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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
26話
137/146

濡れなかった理由

 


 ザァザァ、と雨音が街全体を覆っていた。


 屋根から落ちる水が、ポタポタと規則的な音を刻む。

 石畳を叩く雨粒は細かく弾け、どこか遠くでまとまった水が流れ落ちる音も混ざっていた。


 そして、頭上。

 外套に降り注ぐ水滴が、ボタボタと鈍く響く。


 それらすべてが、奇妙な静けさの中にあった。


 喧騒ではない。

 かといって、無音でもない。


 ただ、均一に満ちた音だけがある。


 ――静かだ。


 足を踏み出す。

 パシャン、と水溜りを踏み抜いた。


 石畳の隙間には水が溜まり、細い流れとなって道の低い方へと流れていく。ところどころにできた水溜りは、空を映しながら揺れていた。


 気にはならなかった。


 レザーブーツの中に水が染み込むこともない。

 むしろ、泥で汚れていた靴の表面が洗い流されていくのを、どこか都合よく感じていた。


 もう一歩、踏み込む。

 パシャン、と水を蹴る。


 今の自分は、濡れない。

 おばさんから借りた一枚の外套。中におばさんの匂いが、わずかに残っている。

 それだけで、雨の中を歩くことが問題にならない。


 その事実が、ほんの少しの余裕を生んでいた。


 そして――


 どこかで、楽しいとさえ思っている自分がいる。


 無邪気な感覚だった。

 雨は、本来なら外に出るものではない。


 出られないわけではない。

 ただ、昔から語られてきたものがある。



「雨に直接触れる子には、邪気がつく」



 誰もが口にする言葉だった。


 母も、そう言っていた。


 小さい頃の記憶が、ふと浮かぶ。


 あのとき、自分はその言いつけを守らなかった。


 雨の中へ出た。

 濡れた。

 それでも――何も起きなかった。


 少なくとも、その瞬間には。


 むしろ、楽しかった。


 雨が肌に当たる感覚。

 服が水を吸って、体にぴったりと張り付くあの感じ。


 湯浴みとも、水浴びとも違う。

 ただ冷たいだけではない、不思議な心地よさがあった。


 何もかもが新しくて、ただはしゃいでいた。


 けれど、姉に見つかった。

 すぐに母に知られて、捕まった。


 傘を差して駆けてきた母の顔は、どこか心配そうで、でも少しだけ厳しかった。


 手を引かれて、屋内へ戻る。


 そのときの温度差を、今でも覚えている。


 外の冷たさと、内のぬくもり。

 部屋に入ると、冬用に使うぬいぐるみが出された。

 中に湯たんぽを入れるものだった。


 それを抱かされる。


 母の腕の中に収まる。


 じんわりと、体の内側に熱が広がっていく。


 遊んだ疲れもあったのだろう。

 そのまま、強い眠気に引き込まれていった。


 お手伝いの人が、甘くて温かいスープを持ってきてくれた。


 口に運ばれるそれを、ぼんやりとした意識の中で飲んでいた。


 そのとき、母は言った。


「言いつけを守れない子は、ひどい罰が返ってきますよ」


 その言葉の意味が、分からなかった。


「かあさまは、わたしになにかするんですか?」


 そう聞いた。


 母は、小さく首を振った。

「私は、何もしませんよ」


 分からなかった。


 罰なんて、なかった。

 けれど、その言葉だけが少し怖かった。



 その時は優しくされて、温かくされて、ただ眠っただけだった。


 けれど。


 次の日、体調を崩した。


 体は熱を持ち、動くこともできなかった。

 頭がぼんやりとして、ひどく辛かった。


 誰かがそばにいないと、不安で仕方なかった。

 母も、姉も、お手伝いの人も、何度も様子を見に来てくれた。


 その中で、姉が言った。


「雨に濡れて罰が当たったんだよ、リア」


 その言葉を、今でも覚えている。


 パシャン、と足音が響き。

 現実に戻る。


 ギルドへ向かう道を歩いている。


 雨は変わらず降り続いている。


 でも今は――濡れていない。

 外套が、すべてを弾いている。


 雨は、触れてこない。


 あのときとは違う。

 罰は、来ないのだろうか。


 そう思って、すぐに考えをやめる。


 分からないことを考えても仕方がない。


 足を進めると、ギルドの建物が見えてくる。


 扉の前で、一度だけ立ち止まる。

 外套の端から滴る水が、石畳に落ちて小さな音を立てた。


 手を伸ばす。

 濡れた指先で、扉に触れる。


 そのまま押し開けた。

 外の音が一瞬だけ強くなり、次の瞬間、遮断される。


 内側の空気が、わずかに温かかった。

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