穴の空いた場所
ギルドの扉を押し開けた瞬間、鼻につく独特の匂いが流れ込んできた。酒と汗と革と鉄の混ざった、いつもの空気。けれど今日は、そこにわずかな湿り気が混じっている。外の雨が、そのまま染み込んできたようだった。
室内は魔石灯に照らされている。昼のはずなのに、厚い雲が光を遮っているせいで、どこか薄暗い。光はあるのに、晴れた日のような開けた感じはない。ぼんやりとした明るさの中で、人影がゆっくりと動いている。
人は少なかった。
動く気がないのか、それとも外に出る気がないのか。椅子に腰を下ろしたまま、酒をあおる者、机に肘をついてぼんやりしている者。どこか全体が沈んでいる。
外套を羽織ったままの私は、その中に紛れ込むように立っていた。
……少しだけ、安心する。
昨日、ここで騒ぎを起こしたのは自分だ。あれだけ目立てば、顔を覚えられていてもおかしくない。けれど今は、この外套がある。フードを深くかぶれば、顔も輪郭も曖昧になる。
裾を軽く引き、視界を狭めるようにかぶり直す。
隠れている。
そう思えた。
――その分、誰も見ていない気もした。
何人かの視線がこちらに向いたが、それはすぐに逸れていく。興味を持たれるほどでもない。雨の日の、ただの外套姿のひとり。
その事実に、小さく息をついた。
肩から水滴を払う。ぱらぱらと床に落ちる音が、やけに静かに響いた。
歩き出し、空いている椅子を選ぶ。誰とも隣り合わない場所。自然と、そういう席を選んでいた。
腰を下ろす。
外套の中にこもった熱が、じわりと肌にまとわりつく。思っていたよりも暖かい。胸元から湿った空気が立ちのぼる。
指先で布を摘んで、ぱたぱたと揺らす。空気を逃がす。
もう一度、周囲を見渡した。
冒険者たち。若い者もいれば、年を重ねた者もいる。朝から酒を飲んでいる者。笑っている者。黙っている者。
女の子も、いる。
自分と同じくらいの年頃に見える者も。
けれど――
ミアレも、エルネも、いなかった。
視線を止めたまま、少しだけ間が空く。
……ミアレ。
あのとき、どうして。
頭の中で、言葉が浮かんでは消える。
避けられた。
そう思えば、それで終わる。処理としては簡単だ。
嫌われた。
それでいいはずなのに。
――なぜ?
その一点だけが、引っかかる。
あれほど一緒にと、これからもと、言葉を重ねてきたのに。寄り添うように話していたのに。それが、あんなふうに途切れる。
「次も一緒に行こうね」
その言葉だけが、やけに残っていた。
それも、あっけなく。
まるで最初からなかったみたいに。
頭の中で、今まで聞いてきた言葉がゆっくりと繰り返される。反芻される。どれも同じ声で、同じ温度で、同じ形のまま。
それなのに。
全部、嘘のように思えてしまう。
……本当は、何だったのか。
聞けばいい。
そうすれば分かる。
けれど。
どうやって?
何を、どう言えばいい?
嫌われているかもしれない相手に、声をかける理由はあるのか。
――ない。
胸の奥に、細い棘のような痛みが走る。
チクチクと、消えない。
……割り切ればいい。
これはそういうものだ。
冒険者は、パーティーを組む。報酬のために。成功のために。効率のために。誰と組もうが、関係ない。
知らない相手と組むのも普通だ。
それが当たり前。
そう、頭では分かる。
それでいいはずだった。
――そう思えないから、困っている。
胸の奥に、小さな穴が空いたような感覚が残る。
息が、少しだけ詰まる。
……構わない。
そう言い聞かせる。
私には、エルネがいる。
私を見て、ついてくる後輩がいる。
それでいい。
それだけでいい。
そう思わないと、引きずる。
だから、考えるのをやめた。
両手を強く握りしめる。
外套の布がぐしゃりと音を立てる。
まだ何もしていない。
ここに来てから、何も。
望んでいたような景色は見ていない。何かを成したわけでもない。
このまま帰る?
そんなこと、できるはずがない。
何もせずに帰れば、何も残らない。
兄さまの話していた武勇伝も、土産話も、ひとつも語れない。
姉さまに笑われる。
父さまに叱られる。
氏族の者として、何も成せなかった未熟者だと。
……そして。
きっと、姉さまも言われる。
「リュシアは最初から魔術学院に行かせていればよかった」
父さまの言葉が、自然に浮かんだ。
父さまはそういう人だ。理屈と結果で物を言う。結果があれば黙る。なければ切り捨てる。
だから、姉さまは上を目指した。結果を出すために。
そのおかげで、今の自由がある。
なら。
私は、何をする?
視線を上げる。
音が戻ってくる。
ざわめき。雨音。足音。椅子の軋み。
その中に、二人分の足音が近づいてきた。
視界の端に影が入る。
気づいたときには、向かいの席に二人の男が座っていた。
躊躇もなく。
「お前、一人か?」
片方がこちらを覗き込むように言う。
「なぁ、一緒に組まないか?」
少しだけ間を置く。
フードを深くかぶり直す。
視線を合わせないまま、答えた。
「結構です。待っている人がいるので」
淡々と。
それ以上は言わない。
「ほかを当たってください」
二人は顔を見合わせる。
少しだけ身を引き、声を潜める。
「……女か?」
「だな……」
小さな囁き。
聞こえている。
けれど、何も言わない。
視線が、外套の奥を探るような。
外套の奥で指を少しだけ握り直した。




