御大、家宰殿ご登場
――姫様は、お館様に新しい名前を貰ったのだ。
別の人生を生きるために。
そんな風に考え出したのは、イアルが大小の衝撃から少し落ち着いた頃である。
きっとアイシャとは本名ではない。お館様が与えたのだろう。
本当の名前は知らないけれど。このありふれた名前はエルンストの男にとっては特別だ。最愛を意味する名前なのだから。
そんな大切な名で呼ばれて、姫様はこれから辺境領で生きて行く――
新しい人生。なら、幸せであるべきだ。
イアルはそうも思った。まっさらな、自由な人生でなければならないと。
今の暮らしが悪いとは思わない。それなりに好きにお過ごしかもしれない。ただし人目を避けて、息を殺し隠れ住むようなこの状況が、幸せだとは思えなかった。
ゼフィネさんの隠居宅での生活がいつまで続くのかはわからない。だけど、別の人間として生きるのならば、別の暮らし方を用意してやるべきではないだろうか。
お館様にはちゃんとお考えがあるはずだ。そりゃ心積もりだっておありだろう。
是非とも考えてやらなきゃならないだろうとも、イアルは思った。
(いくらなんでも……死んだことにしちゃうって)
死亡推定って。そこはどうなんだろうか。絶対にバレるとマズい。それはわかる。けど、ここまで徹底することはなかったのでは?
仮に何十年か経って、世間が今回のあれこれをキレイにまるっと忘れてしまうとか、それとも世の中そのものが変わって、隠す必要がなくなるとか。そういうもしかまさかが巡って来たとしても、これじゃあもうやり直しがきかないじゃないか。
そこまでする必要あったか? そうまでしなくても、よかったんじゃないか?
――それとも、姫様は。弔いを出してくれるかどうかも微妙な実家や郷里には、未練なんてサラサラないのだろうか。
蝶よ花よと育てられた娘ではないとしても。あまり恵まれた境遇ではなかったのだとしても。
ここいらへんを考えると、イアルは胸が苦しくなる。イアルにだって失くしたくないものや場所はあるのだ。姫様は違うのだろうか。気の毒で痛ましくて、イアルは胸がズキンズキンしてたまらなかった。
――姫様はもう帰れない。死んだことにされたんだから。もう戻る場所がない。
戻れない、帰れない選択をさせてしまったのはお館様じゃないか。
何もお館様が大公家への腹いせや意趣返しで、人ひとりを奪って来たなんて思いはしない。
いつどこで姫様と知り合って、いつからの仲なのかなんて見当も付かなかった。けど、お館様はこんな若い娘さんの将来を捻じ曲げてしまったのだ。なら、相応の人生を用意してやるべきではないのか。それが男の、大人の男の責任ではないのか。
それはちょうど、街道筋の惨劇で捜索に参加した領境の人間達がそれぞれの忙しさにかまけ、他人事を忘れ始める頃でもあった。
胸の痛みを持て余すイアルに、さらなる衝撃が訪れた。
(とうとうおいでなすったか――)
家宰殿の来訪は、とある昼下がりのことだった。シャールを引き連れてのお越しである。
これまでも何度か来てはいたはずだ。ある時はゼフィネさんの顔を見に。ほんの息抜きがてらお茶を飲みに。或いは何かのついでにご機嫌伺いで顔を出し、もしくはそういう風を装って内緒の相談事をしに。いっそ謀を巡らしに。
ともかく年に数度は来ていたのだ。家宰殿がこの家を訪問しても、誰も不審には思わない。そう悪目立ちはしない。
しかし、今回の用件は違った。家宰殿は姫様に会いに来ていた。
「エルンスト辺境伯家の家宰を務めます、デルソトにございます」
初対面の挨拶に姫様が何か答えかけるのを、家宰殿はやんわりと制した。
「結構ですよ。あなた様のお名は存じ上げておりますので」
――勿論、ご事情の方もよく存じ上げております。
礼儀にかなった態度の陰で、油断ない目がそう語っていた。




