏、それに納屋横に堆く積まれた薪の陰とを逐次警戒していたから、イアルには正確に目視できた。ランスの向こうに、誰か別の人間がいる。数は一人――若い。男だ。
イアルは咄嗟に立ちはだかって、庇うように姫君を背後に隠した。
覚えず剣を抜いていた。姫君は屈んだまま、身を竦めている。
「イアル⁈ じゃ、じゃあお前が! ゼフィネ殿に取り次いでくれっ」
ギョッと困惑するその声に、未だ危機感は感じられない。
何を莫迦な――
忘れたのか。誰も入れるな、猫の子一匹通すな。確と厳命されただろ?
「イアル~~! 俺だよう」
大柄なランスの後から、その誰だか別のもう一人がひょいと顔を覗かせた。
「そんな大きな声出すなよ~。もう! ビックリするじゃないかあ」
間延びした喋り方。緊張感の欠片もない抑揚。
――ゼ、ノ……?
見覚えのある顔だった。それは三年近くも見ない顔で、もう会うことのないはずの顔であり、何よりここにいてはいけない顔だったのだ。
「お前……」
記憶にあるよりも、ずっとずっと日に焼けてはいた。だが間違いない。
そして有り得ない。相変わらずしまりのない、温和なまぬけ面。かつて騎士団同期だったゼノは、とうに除籍されて辺境領からも追放されていたのだから。
「なんで――なんで此処に」
さらに、もっとあってはならないことが起きた。不覚にも、起こってしまった。
「イアル――‼」
弾んだ声が空気を劈く。
忘れ得ぬ声。夢の中までイアルを苦しめた朗らかな声。
裏の畑の奥の植え込み。その外の茂みの、さらに奥から。一体の生き物が、勢いよく飛び出て来た。その声で高らかに、さも楽し気にイアルの名を呼びながら。




