御大、家宰殿ご登場
(――いいのだろうか?)
このまま姫様お手製のプレイスマットを貰ったりして。果たして俺は大丈夫なのだろうか。
その日、わりと直前までイアルは結構のん気なことを考えていたのだ。
もちろん、お館様の手前を慮ってのことである。ここは「俺等は」と考えるべきところだが、護衛のイアルもいたってのほほんとしていたようだ。まあそれだけ、ゼフィネさん宅が平和だったのだろう。
「あの……ご自分用の絹のハンカチに刺繍とか――は、されないんですか?」
姫君の手許を見るともなく見ながら、イアルはおずおずと聞いてみた。実はあまり触れたい話題ではなかったのだが、不安の方がちょっとだけ上回った。
姫君は先に、ラウル用のプレイスマットに取り掛かっていた。
本来はイアルの分を作る番だったが、途中で刺繍糸が足りなくなった。ちょうど二つ目のイニシャルを入れる段階で中断し、補充の青糸を待つことになった。
ゼフィネさんはすぐにシャールに頼んでくれたのだが、どうやらイアル用だと知れてシャールには露骨に後回しにされていた。
「は? いつでもいいだろ? そんなの」
イアルに対しては、シャールはまったく遠慮がない。自分の優先順位が低いのはわかっているので、イアルも特に何も言わない。意図的に忘れられている気はしたが、催促できる立場でもなかった。
むしろイアルが遠慮していた。姫君は途中だと言うけれど、一つ目のイニシャルEは流れるような筆記体で、明らかにゼフィネさんのものとは別のステッチだ。
それはまるでお館様に差し上げる品のような針仕事に思えて、イアルは人知れず不安を覚えていた。それでもうEは一つ出来ていることだし、俺これでいいですと申し出たのだが、せっかくだから四隅にそれぞれ入れてあげると姫君に笑顔で返されてしまったのだ。
(いいのかな……)
無論、まったくの取り越し苦労である。
姫君は既に差し上げたお館様への品には、もっと精魂を込めていた。
姫君には生涯初の男性への贈り物だったし、ちょっと人生を賭けるくらいの気合で取り組んでいたのだ。何ならもっと精緻な刺繍が施されてもいた。だから当然の帰結として、気楽に拵える家庭用品とは歴然たる差が付いている。
なので、そこは外野のイアルが気を揉むまでもなかったのだが、要は知らなくていい話だった。
ちなみに、姫君が繰上りで先に作業されているラウルの分は、恐れ入りながらも当のおっさんがゼフィネさんと同じ手法の刺繍を希望したため、可愛らし過ぎる多数のRがプレイスマットの四方に出現しつつある。
だが、この家の住人達がのんびりしていられたのもそこまでだった。館から、あえてシャールが先触れに来たからだ。
それはちょうど、街道筋の惨劇で捜索に参加した人間達がそれぞれの忙しさにかまけ、他人事を忘れ始める頃でもあった。そしてイアルには、さらなる衝撃の訪れだった。
(とうとうおいでなすったか――)
家宰殿の来訪は、とある昼下がりである。あらためてシャールを引き連れてのお越しとなった。
これまでも何度か来てはいたはずだ。ある時はゼフィネさんの顔を見に。ほんの息抜きがてらお茶を飲みに。或いは何かのついでにご機嫌伺いで顔を出し、もしくはそういう風を装って内緒の相談事をしに。いっそ謀を巡らしに。
ともかく年に数度は来ていたのだ。家宰殿がこの家を訪問しても、誰も不審には思わない。そう悪目立ちはしない。
しかし、今回の用件は違った。家宰殿は姫君に会いに来ていた。
「エルンスト辺境伯家の家宰を務めます、デルソトにございます」
初対面の挨拶に姫君が何か答えかけるのを、家宰殿はやんわりと制した。
「結構ですよ。あなた様のお名は存じ上げておりますので」
――勿論、ご事情の方もよく存じ上げております。
礼儀にかなった態度の陰で、油断ない目がそう語っていた。




