刺繍は淑女の嗜み……でしたか?
「針と鋏をお借りしても?」
「ええ、もちろん」
眠れない程悩んだイアルとは裏腹に、この家の女性達はいたって穏やかに時間を過ごしていた。今日は二人して居間で向かい合い、仲良く午後の針仕事に取り掛かろうとしている。
「では。お言葉に甘えて」
姫君ご所望の布と刺繍糸は、いと速やかに届いた。
その他必要な道具も、ゼフィネさんが貸してくれるらしい。
(ここはゼフィネさんの家だからな)
ゼフィネさんは引き続き、姫君の衣服を絶賛お直し中だった。
当初は構いませんと言われたものの、強引に直してあげると姫君は素直に着ている。それで気を取り直し、もう好きにやることに決めたらしい。
一番気になったであろう茶色の服は、肩を内側から縫い込んで仕上げていた。
次は紺地の方、こちらは袖を根元から解いてしまうつもりのようだ。
(……張り切ってんなあ)
どうぞ、ゼフィネさんの御心のままに。もう誰もゼフィネさんのやり方には逆らわない。そういう方針で推し進めるのだと、イアルは理解した。
(何でもいい。和やかにやってくれれば)
根が賢い姫君も、あまりゼフィネさんには逆らわない。
何かによらず家主を刺激しないように振る舞っている。姫君は同じテーブルでゼフィネさんの斜向かいに座り、少し間を空けて互いにじゅうぶんな作業場所を確保してから、届いた素材を広げた。
(何をしようとされてるんだろう……?)
布は綿で、絹とかではない。
次に来たシャールに、ゼフィネさんが頼んでやったのは何の変哲もない綿布だった。交易品だから場所によっては貴重らしいが、当地では比較的容易に入手可能だ。西海を通じて、南の帝国から大量に輸入されている。
しかし注文内容はけっこう具体的だった。染めない綿、できれば長方形のものを。端切れでも構わないとか指定されていた。それと、刺繍糸は赤。
どちらも隠居宅にはなかった。だが姫君は直接シャールに申し付けるのではなく、ゼフィネさんを通して細かな希望を伝えてもらっていた。
――面倒くさいことをするなあ。
読み本の時みたいに、はきはき仰っていいのに。
イアルはそう思ったが、これで明らかにゼフィネさんの態度が柔らかくなったのだから不思議なものだ。
(そうか。いちいちだけど、ああいう手順が大事なのか)
姫君は聡明だった。年代記以降は何に付けてもゼフィネさんに相談――というか、断りを入れるようにしている。顔を立てると言うのだろうか。前の侍女頭殿だったゼフィネさんが何に拘るかを察し、家主との折り合いの付け方を学んでいるのだ。
相変わらず午前中は書物を読む。そして午後からはゼフィネさんが針仕事を始めるのに合わせて、一緒に手を動かす。しばらくはこれで行くらしい。
(なんか――台所の布巾みたいに見えてきた)
刺繍なら、絹のハンカチとかにするもんじゃないの?
姫君は慣れた手付きで綿布を加工していた。
まず初めに、長方形の布の内側を一回り小さい形でなぞるようにして、普通の糸で縫い目を入れていく。その状態で上下左右から等分に周りの糸を抜き、一定の長さで房状にした。器用なものだ。予め縫い留めてあるおかげでそのままほつれたりしない。そしてすっかり出来上がると、テーブルの上に広げて寸法を確かめた。
「……大きさはこのくらい、かしらね」
まだ刺繍糸の出番は来ない。たっぷり用意された明るい赤が、触ってくれるのを待っている。
(何を拵えるつもりなんだろ?)
「――なんですか、それ?」
気が付いたら、イアルは声に出して聞いていた。しかし聞き方が直截すぎた。
ゼフィネさんが目の端で見て来る。
(いや。今のは、何をお作りですか、だろ)
確かにゼフィネさんにも聞こえていたはずだが、幸いにして何も咎められなかった。これまでお行儀をとやかく言われたことはなかったが、内心では冷や汗ものである。
「プレイスマット、よ」
姫君は横目で微笑んだ。
「へ?」
イアルはまた間抜けた相槌を打ってしまった。う・わ。我ながら宜しくないと思ったが、もう遅い。
「一人用のテーブルクロスみたいなもの――かしらね」
姫君はさくっと教えてくれた。あまり言葉遣いは気にしない性質らしい。
「食卓で、めいめいが自分の席に置いて使うの。その上に食器を並べたり、食べ物を載せたりしてね」
聞けば姫君のいらした修道院では、食事の際には一人一人がめいめいプレイスマットとナプキンを使っていたのだそうだ。テーブルクロスは、特別な食事の時にだけ広げるものという認識だったらしい。
「へえ……」
「こちらは気候もよくて洗濯物もよく乾くし、そもそも水が豊富で大きなモノでもじゃぶじゃぶ洗えちゃうのでしょう? だから、普段からテーブルクロスを使う習慣になったのかしらね」
そうなのか?
確かに、食べる時に手指や口を拭くからテーブルクロスはよく汚れる。
館の洗濯場ではほぼ毎日、洗濯メイド達がテーブルクロスやナプキンの脂汚れと格闘している。それはあまりに当たり前過ぎる光景で、イアルは特に深く考えたことはなかった。でも、水で洗うから洗濯なのでは?
「――洗濯に、水を使わないところがあるんですか??」
イアルは素で聞いてしまった。積極的な質問なんて、普段は滅多にしない。
「あなたがそんなに驚くということ自体、この地に水が豊かな証拠ね」
姫君はにっこりした。
「いつでも洗濯できる環境って、たぶんそう普遍的でもないのよ」
「……?」
「そうね。たとえば、草原の民は炊ぎの水にさえ難儀しがちだから、どうしたって洗濯は必要最小限になるわ。砂漠の民は、水の代わりに砂に晒して汚れを落とすというし」
「へえ……」
へえ、もダメだよな。相槌としては不適切。今更だけど。
「限りある水は、まず命を繋ぐ飲み水に使う。その飲み水を確保するにも時間と労力が掛かるから、彼等はそれは大事に水を使うの。川が常に近くにあるとは限らないし、井戸を掘れば必ず水が湧き出るわけでもない」
なんで姫君は草原の暮らしなんて知ってるのだろう。それに、砂漠の民の生活習慣だってイアルは知らなかった。領都にはけっこう出稼ぎに来ているから、見慣れたお隣さんくらいの感覚はあったのに。
(――井戸がない場所なんて、あるのか?)
生粋の辺境領民であるイアルにはピンと来ない。
辺境領では、井戸掘りの外れなんて滅多になかった。専門集団がここぞと当たりを付けて掘るせいもあるが、そもそも水脈自体に恵まれているのだ。
アル湖の周縁ならば水路も引かれているし、この家のように湧き水も出る。
それに加えて領内各所、一定間隔で井戸も置かれている。およそ広い領だが、別に何処に住んでも水には不自由しなかった。
「……住む土地によってはね。毎朝遠くまで水汲みに行くのよ。それこそ時には何時間もかけて。そんな暮らしが当たり前だったりする。だから、その貴重な水がいつでも使える環境は本当に有り難いこと。水に困らないなんて、何よりの贅沢だと思うわ」
――そう言えば姫君は、この家の敷地内の湧き水を見て、ずいぶん驚かれていたっけ。
辺境領の水資源の豊かさはよく知られていた。やれ辺境だ蛮地だと、公都の上位貴族達は何かと馬鹿にしたがるが、不作の年になるとその同じ貴族共が西の辺境領の麦をあてにして、融通してくれと泣き付いてくるのだ。
他領が旱でも、アル湖の水が涸れたことはなかった。それは、アル湖に注ぐ川もほぼ同じだ。大地を潤す水は舟運も発達させたから、水上を大小の舟が行き交う様は当地ならではの風景でもある。
大陸の西の果ては、大湖アルに抱かれた祝福の地。辺境領の民は、密かにそう自負していた。
(この姫君は、よくわかってるな)
イアルは感心した。家宰殿が選んだ地誌も、きちんと読み込んでおられるようだ。
「………」
ゼフィネさんが耳だけで聞いていた。
しかし会話には加わってこない。怒られない内に無難に話を終わらせようと、イアルは思った。
「修道院でも、ナプキンを使う食事作法なのですね」
「ええ。数少ない個人の所持品のひとつなの。私のいたところでは、刺繍の稽古初めの練習に、自分用のナプキンとプレイスマットに名前やイニシャルを入れるのね。そういう習い」
ああ。それで刺繍糸? で、ここでも日用品を拵えちゃおうと。
「水源は井戸だけだから、みんなで交互に日か曜日を決めておいて、洗濯も自分でするわ。だからもし汚れたままにしたり失くしたりすると、管理がだらしないってものすごお~く怒られる」
「あはは」
イアルは思わず笑ってしまった。
姫君も一緒に笑っている。最前から素知らぬ顔を装うゼフィネさんまで、釣られて笑いかけたように見えた。




