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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
19話
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息の届かない場所



 正体のわからない何かは、私の左腕を乱暴に掴んだまま、振り回すようにして奥へと引きずり込んだ。


 抵抗しようと力を込めた瞬間、骨ごと握り潰されるような圧迫が走る。


 ――まずい。


 直感的に理解して、力を抜く。


 だがそれでも、掴まれているだけで腕が軋む。引き千切られそうな痛みに、声が喉で潰れた。


「……っ、ぅぐ……」


 まともに声にもならない。


 次の瞬間、顔に冷たい感触が触れる。


 水。


 理解するよりも早く、顔がその中へ沈んだ。


 息を溜める暇もない。


 反射的に目を閉じる。水が入り込むのを防ごうとするが、そんな余裕はない。腕の痛みが神経を焼くように強くなり、身体は落ち着くどころか、勝手に呼吸を求めて動こうとする。


 息が、持たない。

 吐き続けていた空気が尽きていく。



 ――浅瀬。


 そうだ、ここは浅いはずだ。


 立てばいい。体勢を戻せば、すぐに息ができる。

 そう思って、膝を水底へ引っかけるように動かす。


 だが、踏めない。


 底は柔らかく、泥と沈殿物が足を飲み込む。力を入れるほどに、滑って沈み、引きずられる。


 右手で何かを掴もうとする。


 しかし、何もない。


 支えがない。


 引き止めるものがない。


 ただ、引かれていく。


 息が、もう。


 思わず顔を上げた。

 水面に触れる。


 空気に触れた感覚。


 反射的に息を吸う。


 吸って、吐く。

 ――なのに。

 おかしい。


 息をしているのに、息をしている感覚がない。

 胸が満たされない。


 呼吸が浅い。


 小刻みにしか動かない。


 空気が、足りない。

 声を出す余裕もなかった。


 視線を、左腕へ。

 そこに――黒い影があった。


 二の腕から前腕にかけて、黒いものに呑み込まれている。


 目を凝らす。


 大きく裂けた口。

 ぬめりを帯びた黒い体表。

 まだらな模様。

 離れた位置にある、小さな目。


 ……見覚えがある。


 ついさっき、見た。


 洞窟の中で。


 ――トカゲ。


 その魔物が、もう一度、私の腕に噛みついたまま大きく揺さぶる。


 引きずられ、体勢が崩れる。



 再び、顔が水の中へ落ちた。

 視界が暗くなる。


 右手で引き剥がそうとする。


 押す。


 叩く。


 だが、体表はぬかるみのように滑り、力が逃げる。


 一度。

 二度。

 何度やっても、同じ。

 無駄だと分かっても、やめられない。



 痛い。


 苦しい。


 息ができない。


 溺れる。


 思考が崩れる。




 ――姉さま。


 ふと、浮かぶ。



 揺さぶられる勢いの中で、必死に顔を上げる。


 水面に出る。


 ……はずだった。



 だが。

 空気に触れている感覚が、ない。



 その瞬間。


 水を、飲み込んだ。



 喉に流れ込む。



 焼けるような異物感。


 むせ返る。


 咳が出る。


 だが、息がない。


 咳も、呼吸も、どちらもできない。


 苦しさだけが増えていく。


 そのとき。

 右手が強く引かれた。


 引き上げられ、身体が持ち上がる。

 その反動で、左肩に激痛が走る。



 千切れる。



 そう錯覚するほどの痛み。


 声も出ない。

 息もできない。


 ただ、苦しい。


 引かれてもまだ水に沈む感覚。


「――ッ、ゲホッ……ゲホ、ゲェ……!」


 水を吐く。

 咳が止まらない。


 肺が空気を求めて痙攣する。


 無理やり息を吸う。


 喉が焼ける。


「リュシア先輩!大丈夫ですか!?今、助けますから……!」


 エルネの声。


 右手を強く握られている。

 そのまま、さらに引かれる。


 同時に、別の音。


 バシャンッ――!


 水を叩きつける音。


 もう一度。


 さらに一度。


 何度か繰り返される。

 やがて、左腕の拘束が、ふっと消えた。


 引かれる力がなくなる。


 エルネに引き上げられるまま、水から引き離される。


 泥の上を引きずられ、岸へ。


 ようやく、完全に水から離れた。


 そこで、やっと、呼吸が戻る。

 咳き込みながら、何度も空気を吸い込む。


 胸が痛い。


 喉が痛い。


 腕が、痛い。


 ……生きている。


 その実感が、遅れてやってくる。


 荒い呼吸のまま、ぼやけた視線を動かす。


「エルネ、さん……私を襲ったのって……何か分かりますか……?」


 途切れる息の合間に、問いかける。


 エルネは一瞬言葉に詰まり、けれどすぐに掠れた声で答えた。


「あ、あの……先輩。さっきの洞窟で見かけたトカゲと同じ見た目を、その、してたと思う」


 ……やっぱり。

 思った通りだった。


 洞窟の中で見た、あの魔物。

 近づいても、こちらに興味を示さなかった存在。

 無害だと。関心がないのだと。


 そう、思っていた。

 ――違った。


 なぜ襲われたのか。


 どうしてここで。

 

 水に入ったから? 

 スライムの体液に触れたから?

 餌だと思われた?


 答えはまだ分からない。



 ゆっくりと、左手を開く。

 震える指の中に。

 五つの、小さな魔石。


 それは確かに、そこにあった。

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