息の届かない場所
正体のわからない何かは、私の左腕を乱暴に掴んだまま、振り回すようにして奥へと引きずり込んだ。
抵抗しようと力を込めた瞬間、骨ごと握り潰されるような圧迫が走る。
――まずい。
直感的に理解して、力を抜く。
だがそれでも、掴まれているだけで腕が軋む。引き千切られそうな痛みに、声が喉で潰れた。
「……っ、ぅぐ……」
まともに声にもならない。
次の瞬間、顔に冷たい感触が触れる。
水。
理解するよりも早く、顔がその中へ沈んだ。
息を溜める暇もない。
反射的に目を閉じる。水が入り込むのを防ごうとするが、そんな余裕はない。腕の痛みが神経を焼くように強くなり、身体は落ち着くどころか、勝手に呼吸を求めて動こうとする。
息が、持たない。
吐き続けていた空気が尽きていく。
――浅瀬。
そうだ、ここは浅いはずだ。
立てばいい。体勢を戻せば、すぐに息ができる。
そう思って、膝を水底へ引っかけるように動かす。
だが、踏めない。
底は柔らかく、泥と沈殿物が足を飲み込む。力を入れるほどに、滑って沈み、引きずられる。
右手で何かを掴もうとする。
しかし、何もない。
支えがない。
引き止めるものがない。
ただ、引かれていく。
息が、もう。
思わず顔を上げた。
水面に触れる。
空気に触れた感覚。
反射的に息を吸う。
吸って、吐く。
――なのに。
おかしい。
息をしているのに、息をしている感覚がない。
胸が満たされない。
呼吸が浅い。
小刻みにしか動かない。
空気が、足りない。
声を出す余裕もなかった。
視線を、左腕へ。
そこに――黒い影があった。
二の腕から前腕にかけて、黒いものに呑み込まれている。
目を凝らす。
大きく裂けた口。
ぬめりを帯びた黒い体表。
まだらな模様。
離れた位置にある、小さな目。
……見覚えがある。
ついさっき、見た。
洞窟の中で。
――トカゲ。
その魔物が、もう一度、私の腕に噛みついたまま大きく揺さぶる。
引きずられ、体勢が崩れる。
再び、顔が水の中へ落ちた。
視界が暗くなる。
右手で引き剥がそうとする。
押す。
叩く。
だが、体表はぬかるみのように滑り、力が逃げる。
一度。
二度。
何度やっても、同じ。
無駄だと分かっても、やめられない。
痛い。
苦しい。
息ができない。
溺れる。
思考が崩れる。
――姉さま。
ふと、浮かぶ。
揺さぶられる勢いの中で、必死に顔を上げる。
水面に出る。
……はずだった。
だが。
空気に触れている感覚が、ない。
その瞬間。
水を、飲み込んだ。
喉に流れ込む。
焼けるような異物感。
むせ返る。
咳が出る。
だが、息がない。
咳も、呼吸も、どちらもできない。
苦しさだけが増えていく。
そのとき。
右手が強く引かれた。
引き上げられ、身体が持ち上がる。
その反動で、左肩に激痛が走る。
千切れる。
そう錯覚するほどの痛み。
声も出ない。
息もできない。
ただ、苦しい。
引かれてもまだ水に沈む感覚。
「――ッ、ゲホッ……ゲホ、ゲェ……!」
水を吐く。
咳が止まらない。
肺が空気を求めて痙攣する。
無理やり息を吸う。
喉が焼ける。
「リュシア先輩!大丈夫ですか!?今、助けますから……!」
エルネの声。
右手を強く握られている。
そのまま、さらに引かれる。
同時に、別の音。
バシャンッ――!
水を叩きつける音。
もう一度。
さらに一度。
何度か繰り返される。
やがて、左腕の拘束が、ふっと消えた。
引かれる力がなくなる。
エルネに引き上げられるまま、水から引き離される。
泥の上を引きずられ、岸へ。
ようやく、完全に水から離れた。
そこで、やっと、呼吸が戻る。
咳き込みながら、何度も空気を吸い込む。
胸が痛い。
喉が痛い。
腕が、痛い。
……生きている。
その実感が、遅れてやってくる。
荒い呼吸のまま、ぼやけた視線を動かす。
「エルネ、さん……私を襲ったのって……何か分かりますか……?」
途切れる息の合間に、問いかける。
エルネは一瞬言葉に詰まり、けれどすぐに掠れた声で答えた。
「あ、あの……先輩。さっきの洞窟で見かけたトカゲと同じ見た目を、その、してたと思う」
……やっぱり。
思った通りだった。
洞窟の中で見た、あの魔物。
近づいても、こちらに興味を示さなかった存在。
無害だと。関心がないのだと。
そう、思っていた。
――違った。
なぜ襲われたのか。
どうしてここで。
水に入ったから?
スライムの体液に触れたから?
餌だと思われた?
答えはまだ分からない。
ゆっくりと、左手を開く。
震える指の中に。
五つの、小さな魔石。
それは確かに、そこにあった。




