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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
19話
98/128

水面下で掴むもの

 


 足を踏み入れる。


 境界のようなものがあるかと思っていたが、空気が変わることもなく、ただ草の感触が足裏に伝わるだけだった。拍子抜けするほどに、何も起こらない。


 そのまま水辺の近くまで歩み寄る。


 屈み込み、水面を覗き込んだ。



 ……綺麗だ。


 濁りはほとんどなく、底まで見える。光が揺れ、水の中で反射しながらゆらゆらと歪んでいる。浅い。泥の沈殿がうっすらと積もり、その上に透明な水が重なっているだけだ。


 水の中に魚や虫がいない。


 危険な気配は、感じない。


「わっ!」


 背後からの声に、身体が跳ねた。


 反射的に肩が上がり、息が詰まる。


「もぅ!」


 振り返ると、エルネが笑いながら手を引っ込めていた。


「えへへ、ごめんなさい。先輩、ずっと水面見てると落ちちゃいますよ」



 ……確かに。


 もう少しでバランスを崩していたかもしれない。


 小さく息を吐き、慎重に一歩だけ後ろへ下がる。


 改めて周囲を見るが、魔物の気配はない。水辺特有の湿気はあるが、それ以上の違和感は感じられなかった。


 エルネの方へ視線を向けると、彼女は上を見上げている。木の幹や枝の隙間を探るように、スライムの姿を念入りに探している。


 私は軽くため息をついた。


 水辺をなぞるように歩く。


 そのとき、視界の端で何かが光った。


 キラリ、と反射した。

 足を止め、もう一度同じ場所を見る。


 水の中。


 底の泥の上に、何かが沈んでいる。


 光を拾う、硬質なもの。


 ……魔石だ。


 スライムの核。


 しかも一つではない。まとまって、いくつか沈んでいる。


 五つほど。


 胸の内で計算が弾ける。


 これを取れば、納品数は揃う。それどころか、余分が出る。


 余分はそのまま報酬になる。

 ……取りに行くべきだ。


 だが、水の中。


「エルネさん、水の中に魔石が落ちてます!」


「ホント〜!?」


 声を弾ませて駆け寄ってくる。


 水魔法があれば、水流で引き寄せられるだろうか。土魔法なら底を持ち上げて道を作れるかもしれない。


 風では、届かない。


 できることの差が、妙に現実として胸に残る。


「先輩どこどこ。どこですか?」


 指を差す。


「あそこ、水の中に落ちてる」


「わ、ほんと、五個くらい落ちてる」


 無防備に身を乗り出すエルネを横目で見る。


 その姿に、さっきの仕返しを思いついた。


 ほんの、軽い悪戯。

 手が、動く。


「わっ!」


 両手で肩を掴み、引く。


「ヒィャアッッ!!」



 大きな悲鳴とともに体が跳ねる。


 そのまま後ろへ引き、二人して地面に転がった。


「ちょっとぉ、もぉお、びっくりしたぁーー!」


 エルネが文句を言う。


 その顔が、あまりにも大げさで。


 思わず、笑いが漏れた。


 エルネもつられて笑う。

 何が面白いのか分からないまま、二人でしばらく笑い続けた。


 仰向けのまま、木陰越しの空を見る。

 葉の隙間からこぼれる光が、ゆらゆらと揺れていた。


 ……こんなことをしていて、いいのだろうか。

 そんな疑問が浮かぶ。


 けれど、それを咎める者はいない。


 誰もいない。


 だから――許されているような気がした。


 体を起こす。


 靴を脱ぎ、ズボンの裾を引き上げる。杖と手袋、ポーチを横に置く。


 やることは単純だ。


 入って、取って、戻る。それだけ。


 それで終わる。


 エルネの視線を感じる。


「先輩の足って綺麗」


「?」


 意味が分からず、首を傾げる。


「ありがとう?」と、とりあえず返す。


 エルネは満足そうに頷いた。


「私が取りに行ってきますね」


「あ、はい。お願いします」


 水辺へ足を向ける。


 家にいた頃、水浴びで足を浸けた感触を思い出す。


 つま先が水に触れると、ひやりと冷たい。


 足首まで沈むと、一気に熱が奪われる感覚が広がった。


 そのまま、ゆっくりと足を進める。


 水底は柔らかく、沈殿物が足を包み込む。膝まで沈み込むような感触。


 もう片方の足も入れる。


 一歩。

 また一歩。

 進むたびに泥が舞い、水が濁る。

 だが気にしない。


 魔石の位置は、もう分かっている。


 やがて、すぐ目の前。


「やりましたね!先輩!」

 岸からエルネの声が飛ぶ。

 振り返ると、笑顔で手を振っていた。


 その姿に、ほんの少しだけ安心する。


 視線を戻す。

 腰を曲げ、左腕の袖を捲る。



 腕を伸ばす。

 指先が水に触れる。


 冷たい。


 そのまま、手を沈める。


 水が腕を包み込み、感覚が鈍る。


 底へ。


 泥の中へ。


 指が何かに触れる。


 硬い。


 それを掴み、握りしめる。




 ――その瞬間だった。




 左脇。


 すぐ隣で。


 バンッ!!


 水が弾けた。


 爆発したような衝撃音。


 認識するより早く、


 激痛が走る。


 左腕。


 全体を、何かに掴まれた。


 潰されるような圧力。


 視界が揺れる。

 何も見えない。

 判断が追いつかない。

 身体が引かれる。


 水の中へ。


 足が滑り、体勢が崩れる。


 そのまま――水の中へ叩き込まれた。


 冷たい。

 重い。

 暗い。

 痛い。


 思考が、痛みに塗り潰される。


 何が起きたのか、分からない。

 分からないまま、

 ただ引きずり込まれる。


 遠くで、声がした気がした。


 ――先輩!


 エルネの声。


 それだけが、かろうじて届いた。

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