追憶のマリカ(2)
「イアル。もういいわ。そろそろ休憩終わっちゃう」
いつからか、自然とイアルはマリカの洗濯物干しを手伝うようになっていた。
今だって姫君の手伝いをしているわけなのだが、初めの内は少々複雑な心境だった。要領を覚えていて手がスイスイ動くのを、微かに悲しく思ったりもしたのだ。
「うん。これだけ、な」
籠を持つ他に、高いところへは洗濯物だって掛けてやっていた。あくまでイアルの自発的な補助だ。だが考えてみたら、この家の姫様にはさも当然のごとくに使われたことはない。
もっともマリカはいつも大きいもの、シーツや毛布やらを洗わされていた。
濡れた状態ではものすごく重くなる物ばかり。後は油汚れのしつこそうなテーブルクロスとかナプキン。あまり高価なものは渡されていなかったようだ。
イアルでも、不思議と衣類や肌着類はないんだなとは思っていた。
まあ、それで手伝いやすかったというのはある。
「いつも手伝ってくれて、ありがとう」
マリカは何も拒絶しなかった。いつもイアルの差し出す不器用な親切を素直に受け取り、いつだって無邪気に笑ってくれた。
この顔が見たくて。こんな風に言われたくて。イアルは昼休憩終り寸前までマリカを手伝い、毎度遅刻ギリギリになって大急ぎで駆け戻る。
暑い夏の間、マリカはイアルが案じた程には日焼けをしなかった。
盛夏を前に、日除けの帽子を被って登場するようになったからだ。
つばが広い、首許を大きなリボンで留めるしゃれた麦わら帽子だった。
「ふふ、これ? いいでしょ? 親切な先輩に貰ったの」
マリカはそう説明した。マリカのはよくあるような農作業用の野暮ったい帽子なんかとはまるで違う。平民街ではまず見ない品だ。
「よく似合うよ」
イアルのありきたりな賛辞は、むしろ素っ気なく聞こえたかもしれない。
(ふうん。やっと友達ができたのかな)
こんな帽子を譲ってくれる程、マリカは先輩達に可愛がられるようになったのか?
時々聞いてやる打ち明け話から、館にあがって半年近く経ってもマリカにはまだ仲の良い朋輩がいなさそうだと気にはなっていた。まったく。イアルときたら。
どこまでもおめでたくできていたのだ。
「ありがとう」
マリカは手伝いも断らなければ、誉め言葉に否定も謙遜もしない。
あるのは全受容で、全肯定だった。洗濯メイドにはおよそ不似合いな、こじゃれた麦わら帽子についての会話は、それきりお終いになった。
(え……?)
夏も終わろうとする頃になって、やっとイアルにもマリカの麦わら帽子の出許が知れた。例の麦わら帽子は、同じ騎士見習いの「気前のいい」ゼノから贈られた品だった。俸禄は低いのに実家が金持ちで小遣いには困らないボンボンのゼノが、親の金にあかせて買い求めたものらしい。なんでも館に来ている行儀見習いのお嬢様方が、外出時に被るような高級品だったそうだ。
同期でもゼノは、騎士団では珍しいコネ入団だった。故に仲間内からはたいそう見くびられていたが、一方で実家の商家の財力を気前よく同僚への奢りに注ぎ込むので、何かと便利にたかられてもいた。
ゼノ、が。
贈り物を貰うほど仲良くなった「親切な」先輩。
――いや、嘘を吐かれたわけじゃない。
嘘ではない。マリカは別に嘘は言わなかった。男からの贈り物だと、詳細全部を説明しなかっただけだ。イアルも根掘り葉掘り訊かなかっただけだ。
それに、ゼノなら誰彼見境なく金を使っている。
アイツにすればいつものことなのだ。さして特別なことではない。あのゼノなら気にすることはない。
イアルはかなり無理矢理に自分を納得させた。
だが、ゼノだけではなかった。
騎士見習い連中の大半、若い正騎士の一部、果ては館の下働きの若者連中が、競い合うようにマリカに小さな贈り物をしていることを、やがて世事に疎いイアルも知ることになった。
「洗濯仕事にはだいぶ慣れたんだけど、手が荒れちゃって……」
またひとつ季節が変わる頃。マリカは干し場でかじかむ手を広げて見せた。
アル湖からの風が冷たくなってくる時候だったと思う。マリカの白い、小さな手。それが、ところどころ切れて赤くなっている。華奢な指先が、いっそう痛々しい。
(マリカ、可哀想にな……)
容姿は申し分なく愛らしい上に読み書きまで達者らしいのに、マリカは未だ洗濯メイドのまま据え置かれ、日々こき使われていた。館勤めはそろそろ半年だ。
当時のイアルには、合点がいかない状況だった。
エルンスト辺境伯家では、使用人の働きぶりを見て順当に昇進させる。
これは男女問わない。元より独特の家風で、使用人の地位をあまり厳しく固定せず、才覚次第ではいかようにも引き上げてくれるのだ。
家宰殿がその最たる例だ。デルソト殿は元を辿れば一介の平騎士に過ぎない。
女性の場合、平民のメイドからでも侍女になる道が開かれていた。
まずは上役の推薦を受けて侍女見習いとなり、この見習い期間中に一通りの行儀作法と一定の素養が身に付けば、晴れて侍女に昇格する。他家のように最下層でも貴族の身分だとか、富裕層が家庭教師を雇って習うような教養の有り無しは前提条件にされない。
「やる気がある者には機会を与える」
万事、この方針である。見込みがあれば教える。付いて来られるなら仕込む。
反面「意欲がなければ速やかに去れ」だ。いずれ怠けたい人間が、長居できる場所ではなかった。
小間使いや下働きで入る年端のいかない者には、まず一から字を教える奇特な家だ。ここで脱落する者もある程度いるわけだが、読み書きが出来ればその後の待遇は劇的に変わる。だから平民でも基本的な読み書きに困らない娘なら、半年しなくとも自ずと侍女見習いの声が掛かるはずなのだ。普通なら。
この時期、人気者の可愛いマリカが先輩侍女メイド達から故なく妬まれて、心無い嫌がらせを受けて虐げられているそうだと、あちこちで噂になっていた。
不当な冷遇は侍女頭の指示らしいという囁きが次第に大きくなっていて、謎にサルダーニャへの逆風が吹き始めてもいた。
おそらく偶然ではなかったのだ。何もかもが。
(確か、街の店なら軟膏とか売ってたような……)
その次の非番の日、イアルは生まれて初めて女性への贈り物を買った。
花でも菓子でも装飾品でもなかった。手荒れに効く軟膏。地味で実用的な心尽くし。まさかマリカの許で同じ軟膏がダブついて、困った末に破格の安値で売り飛ばされるだなんて、思いもしなかったから。
しゃれた麦わら帽子を贈る発想は、イアルからは出てこなかった。たぶん、それは今でも変わらないだろう。
玄関の扉を開け閉めする音がして、ㇵッとイアルは我に返った。
イーサンが館へ帰るらしい。ゼフィネさんは真っ先に姫君に遅い昼食を運んだ。
階段を昇るゼフィネさんの後ろ姿を、マリカが別人みたいにキツイ目で見ていた。
もうずいぶん前から、この家の女性達は二人で食事を摂る習慣になっている。
いつぐらいからだったろうか。パッとは思い出せないくらいに、すっかり馴染んだ日常になっていたのだ。
だがゼフィネさんはすぐに戻ってきた。そして今日は先にお食べなさいとイアルに指示した。イーサンが急がせる馬の蹄の音はもう遠くなっていた。
イアルはラウルと入れ違いで台所に入った。ラウルだってロクに飯も食わずに、ここに疾く馳せ参じていたのだ。
「……おっと、忘れるとこだった」
ラウルがテーブルの上の包みを顎で示す。
「お前も――後で食うといい」
チューロだった。ラウルが買って来たらしい。普通の大きさのだが、蜂蜜がたっぷりかかった贅沢仕様だ。
(なんだ。おっさんも同じことを考えてたのかよ)
こんな時なのに、苦笑いでも笑えてくる。
イアルと同じく、ラウルも姫君にこれを食べさせたいと考えていたのだろう。
ゼフィネさんは、さっきこの蜂蜜チューロもお持ちしたろうか。
――俺が持って行ってあげたかったな。
イアルは思う。俺が買って来て差し上げたかった。そして姫様が召し上がるところを見たかった。
きっと喜んでくれたはずなのだ。
今日あんなのが、あんな変なのさえ来なかったら。姫様はこれを召し上がって、やっぱり目をまん丸くして、また言ってくれたはずなのに。
「幸せの味がします」――って。
この日々が終わる。間違いなく終わってしまう。
哀しい予感が、イアルにそう告げていた。




