追憶のマリカ(1)
「イアル……」
マリカの呼び掛けに、イアルは何度も聞こえない振りをする。
「ねえ? イアル――」
さらに半刻して、今度はイーサンが来た。
マリカを客間に押し込めたまま、ラウルとゼフィネさんとの三人で今、台所で短い話をしているところだ。
乗って来た馬は敷地入口の林檎の木に繋ぎっぱだから、イーサンはまた直ちに館へ駆け戻るつもりのようである。馬もろくろく休憩なしかと、イアルは少し可哀想になった。
イーサンの馬はいつも疲れて見えた。それは常からイーサンがあちこち駆けずり回っているからで、言い換えればそれだけお館様に使われている証左でもある。
前は羨ましく思ったものだが、今はちょっと気の毒に感じられる。
(俺も、少しは人間に余裕が出てきたってことなんだろうか……?)
それでとりあえず、イーサン達の談合の間はイアルがマリカを監視していた。
「イアル? もうっ! イアルったら」
――うっせえよ。
本当は、イアルとしてはこんなのは打っちゃっといて二階の姫君の様子を見に行きたい。どんなに不安な気持ちでお過ごしだろうか。イアルはこの家の姫様の方が心配でたまらないのだ。階段上の気配を窺いつつ、うっかりマリカに返事をしないようにするのは、しかし存外に骨が折れた。
「イアルってば。……なんだかイアル。あなた、冷たくなったみたい」
図太いマリカはゼフィネさんが席を外すや否や、露骨に態度が変わっていた。
いつになく神経質に身を捩りはするが、明らかに緊張が緩んでいる。
――俺なら与しやすしと踏んでるんだよな。
どいつもこいつも、どこまで舐めてかかってくれるのか。
マリカは意地でもイアルの注意を引こうとわざとらしく何度も座り直して、その都度イアルからコワい眼で睨まれていた。マリカでも何気に居心地の悪さだけは感じるようだ。時々、思い出したようにイアルににっこり笑いかけてくる。イアルはそれには鮮やかに無視を決め込めていた。
(まだ自分が笑って見せれば、ホイホイ言うこと聞くとか思ってんのかよ)
こんな半野良、チャッチャっと放り出したい。でもまだできない。
イアルは実務的な憂慮をしていた。
マリカは、イアル以外にはエヴァンともイーサンとも顔を合わせていないようだ。ラウルのことは見掛けたかもしれないが、ラウルならばどうということはない。ゼフィネさんを訪ねて来たのだから、ゼフィネさんと会うのも問題ない。
しかし、マリカは確と姫君を見ている。それが問題だった。
「………ひどい人」
遂にマリカは、とっておきの猫なで声を出してきた。
「イアルったら、……もう私のことを忘れちゃったの?」
『――イアル? あなたはイアルというのね』
咄嗟に怖気が走ったのは、きっと旧い記憶が疼いた所為だ。出逢いの時のマリカを、未だにイアルは覚えていた。忌々しくて仕方ないが、まだ忘れてはいない。
あの日、高く明るい朗らかな声で何度も自分の名を呼ばれたこと。
たとえ頭や足腰が衰えて、この体が想いや剣を忘れても、耳朶だけはあの声をしつこくしつこく再生できそうな気がする。
「ありがとう。どうも御親切に」
初対面のマリカも笑っていた。花の蕾が綻ぶように、マリカは笑った。
赤っぽい――というか、ピンク味を帯びた明るい色のブロンド。
やはり明るい水色の瞳は、その午後の晴れた五月の空のようだった。
十五歳のマリカはさながらふわふわの子猫みたいで、なんて可愛らしいんだろうとイアルは感動すら覚えたものだ。
もう三年以上も前になる。その頃はイアルもまだ十代。騎士見習いだった。
マリカは館に上がったばかり。新米の習い通りに洗濯メイドから始めていた。
毎日毎朝、籠に山盛りの洗濯物を抱えて、前もよく見えない状態で洗い場から干し場まで往復する。
その日はたまたま通りかかったイアルが、マリカがよろけたところをサッと支えてやったのだ。それが出会いだ。ごくありふれた出会いだった。
イアルはそのまま、重たげな籠を引き受けて運んでやった。実際、よく鍛えているイアルでもけっこう重かった。こんな華奢な子が、こんなの抱えて。健気だなと感心したのを思い出す。
「優しい騎士様。どうかお名前を教えてくださいな」
平民の娘で駆け出しメイドのマリカは、いっちょ前に膝を屈めてお辞儀をして見せた。まるで良家のお嬢様みたいに。
「いや、俺はまだ見習いで……」
「私はマリカよ!」
しどろもどろなイアルに、快活なマリカ。
「初めまして、騎士の卵さん! それで、あなたはなんてお名前?」
騎士の卵さん。くすぐったい、柔らかい響きだった。それに卵! だって⁈
騎士見習い、より余程いい。なんか断然いい。
「イアル? あなたはイアルというのね」
マリカは人懐っこかった。それに水色の目がすごく大きくて、表情がくるくる変わって、とても目を離せない。
「じゃあ、イアルって呼んでいい? 私もマリカって呼んでね?」
よくある出会いだったのだ。ほんの偶然、通りすがりの。
その後しばらく、いつも自分の昼休憩が終わる時分に洗濯物を籠に満載したマリカと行き合うのも、イアルは偶然なのだと思っていた。
毎日のようにマリカに出くわして、イアルが籠を持つ。そして干し場まで並んで歩く。その短い時間がまるで束の間の逢瀬みたいに感じられて、心が浮立ったのを覚えている。くだらない、他愛ない話しかしなかったのに。
「……館には、慣れたか?」
「うん。ちょっとずつだけど」
マリカはよく笑った。
あれはもう初夏だったろうか。急にイアルは気になったのだ。毎日毎日あんなに洗濯物を干していたら、色白のマリカは日焼けしてしまうよな。
「――イアルのおかげよ」
え。ドキリとした。俺のおかげ? 何が? なんで?
「時々、こんな風にイアルと話せるから」
マリカは恥ずかしそうに微笑んだ。
「お館には家柄のよい人とか、家がお金持ちの人とかはたくさんいるでしょう? でも、そういう人達は要領がよくて口もウマい分、なんだか気を許せなくて」
イアルは胸がドギマギしていた。
「その点、イアルはホッとするの。あんまりお喋りじゃないし、言葉も上手じゃないけど。そういうところが、そういうイアルが、私には安心できるの」
あの時、イアルはどんな顔をしていたのだろう。舞い上がっていたのは間違いない。口下手で、要領もよくないイアル。損ばかりしているイアル。
だけど、そこがいいと言われた。
あんまりお喋りじゃないし、言葉も上手じゃないけど――なんて気の利いた、優しい言い回しだろうか。
マリカはイアルが望むような言葉をくれた。マリカの言い方ならば、それが結局は馬鹿にされる時と同じ意味なのだとしても、イアルは傷付かない。
別に好きだと言われたわけではなかった。何か約束を交わしたのでもない。
冷静に振り返れば、何もイアルが特段に好意を持たれたということもなかった。
他に褒められるところがなかったから、日頃は貶されている点について、少しだけ柔らかい表現で言い換えただけなのだ。
それをまるで自分の存在を丸ごと肯定されたみたいに感じて、身勝手に前向きな解釈にこじつけたのはイアル自身だ。しかしそれだけでじゅうぶんだった。
俺はこれで満足だ。そう思えていた。あの頃は。




