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黒髪の寵姫  獅子伯年代記Ⅰ    作者: vientoverde
第六章 しばしの休息

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今だけは


 (日用品を作るのか――)


 普通のお姫様はしないだろう。しないと思う。たぶん。


 イアルが見ていると、姫君は早くも二枚目に掛かっていた。

 最初に房状にしてみたのは、あくまで試作品だったらしい。まず内側を長方形に縫っておくところまでは同じだが、今度は房にするより先に、その縫い留めに沿って刺繍を入れるつもりのようだ。


 イアルには新鮮な光景だった。ちょっと不思議な気さえした。

なんか普通の女の子みたい。いや女の子だけれども。


「うーん。三日で一枚、てトコかしら?」


 もうお喋りは終了、とばかりに集中していた姫君がしばし手を止めて、途中工程らしいプレイスマットを顔の前に広げる。


「本当はテーブルクロスにして、ぐるりと刺繍をしたいのだけれど。それだとすごく時間がかかるから、いつになるか完成が見越せないのよね。これなら小さいし、なんとか全員分を仕上げられそうかしら」

「……?」


 全員、分?


「まずはゼフィネさんのからね、その次はイアル。あなたのを作るわね」

「え――」


 お、俺の分っ⁈


「それともう一人。外にいらっしゃるわよね?」


 え。ラウルのおっさんのまで?!?


(なんだ――別に嫌われてないじゃん)


 それに怖がられてもなさそうだ。居るのはしっかりバレてるけど。


「とりあえず三人分を仕上げて、それでもまだ時間があったら自分のも拵えてみようかな」


 ご自分用、じゃあなかったんだ――

お世話係(ゼフィネさん、ごめんなさい)や護衛達(しかも、ひとりはおっさんのラウルときている)に、お手ずから日用品を拵えてくれるお姫様なんているのだろうか。いない気がする。少なくとも、これまでイアルは聞いたことがない。


 ――なんて変わったお姫様だろう。


 こんな姫君は、もう現れないだろう。おそらく、これからも。


 およその疑問は解けたと思っていたのに、やっぱり姫君のことはわからない。

いったいどういう生まれで、何処から来たのか。大体の正体こそ見当が付いたけれど、姫君本人については謎が深まるばかりだ。

 実際にどんな方で、どんな風にお育ちなのか。これまでに何をされてきたのか。

 お好きだと言う読書にしろ、得意ではないと謙遜している縫い物にしろ、どうも普通の貴族のご令嬢と思ったらいけないみたいだ。イアルの固定観念は揺さぶられっぱなしである。


 ――きっと。俺は今、一生一度の幻みたいな夢を見ている……


 今まで想像だにしたことのない光景が、自分の眼の前に広がっていた。


 ようやく刺繍糸の出番が来たのだ。いよいよ針に通された赤い糸は、先行する縫い目の少し上を進んで行く。針捌きはそこそこ早かった。


 ステッチ自体は単純に見えた。同じ小さな模様を無限に繰り返す手法らしい。

 根気の要る手仕事だった。貴婦人の持ち物に施すような繊細な絵柄でも芸術的な意匠でもない。生活を彩る日用品のための、情愛溢れる家庭の労作だ。


(普通の家だったら、こんなカンジなのかな……)


 もし母や祖母がいたら、或いは姉や妹がいたら。日々使う品々を拵えて、もしかしたら家族の持ち物には刺繍でイニシャルを入れてくれたりするのだろうか。

残念ながら、イアルはそういう暮らしを知らない。

 

(え。待って。俺のも赤で? そいで、ラウルのおっさんのも?)


 それはちょっと恥ずいかもと、秘かにイアルは慌てた。




「――ひと休み致しませんか」


 自分の手許越しに姫君の作業を時々見ていたゼフィネさんが、声を掛けた。

 

「ここらでお茶にいたしましょう」


 意外に器用だった姫君が無心に根を詰めすぎないよう、ゼフィネさんはお茶を淹れに席を立った。


(……俺は、イニシャルだけとかのがいいな)


 姫君が丹念に差し重ねたステッチは、次第にその華やかな片鱗を見せ始めていた。組み合わせることで、全体としてとても目を惹く装飾になる。非常に愛らしい仕上がりになりそうである。


 色もかな。

イアルの頭は少し現実に戻れていた。赤は不動の人気色だが、イアル的にはなんか気恥ずかし過ぎる。


「こちらへどうぞ」


 台所の方に用意しましたと、ゼフィネさんが呼んでくれた。


「さあ。あなたも」


 さらりとイアルも、一緒に席に着くよう促される。


「いえ。自分は――」

「たまにはいいでしょう。一度くらいは付き合いなさいな」


 遠慮したが、ゼフィネさんには逆らえない。なのでイアルも素直に同席した。

以降、一度きりではなく三回に一回は三人で午後のお茶を飲むことになる。


 (でもハーブティーはちょっとな……)


 とか思っていたら、果実水で割って出してくれた。これならイアルにも飲みやすい。


「香ばしいですね……」


 そしてお茶受けにはひまわりの種が出た。ド庶民的鐵板のおやつで、エールの定番つまみにもなっている。姫君には珍しいらしい。


「とても美味しいわ」


 ゼフィネさんが軽く炒ってくれたようだ。じきに今年の収穫分も出回り始めるが、こうすると去年の種でも美味しく食べられる。


(ガキの時分に、よく食べたっけ)


 イアルにはお馴染みの味だった。

イアルの幼少時、辺境領の食料事情はかなり悪かった。徐々にせよ改善したのは、お館様が当主になってからである。やがて孤児院でも三食出るようになったし、次第におやつまで支給され始めた。それで頻繁に登場したのが、このひまわりの種だ。

 その頃には成長していたから、家督を継いだお館様がひまわり畑を早々に復興させたおかげで食べられるのだよという、大人達が語る背景説明もちゃんと理解できるようになっていた。


 激闘中のイヴ達に献上したおやつも、確かコレだ。


(まあ、あそこじゃ誰もこんなに手間暇かけて、炒ったり焙ったりしてくれなかったけど)


 だが特に淋しいと思ったことはない。むしろ孤児院は賑やかすぎて、うるさかったくらいだ。淋しいと思う暇も余裕もなかった。イヴの舌戦闘争の際にはほぼほぼイアルが巻き添えになったから、頼むから俺を巻き込むなよとか、しょっちゅう喚き返していた記憶がある。


(よく姉弟みたいだなとか言われたっけ)


 けど違うと、イアルは思う。イヴは自分をそんな風には思っていないはずだ。

いいトコ、舎弟。どうせ子分くらいに考えていたのだ。絶対そうだ。


(――ここだと、俺まで大事にされてる気になる)


 ここへ来てからの待遇に、イアルは一切不満がない。十二分に遇されていた。

 まず食生活が格段に良くなった。毎日ゼフィネさんの手料理が出て、朝昼晩しっかり食べられる。ここでは朝食途中で呼び出されることもなく、寸暇を惜しんで昼を掻っ込むこともなかった。要領の悪さで御用が片付かず、そのまま夕飯を食べ損ねるなんて日常茶飯事だったのに、この家ではそんな目に遭わずに済んでいる。

 おまけにゼフィネさんは、毎食後に果物まで付けてくれた。贅沢なことに、毎日必ず午後のおやつだって出る。三食昼寝……ではないけど三食おやつ付き。女性達のお茶受けが、必ずイアルにも振る舞われるからだ。もう至れり尽くせりである。


 そうして、今日はイアルまで混じってお茶の時間。

 女性二人との穏やかな時間は、今までのイアルの人生には決してなかった経験だった。

 家に女性がいれば。或いは家族がいれば、こういうのが当たり前の日常なのかもしれない。だがこんな時間はかりそめなのだと、イアルはちゃんとわかっていた。

 平和なのはあくまで期間限定。貴重で贅沢な、自分には過ぎた褒美なのだ。

何のご褒美かは知らないけど。


 ――束の間だ。嵐の前の静けさとかだ。油断するな。じきに何か来る。



 イアルの予感は当たっていた。

 程なく、イアルの心臓に悪い――またも胸を痛める大波が二つ三つは襲来することになる。

 だから、三人でお茶を飲むこんな時間は、後で思い返すと本当にうたかたなのだった。


 長かったイアルの夏が、そろそろ終わりを告げようとしていた。



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