アイシャの由来
「お聞きしてもいいでしょうか?」
姫君が冊子から目を上げて、ゼフィネさんに話し掛ける。
ゼフィネさんはなんでしょう? と目だけで応えた。
「この教本の内容だけれど――」
姫君は、ほぼ向かい合う形のゼフィネさんの方へ冊子を押し出す。
「幾つか疑問点があって」
もう全部読んじゃった? 栞代わりなのか、何箇所かに指を挟んでいる。
「……さようでございますか」
ゼフィネさんは気のない返事。どうとでも感情を隠せる人だから、このわかりやすい素っ気なさはたぶん故意だ。
「西の辺境伯家は千年も続く名家なのだとか。けれど千年の内には断絶した時期もあったのですね」
姫君は挫けない。果敢にゼフィネさんに話を振り続ける。
「――さあ。わたくしでは何とも」
ゼフィネさんは姫君が使用人向けの教本を読むこと自体が、お気に召さないのだ。姫君が期待する解説なんてしてくれるわけがなかった。
「これは初学者用の教材なのですよね?」
「さようでございますね」
うん。慇懃無礼。こういうのを塩対応っていうのか? 気の弱い新入りメイドなら、これだけでビビりそうな気がする。
「なら、比較的最近習った人に聞くのが適当かしら」
ん? なんか変な流れに――
「ねえ、あなた」
来たっ。姫君に振り返られて、背後に立つイアルは咄嗟に目を逸らした。
「イアル。教えてくれる?」
初めて名前を呼ばれた気がして、イアルは見当違いにドギマギしてしまう。
目線の隅で確かめると、姫君はじいっとイアルを見ていた。
「………何でしょうか」
「あなたは、先生に習ったのよね?」
何も聞かないで。俺に聞かないで。
(ああ。言うんじゃなかった……)
『ええ。それ、俺等もみんな講義で読まされたヤツですよ』
なんて、昨夜うっかり口を滑らせてしまったのはイアル自身である。
教本を受け取ってパラパラ見ている姫君に、あなたも読んだのと聞かれてついペラペラと答えてしまった。ええ、で止めとけばよかったのに。
ゼフィネさんの不機嫌は察していたが、シャールを帰した後の沈黙にいたたまれず調子をこいて言葉を重ねてしまったのだ。軟弱な己を悔やむしかない。
それにしても。
(……そんなこと、書いてあったっけ?)
イアルは教本の冒頭部を必死で思い出す。
座学はほぼ爆睡していたが、最初のページくらいは起きていたはずだ。
ええ、と。教本は確か辺境伯家の起源から始まっていた――ような。
もっとも、習わなくとも西の辺境領民なら誰でも知っている。
他所にもよくあるらしい異類婚姻譚は、今やほとんどお伽話の域だ。領内では一番有名な、たぶん子供でも諳んじる逸話だった。
遠祖がアル湖の乙女と婚を結び、迎えた花嫁は夫と一族に富と永遠の繁栄を約束した。以来、辺境領は豊穣の地たり得ている――大体、そんなカンジ。
けど領主家の断絶なんて、読んだ覚えも教わった記憶もない。
そもそも千年も歴史があるお家だったのか?
「ほら。ここと、ここよ」
「はい?」
姫君に指差されたのはただの年表箇所で、特段の記載はなかった。
それも辺境領と関連する近郷の主な出来事を、ざっくり羅列してあるだけだ。
「この間が、三百年程空いているでしょう?」
え。どこですか? 知らないけど。
「このあたり、おそらく伝説の大洪水があったと思われる時期なのね」
大洪水? そんな昔ばなし、あったっけか?
「北の王国や公国の伝承にも大きな湖が溢れた話があるのだけれど。どうせ王国が大塩湖の領有権を主張するために後出しで作りあげた箔付け話の類――とばかり、思っていたわ」
うん? なんかけっこう不穏なこと言ってっぞ。
「違和感があったのよ。たかだか建国三百年そこらの王国が千年から前の起源譚を持つなんて、何かおかしい」
ちょ。ちょっと。不敬、では?
「上代――古いとされている神話程、後々で付け足してるから眉唾で信憑性が乏しいっていう説。まさにああいうのかなと思っていたけれど」
――言うなあ。
イヴみたいだ。イアルはふと言いたいこと言いのイヴを想起してしまった。
いや。比べるな。メチャ失礼だから。
「あの洪水は単なる伝説や作り話ではなく、本当にあったことなのかもね」
姫君の高説は続く。
「もし氾濫したのが大塩湖ではなく、アル湖だったら。そして、これがその大洪水の結果生じた空白の数百年なのだとしたら。大陸正史が加筆修正される可能性が出てくるかも」
何か――突如、壮大な話に広げてませんか?
「辺境伯家の記録―年代記なら、何か裏付けになる具体的な事柄が書かれているかも知れないわね」
へ?
「あと。ほら、ここが百年くらい飛んでいる。年代からして、北の王国が興隆する直前ね。旧王朝の末期くらいだと思うの。特に公式記録が少なくて、俗に『沈黙の百年』と言われている時代なのよ」
そうなんですか? そうなんですね。
「このどちらも、たいそう雄弁な空白期間だわ。すごく興味深い。そう思わない?」
思いません。ごめんなさい、一回も考えたことないです。
(てか。この姫君。大陸の全史が頭に入ってるのか?)
マジかよ。そんなの、歴史や年代を暗記してすらすら出てくる人間なんて、ダミアン以外に見たことないぞ。
イアルは内心で舌を巻いた。
ダミアンはイアルが知る中で、一番頭のいい人間である。
騎士団以上に熾烈な倍率だという西の辺境領文官登用試験を首席で突破し、合格後には並みいる秀才達を押しのけて、館の書架棟勤務になった。さらには若輩ながら当家の年代記担当に指名された逸材だ。
ちなみに騎士団は毎年採用の試しを実施しているが、文官には基本的に補充採用しかない。ために数年に一度程度しか募集がなく、おまけに領外からの転職組まで受けに来る。それで自然と競争率が高くなるのだ。
イヴいわく、『アンタ等騎士団とかの武官は消耗品だけど、文官は耐久消費財』なのだそうだ。いささか過激な個人的見解につき、他では言わないように釘を刺しておいたが。
(姫君は賢いんだな……)
短時間でさっと目を通した程度だろうに、ほぼ教本の内容を把握している。
でないとこんな疑問も指摘も出て来ないだろう。
王領には、俊英達を聚める修道院があると聞いたことがある。地頭のいい少年達が集合して学び、切磋琢磨し合うそうだ。何人も枢機卿を輩出しているとか。
男子禁制の聖母教会の系列にも、似たような組織があるのだろうか?
そいで英才教育を施したら、こんな歳でこんな賢く育つのか?
お館様付侍女。側女、愛妾。とかではなくて。
優秀だから、お館様は文官にでもしたくて姫君をお連れになったんだろうか?
でも。にしちゃあ、どうしてこの家に――?
(あの教本、アイシャの名前の由来については書いてなかったんだ)
エルンストの祖先が娶ったアル湖の乙女。彼女こそが『アイシャ』だ。
そして彼女は原初の『アイシャ』と呼ばれている。
でもどこにも名前までは載せていなかった気もする。領主家では古い旧い時代、歴代の正夫人に幾人もアイシャという名の女性達がいたそうだ。一族に生まれた黒髪の少女には特に、アイシャと名付けた時期もあったと云う。まだ女児が誕生していた頃の慣習だろうか。
だから、エルンストには「アイシャ」は特別な名前だ。いずれ戯れの相手を呼ぶ愛称などではなかった。




