赤い糸と真紅の記憶
――なんでだ?
どうしても解せない。
どうにも消化しきれない姫君とお館様の関係性と現在の状況に、既にイアルの頭は飽和状態だった。なかなか気持ちを整理しきれない状態でさらに輪を掛けて納得できなかったのは、ウラルが姫君の手になる赤い糸の刺繍を欲しがった点である。
は? なんで? どうして?
一応、姫君に頼まれた通りにイアルはラウルに聞いてみた。仕方なしに。昼休憩に入る時、ラウルが母屋の端に寄って来たその一瞬の隙を突いた。
「ああ? 何だよ」
「――姫様が、俺等にもプレイスマットとかいう日用品を拵えてくださるそうなんで。イニシャルとか、刺繍を入れてくれるみたいです」
「あ・あ? ――え。えっ?? ええっ……ッ!?!」
(いや。絶対おかしいだろ? あの反応)
ラウルはわかりやすく狼狽えた。見たことないくらい取り乱し、そして柄にもなく畏まりつつも「赤で」とか抜かしやがったのだ。それも「できたらイニシャルをお願いします」なんてほざいて。まったくもって、納得できない。
――姫様ご所望の赤い糸は、こんなでよかったんだろうか。
最初、イアルはそう思っていた。
刺繍糸は庶民的な赤だったからだ。明るめの緋色は植物のアカネ染め。人気の色だが、高価な真紅とかではない。経年劣化で色褪せてしまう。平民の衣服にも使われる、言わば普通の赤色だった。
(けど。絶対に! おっさんに似合う色とかじゃあないと思うぞ⁈)
個人の嗜好やイアル的偏見はさておいて。
その無骨なおっさんラウルは、ちゃんと赤い手刺繍のありがたみと値打ちを理解していた。赤が古来より魔除けの色でもあって、だからこそ辺境領より東の地域では祈りを込めて、特に家族の持ち物に好んで用いられる――という純朴な伝統と風習をよく承知していたのだ。それだから大仰に映るくらいに感激した。
それは無論、ゼフィネさんにしても同じだった。姫君の感謝の気持ちを受け止めていたからこそ、響くものがあったのだ。正確に把握していなかったのは、たぶんイアルだけである。
『あんな赤があるのね……』
イアルの脳裏には、未だ鮮烈な赤が残っている。
公宮の紅い薔薇と謳われた先の奥方様がお召しだった真紅。あれは目の覚めるような赤だった。最上級の絹だったという。
輿入れされて間もない時分、館中の人間が溜め息混じりに見惚れていたものだ。
殊に女性達からは、熱い羨望の眼差しを送られていた。辺境伯家に降嫁してきた当代随一の美女は、本来は憧れの的だったのだ。大公姫は燦然と光り輝く高根の花の存在で、間違っても侮蔑の対象ではなかった。
後に凄まじい嫌悪憎悪へと反転したのは、それが裏切られたと思う感情の反動ではなかったか。
『アレ、染料がバカ高いからね』
イヴぐらいだったと思う。基本的な好悪や怨恨はともかく、先の奥方様が引き起こした騒動の前後を通じて、ほぼほぼ態度が変わらなかった人間は。
先の奥方様は新たな女主人のはずだったが、たとえ高位の貴婦人だろうが自分の持ち場に後から登場した新参者。辺境伯家では自分の方が古い。
イヴはそんな認識だったようだ。だから事前も事後も、姿勢がブレなかった。
イヴは騒動自体には何ら動じていなかった気がする。別に感情的になったりもしなかった。
ただ、お館様達に正式な離縁が成立するまで一連のあれやこれやで振り回された。恐ろしく仕事量が増大したから、さしものイヴも疲労困憊してはいた。だが、せいぜい『余分な仕事増やしやがって!』くらいの反応だったように思う。
やさぐれてはいたかもしれない。『特別手当寄越せ‼』的な暴言を、繰り返し聞かされた記憶がある。辺境伯家内全体が総非常事態宣言下にあったのだから、まあ仕方ない。
『同じ赤でも、ちょっと紫っぽいのは貝から色を取るの。で、ああいう真紅は、なんたらいう特定の木だけにくっつく虫。それを星の数ほど集めて、染料にする。だからバカ高いし、手間も時間も掛かるわけ』
刺繍糸の赤を見て、イアルはイヴが得意気に語っていたのを思い出した。
美とは費用対効果。とにかくヒト、モノ、カネ。当時からイヴは不動の持論を展開していたっけ。先の奥方様が纏われていたあの真紅は、目が飛び出る程高価なのだとイヴは力説した。
(……お前、そんな無駄な知識を蓄えてどうするんだよ。貴婦人の身支度とかにはてんでお呼びじゃないくせに)
せっかくお館様に正室が来た好機に、侍女に転換できなかったのがイヴである。
向こうから『連れて来ているから、もう侍女は要らない』と断られたとか聞いた。まるで堪えてなかったみたいだ。あれで大公姫は、イヴを推薦した侍女頭サルダーニャとの間に確執を生んだとか生まないとか。どこまでホントなのだろうか。
――虫? 嘘吐け。
あの頃イアルは、イヴのご高説で真紅のくだりだけは話半分に聞いていた。
どうやらサルダーニャの解説そのままの受け売りだったらしいが。
あの虫染料の箇所だけはイヴの創作というか、脚色だったんだろうと思っている。
おそらく侍女頭は、イヴ以上に終始冷静だったのだ。そして客観的に物が見えたが故に、イヴよりさらに気苦労が多く、もっと忙殺された。
(貴婦人が虫で染めたドレスなんか、着たがるかよ。俺だって気色悪いよ)
「ええ、そう。あれは虫よ」
事も無げにこの家の姫君が言い切ったので、瞬時イアルは固まった。虫染めの真紅なんて与太話ですよねとうっかり口を滑らしたら、そう返ってきたのだ。
(え。えええ……)
「ある種の樫――だったかしら。確か、その木にしか付かないのよね」
「………」
しかもイヴより具体的。
イアルはこの時初めて、自分に苦手なモノがあるのを自覚した。考えただけで気色悪い。
(どうも俺、虫類を好かないみたいだ)
これはイヴには絶対に黙っていようと、即座にイアルは決断した。




