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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
26話
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穴の空いた場所

 


 ギルドの扉を押し開けた瞬間、鼻につく独特の匂いが流れ込んできた。酒と汗と革と鉄の混ざった、いつもの空気。けれど今日は、そこにわずかな湿り気が混じっている。外の雨が、そのまま染み込んできたようだった。


 室内は魔石灯に照らされている。昼のはずなのに、厚い雲が光を遮っているせいで、どこか薄暗い。光はあるのに、晴れた日のような開けた感じはない。ぼんやりとした明るさの中で、人影がゆっくりと動いている。


 人は少なかった。


 動く気がないのか、それとも外に出る気がないのか。椅子に腰を下ろしたまま、酒をあおる者、机に肘をついてぼんやりしている者。どこか全体が沈んでいる。


 外套を羽織ったままの私は、その中に紛れ込むように立っていた。


 ……少しだけ、安心する。


 昨日、ここで騒ぎを起こしたのは自分だ。あれだけ目立てば、顔を覚えられていてもおかしくない。けれど今は、この外套がある。フードを深くかぶれば、顔も輪郭も曖昧になる。


 裾を軽く引き、視界を狭めるようにかぶり直す。


 隠れている。


 そう思えた。


 ――その分、誰も見ていない気もした。


 何人かの視線がこちらに向いたが、それはすぐに逸れていく。興味を持たれるほどでもない。雨の日の、ただの外套姿のひとり。


 その事実に、小さく息をついた。


 肩から水滴を払う。ぱらぱらと床に落ちる音が、やけに静かに響いた。


 歩き出し、空いている椅子を選ぶ。誰とも隣り合わない場所。自然と、そういう席を選んでいた。


 腰を下ろす。


 外套の中にこもった熱が、じわりと肌にまとわりつく。思っていたよりも暖かい。胸元から湿った空気が立ちのぼる。


 指先で布を摘んで、ぱたぱたと揺らす。空気を逃がす。


 もう一度、周囲を見渡した。


 冒険者たち。若い者もいれば、年を重ねた者もいる。朝から酒を飲んでいる者。笑っている者。黙っている者。


 女の子も、いる。


 自分と同じくらいの年頃に見える者も。


 けれど――


 ミアレも、エルネも、いなかった。


 視線を止めたまま、少しだけ間が空く。


 ……ミアレ。


 あのとき、どうして。


 頭の中で、言葉が浮かんでは消える。


 避けられた。


 そう思えば、それで終わる。処理としては簡単だ。


 嫌われた。


 それでいいはずなのに。


 ――なぜ?


 その一点だけが、引っかかる。


 あれほど一緒にと、これからもと、言葉を重ねてきたのに。寄り添うように話していたのに。それが、あんなふうに途切れる。


「次も一緒に行こうね」


 その言葉だけが、やけに残っていた。


 それも、あっけなく。


 まるで最初からなかったみたいに。


 頭の中で、今まで聞いてきた言葉がゆっくりと繰り返される。反芻される。どれも同じ声で、同じ温度で、同じ形のまま。


 それなのに。


 全部、嘘のように思えてしまう。


 ……本当は、何だったのか。


 聞けばいい。


 そうすれば分かる。


 けれど。


 どうやって?


 何を、どう言えばいい?


 嫌われているかもしれない相手に、声をかける理由はあるのか。


 ――ない。


 胸の奥に、細い棘のような痛みが走る。


 チクチクと、消えない。


 ……割り切ればいい。


 これはそういうものだ。


 冒険者は、パーティーを組む。報酬のために。成功のために。効率のために。誰と組もうが、関係ない。


 知らない相手と組むのも普通だ。


 それが当たり前。


 そう、頭では分かる。

 それでいいはずだった。


 ――そう思えないから、困っている。


 胸の奥に、小さな穴が空いたような感覚が残る。


 息が、少しだけ詰まる。


 ……構わない。


 そう言い聞かせる。


 私には、エルネがいる。


 私を見て、ついてくる後輩がいる。


 それでいい。


 それだけでいい。


 そう思わないと、引きずる。


 だから、考えるのをやめた。


 両手を強く握りしめる。


 外套の布がぐしゃりと音を立てる。


 まだ何もしていない。


 ここに来てから、何も。


 望んでいたような景色は見ていない。何かを成したわけでもない。


 このまま帰る?


 そんなこと、できるはずがない。


 何もせずに帰れば、何も残らない。


 兄さまの話していた武勇伝も、土産話も、ひとつも語れない。


 姉さまに笑われる。


 父さまに叱られる。


 氏族の者として、何も成せなかった未熟者だと。


 ……そして。


 きっと、姉さまも言われる。


「リュシアは最初から魔術学院に行かせていればよかった」


 父さまの言葉が、自然に浮かんだ。


 父さまはそういう人だ。理屈と結果で物を言う。結果があれば黙る。なければ切り捨てる。


 だから、姉さまは上を目指した。結果を出すために。


 そのおかげで、今の自由がある。


 なら。


 私は、何をする?


 視線を上げる。


 音が戻ってくる。


 ざわめき。雨音。足音。椅子の軋み。


 その中に、二人分の足音が近づいてきた。


 視界の端に影が入る。


 気づいたときには、向かいの席に二人の男が座っていた。


 躊躇もなく。


「お前、一人か?」


 片方がこちらを覗き込むように言う。


「なぁ、一緒に組まないか?」


 少しだけ間を置く。


 フードを深くかぶり直す。


 視線を合わせないまま、答えた。


「結構です。待っている人がいるので」


 淡々と。


 それ以上は言わない。


「ほかを当たってください」


 二人は顔を見合わせる。


 少しだけ身を引き、声を潜める。


「……女か?」


「だな……」


 小さな囁き。


 聞こえている。


 けれど、何も言わない。


 視線が、外套の奥を探るような。


 外套の奥で指を少しだけ握り直した。

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