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黒髪の寵姫  獅子伯年代記Ⅰ    作者: vientoverde
第八章 愛称はお姫様

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愛称は「お姫様」


 「……あの。何度も蒸し返して、誠に恐縮なのですけれど」


 ゼフィネさんの言葉に素直に頷いていた姫君が、やがておずおずと別の話題を切り出した。


「はい? どうされました?」

「その、姫君――って呼んでいただくの。私、やっぱりなんだか落ち着かないのです」

「ま、あ……。そうは言われましても」


 うーん。そんな気になるの?


 なんで拘るのだろう。だが間違っても、アイシャ様とは呼べない。

 きっと、アイシャの名で呼んでいいのはお館様だけなのだ。

うっかり俺等が呼んだら、お館様にぶん殴られる。いや、その前にまずラウルから一発貰ってどやされる。これはイアルの確信だった。


「私、そんなやんごとない身分ではありませんし」


 ゼフィネさんは黙ってお茶を注ぐばかり。なので、自発的にイアルから答えてみた。


「――いっそ綽名だと思って、割り切られては?」

「……綽名?」

「そう。お嬢様じゃなくても女性にはとりあえずお嬢さんとか、平民女子でも人気者ならお姫様とか、色々に呼ぶじゃないですか」


 イアルの提案も説明も、たいがいテキトーである。

しかし嘘ではない。市の青物商は幼女から老婆まで等しなみに「お嬢さん」と声を掛けるし、居酒屋の看板娘は通い詰める常連客達から「俺等の姫」と持て囃されている。


「―――……」


 ――そりゃ、納得されないよな。テキトー過ぎたか。


「お郷では、なんと呼ばれておられましたの?」


 さして興も乗らなかったろうに、ゼフィネさんが後を拾って聞いてくれた。


「そうですね。時々は――お嬢、とか」


 お嬢? またずいぶんと軽い。なんかテキトーなくだけ方だなあ。


「あら。お嬢様、ではなくて?」

「お嬢様、は別にいたのです。その本来のお嬢様よりは年少だから、私は『お嬢』でした」

「なるほど」


 ほんとテキトーだ。まさしく綽名じゃん。


「――ばあやにだけは、おひいさまと呼ばれ続けておりましたけれど。あれは何だか恥ずかしくて」


 うん、俺等も恥ずかしいです。「おひいさま」とか、無理。


「じゃ、姫様でいきましょう」


 テキトーついでに、イアルがまとめてみた。


「え」

「姫君、よりはくだけてませんか? 姫、もしくは姫様。それでどうですか?」

「………」


 もうこれで普段の三日分くらいは喋った気がする。本当は話すよりも、三日間黙っていたいイアルである。


「――いいんじゃなくて?」


 正直、心底どうでもよくて面倒だったのだろう。

ゼフィネさんのこの一言で、姫様呼びに落ち着いてしまった。以降すんなりこれで定着したのだ。


 なんでこんなに姫君が呼び名に拘るのか。

それは徐々にイアルも理解するようになるのだが、姫君以上に呼称に関して頑固だったのは、後年登場する姫君のばあや、サシャである。


 姫君が誕生したその瞬間から「おひいさま」と呼び掛け続けたサシャばあやは、死ぬまでこの呼称を変えなかった。決してその流儀を曲げることはなかったのだ。

 サシャばあやはその晩年において、お館様始めイアル達西の辺境領民に「文明の衝突」とでもいうべき痛烈な洗礼を授けることになる。それで最恐最強の称号を贈られるのだが、それにはまだ日を待たねばならない。



 「――ところで、姫君」


 ゼフィネさんがいたって穏やかに口を挟んだ。イアルは少しだけ身構える。


「私どもにまでお品を拵えてくださるのは、誠にありがたく存じますけれど」


 ゼフィネさんは優し気に微笑んだ。うわ。これ絶対にコワいヤツだ。


「まず先に、お館様の持ち物をお作りになりませんと」


 瞬間、イアルはドキリとした。


 ――そうなのか? そういうものなのか? いや、確かにそうだ。でも、もうゼフィネさんのを仕上げちゃったけど?


(たぶん……根本的な順番が間違ってるんだよな。どう考えても)


「お館様に、お手ずから刺繍されたハンカチでも差し上げられては?」

「そ、それは」


 姫君は恥ずかしそうに口ごもる。


「是非。そうなさいましな。お館様はさぞお喜びになりますよ」


 姫君は頬を赤くして俯いた。


「それは――も、もう、差し上げたので……」


 イアルは心臓が止まる気がした。


 え? お館様? あ、そうか――いや、なんで⁈?


「あ・ら」


 ゼフィネさんは楽しそうに笑った。


「まああ。そうでしたか」


 あ。これ――もう、ご存知でしたね? 知ってた顔だ。


「さようでございましたか。ホホホ。ええ、ええ。それなら、よろしいのですよ」


 ――いや、確実に知ってんだろ。

 

「ホホホ。それはそれは」

 

 おそらくはやんわり釘を刺したのであろうゼフィネさんは高らかに笑った。

何故だか誇らかなゼフィネさん。はにかむ姫君は、今まで見たことがないくらい、お年頃の女の子の顔になっていた。


 (あ――)


 それで、さすがにイアルも察した。


 意識的に考えないようにしていたこと。あえて蓋をして見ないようにしていた事実が、くっきりハッキリ脳内開示されていく。


 ――今ドキ花嫁を略奪とか、アリ? アリなのか⁈


 お館様の大胆不敵さに盛大に狼狽えて、一時は正気ですかと肝を冷やしていたイアルだが、冷静に考えたらあのお館様である。あえて理に合わないことをなさるわけがなかった。

 いくら新大公にムカつこうが、公国を内心でせせら笑っていようが、腹いせに女性を連れ去ったりする方ではない。わざわざ腐っても主筋である大公家と事を構えてまで、側妃を掻っ攫ったりする必要はないのだ。つまり、やるからにはそうする事情、出動するワケがあった。


(奪ったんじゃない。奪い返したんだ)


 何かと訳アリな姫君は、最初からウチのお館様とこそ訳アリだった。

それも大公家から横車が入るより前だ。たぶん、もっとずっと前から。


 マジか――


 勿論イアルには知る由もなかった。姫君が既に絹のハンカチにとても繊細な刺繍を施して、お館様に届けていたことを。人伝に託されたその刺繍だけが、姫君の想いを伝える手立てだったことを。

 そして、それが手紙すら交わさなかった二人の間で唯一つの、言葉のない便りとなったことを。


 お館様を動かし、即座に心を決めさせた意匠。


 いずれも、イアルは知らない方がよさそうな話ではある。

 


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