水面下で掴むもの
足を踏み入れる。
境界のようなものがあるかと思っていたが、空気が変わることもなく、ただ草の感触が足裏に伝わるだけだった。拍子抜けするほどに、何も起こらない。
そのまま水辺の近くまで歩み寄る。
屈み込み、水面を覗き込んだ。
……綺麗だ。
濁りはほとんどなく、底まで見える。光が揺れ、水の中で反射しながらゆらゆらと歪んでいる。浅い。泥の沈殿がうっすらと積もり、その上に透明な水が重なっているだけだ。
水の中に魚や虫がいない。
危険な気配は、感じない。
「わっ!」
背後からの声に、身体が跳ねた。
反射的に肩が上がり、息が詰まる。
「もぅ!」
振り返ると、エルネが笑いながら手を引っ込めていた。
「えへへ、ごめんなさい。先輩、ずっと水面見てると落ちちゃいますよ」
……確かに。
もう少しでバランスを崩していたかもしれない。
小さく息を吐き、慎重に一歩だけ後ろへ下がる。
改めて周囲を見るが、魔物の気配はない。水辺特有の湿気はあるが、それ以上の違和感は感じられなかった。
エルネの方へ視線を向けると、彼女は上を見上げている。木の幹や枝の隙間を探るように、スライムの姿を念入りに探している。
私は軽くため息をついた。
水辺をなぞるように歩く。
そのとき、視界の端で何かが光った。
キラリ、と反射した。
足を止め、もう一度同じ場所を見る。
水の中。
底の泥の上に、何かが沈んでいる。
光を拾う、硬質なもの。
……魔石だ。
スライムの核。
しかも一つではない。まとまって、いくつか沈んでいる。
五つほど。
胸の内で計算が弾ける。
これを取れば、納品数は揃う。それどころか、余分が出る。
余分はそのまま報酬になる。
……取りに行くべきだ。
だが、水の中。
「エルネさん、水の中に魔石が落ちてます!」
「ホント〜!?」
声を弾ませて駆け寄ってくる。
水魔法があれば、水流で引き寄せられるだろうか。土魔法なら底を持ち上げて道を作れるかもしれない。
風では、届かない。
できることの差が、妙に現実として胸に残る。
「先輩どこどこ。どこですか?」
指を差す。
「あそこ、水の中に落ちてる」
「わ、ほんと、五個くらい落ちてる」
無防備に身を乗り出すエルネを横目で見る。
その姿に、さっきの仕返しを思いついた。
ほんの、軽い悪戯。
手が、動く。
「わっ!」
両手で肩を掴み、引く。
「ヒィャアッッ!!」
大きな悲鳴とともに体が跳ねる。
そのまま後ろへ引き、二人して地面に転がった。
「ちょっとぉ、もぉお、びっくりしたぁーー!」
エルネが文句を言う。
その顔が、あまりにも大げさで。
思わず、笑いが漏れた。
エルネもつられて笑う。
何が面白いのか分からないまま、二人でしばらく笑い続けた。
仰向けのまま、木陰越しの空を見る。
葉の隙間からこぼれる光が、ゆらゆらと揺れていた。
……こんなことをしていて、いいのだろうか。
そんな疑問が浮かぶ。
けれど、それを咎める者はいない。
誰もいない。
だから――許されているような気がした。
体を起こす。
靴を脱ぎ、ズボンの裾を引き上げる。杖と手袋、ポーチを横に置く。
やることは単純だ。
入って、取って、戻る。それだけ。
それで終わる。
エルネの視線を感じる。
「先輩の足って綺麗」
「?」
意味が分からず、首を傾げる。
「ありがとう?」と、とりあえず返す。
エルネは満足そうに頷いた。
「私が取りに行ってきますね」
「あ、はい。お願いします」
水辺へ足を向ける。
家にいた頃、水浴びで足を浸けた感触を思い出す。
つま先が水に触れると、ひやりと冷たい。
足首まで沈むと、一気に熱が奪われる感覚が広がった。
そのまま、ゆっくりと足を進める。
水底は柔らかく、沈殿物が足を包み込む。膝まで沈み込むような感触。
もう片方の足も入れる。
一歩。
また一歩。
進むたびに泥が舞い、水が濁る。
だが気にしない。
魔石の位置は、もう分かっている。
やがて、すぐ目の前。
「やりましたね!先輩!」
岸からエルネの声が飛ぶ。
振り返ると、笑顔で手を振っていた。
その姿に、ほんの少しだけ安心する。
視線を戻す。
腰を曲げ、左腕の袖を捲る。
腕を伸ばす。
指先が水に触れる。
冷たい。
そのまま、手を沈める。
水が腕を包み込み、感覚が鈍る。
底へ。
泥の中へ。
指が何かに触れる。
硬い。
それを掴み、握りしめる。
――その瞬間だった。
左脇。
すぐ隣で。
バンッ!!
水が弾けた。
爆発したような衝撃音。
認識するより早く、
激痛が走る。
左腕。
全体を、何かに掴まれた。
潰されるような圧力。
視界が揺れる。
何も見えない。
判断が追いつかない。
身体が引かれる。
水の中へ。
足が滑り、体勢が崩れる。
そのまま――水の中へ叩き込まれた。
冷たい。
重い。
暗い。
痛い。
思考が、痛みに塗り潰される。
何が起きたのか、分からない。
分からないまま、
ただ引きずり込まれる。
遠くで、声がした気がした。
――先輩!
エルネの声。
それだけが、かろうじて届いた。




