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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
26話
136/150

ありがとうで返したもの

 


 そんなやり取りをしているあいだも、雨は止む気配を見せなかった。


 カウンターの前に戻り、ポーチに手を入れる。中の重さを確かめるように軽く揺らし、指先で硬貨袋の感触をなぞる。ナイフもある。刃の冷たさが指に伝わった。


 それだけで十分だと思った。

 準備を終え、扉の方へ視線を向ける。


 その背中に、声がかかる。


「こんな雨降りなのに出かけるのかい?」


 振り返る。


「街の外には行きません。ギルドに、エルネがいるかもしれないので、会っておきたいんです」


 自分で言いながら、考える。


 こんな雨の中だ。いるとは限らない。むしろ、いない可能性の方が高いだろう。行かなくてもいい理由ならいくつも思い浮かぶ。


 それでも。

 それは、行かない理由にはならなかった。


「ちょっと待ってな」


 おばさんはそう言って、小さくため息をつくと、裏へ引っ込んでいった。


 言われた通り、その場で待つ。


 雨音が、変わらず屋根や窓を叩いている。一定のリズムで続くその音は、どこか落ち着くようでもあり、同時に外へ出ることを拒んでいるようでもあった。


 やがて、おばさんは戻ってきた。


 その手には、見慣れない外套があった。


 黒く、まだら模様のあるそれは、濡れた革のような光沢を帯びていて、わずかに光を弾いている。


 思わず首を傾げる。



 また、さっきのような服かと思った。けれど違う。これは、着飾るためのものではない。



 それに——どこか、見覚えがある。


「これを羽織ってお行き」


 有無を言わせない調子で差し出される。


 断る理由が思い浮かばず、自然と手が伸びた。



 触れた。


 外側は滑らかで、水を弾くような手触り。内側は少しざらついていて、布とは違う、どこか引っかかる感触があった。


 二度、三度と撫でる。


 初めて触ったはずなのに、妙な既視感がある。記憶に、まだ新しい感触。


「スライムドレイクって知ってるかい?」


 おばさんが軽く言う。


「水の中にいる小さなドラゴンの皮で出来たものだよ。水は弾くし、丈夫だ。それを上に羽織っていけば、雨なんかへっちゃらだよ」


 スライムドレイク。


 その言葉で、はっきりと思い出す。


 沼沢地。濁った水。腕を掴まれ、引きずり込まれそうになったあの感触。噛みつかれた痛み。


 あのトカゲだ。


 それが、これ。


 肉なら食べられると思っていた。けれど、こうして別の形になるとは考えたこともなかった。


 指先で外套を撫でる。


 ――なんて、ザマァないこと。

 あんなことをしたのだから、こうなって当然だ。


 自分に噛みついた個体ではないと分かっていても、そう思った。



 広げてみる。

 膝丈ほどまである大きさ。頭を覆うフードもついている。



 大きい。


 少し息を呑んだ。


「大きい……こんな大きいトカゲ、いるんですか……?」


 おばさんは少しおかしそうに笑った。


「そりゃあ、あんた。数匹の皮を継ぎ接ぎにしてるんだよ。そんなでっかいのが一匹でいるわけないだろう?」


 なるほど、と納得する。

 考えすぎだ。


 ただ、あの時の感覚が少し残っているだけだ。


 情けない。

 外套をもう一度見て、それから口を開く。


「あの、これは、いくらですか?」


 自然と出た言葉だった。


 おばさんは軽く肩をすくめる。


「貸しとくよ」


 あっさりとした言い方だった。


「返したい時に、また返してくれればいいさ」


 まただ。


 雑貨屋の袋の時と、同じで終わりがない。


 その言葉が一瞬、頭をよぎる。


 返す。

 何を返せばいいのか、考える。


 金貨か、それとも別の何かか。

 思い浮かんだのは、違う言葉だった。


 ――ありがとう。


 エルネが、あのとき言っていた言葉。


 おじさんに向かって、私に向かって、言わせようとしていた言葉。


 言葉が、喉に引っかかる。


 それでも、押し出すように言った。


 ゆっくりと、口にする。


「ありがとう、おばさん」


 言った瞬間、胸の中に小さな変化があった。


 何かが少しだけ、ほどけるような感覚。


 それだけで、何か返せたような気がした。



 外套に袖を通す。

 肩から背中、そして頭まで包まれていく。


 軽い。


 思っていたよりもずっと、動きやすい。


 おばさんが近づいてきて、前を閉じる紐を結ぶ。慣れた手つきだった。


 その動きに、ふと別の記憶が重なる。


 家で、服を整えてくれていた人。

 名前を思い出しかけて、やめる。

 元気にしているだろうか、とだけ思った。



 すっぽりと外套に包まれる。


 袖口は少し大きく、指先が少しだけ顔を出している。

 少しだけ、大きい。


「おばさん、行ってきます」


 そう言って、扉の方へ駆け出す。


 扉を開けるとチリン、と呼び鈴が鳴った。


「いってらっしゃい」


 背中にかかる声は、やわらかかった。


 ゆっくりと扉が閉じていく。


 暖かな空気が、向こう側に残る。


 パタン、と音がして、それは遮られた。


 外に出る。


 雨は変わらず降っていた。


 外套に当たる音が、少し違う。


 肩に当たる雨の感触が、ない。


 その代わりに、柔らかく弾く音だけが残る。

 冷たいはずの雨は、直接は触れてこない。


 濡れていない。

 それだけのはずなのに。


 少しだけ、違って感じた。


 それでも。

 雨は、いつまでも変わらず降り続いていた。

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