ありがとうで返したもの
そんなやり取りをしているあいだも、雨は止む気配を見せなかった。
カウンターの前に戻り、ポーチに手を入れる。中の重さを確かめるように軽く揺らし、指先で硬貨袋の感触をなぞる。ナイフもある。刃の冷たさが指に伝わった。
それだけで十分だと思った。
準備を終え、扉の方へ視線を向ける。
その背中に、声がかかる。
「こんな雨降りなのに出かけるのかい?」
振り返る。
「街の外には行きません。ギルドに、エルネがいるかもしれないので、会っておきたいんです」
自分で言いながら、考える。
こんな雨の中だ。いるとは限らない。むしろ、いない可能性の方が高いだろう。行かなくてもいい理由ならいくつも思い浮かぶ。
それでも。
それは、行かない理由にはならなかった。
「ちょっと待ってな」
おばさんはそう言って、小さくため息をつくと、裏へ引っ込んでいった。
言われた通り、その場で待つ。
雨音が、変わらず屋根や窓を叩いている。一定のリズムで続くその音は、どこか落ち着くようでもあり、同時に外へ出ることを拒んでいるようでもあった。
やがて、おばさんは戻ってきた。
その手には、見慣れない外套があった。
黒く、まだら模様のあるそれは、濡れた革のような光沢を帯びていて、わずかに光を弾いている。
思わず首を傾げる。
また、さっきのような服かと思った。けれど違う。これは、着飾るためのものではない。
それに——どこか、見覚えがある。
「これを羽織ってお行き」
有無を言わせない調子で差し出される。
断る理由が思い浮かばず、自然と手が伸びた。
触れた。
外側は滑らかで、水を弾くような手触り。内側は少しざらついていて、布とは違う、どこか引っかかる感触があった。
二度、三度と撫でる。
初めて触ったはずなのに、妙な既視感がある。記憶に、まだ新しい感触。
「スライムドレイクって知ってるかい?」
おばさんが軽く言う。
「水の中にいる小さなドラゴンの皮で出来たものだよ。水は弾くし、丈夫だ。それを上に羽織っていけば、雨なんかへっちゃらだよ」
スライムドレイク。
その言葉で、はっきりと思い出す。
沼沢地。濁った水。腕を掴まれ、引きずり込まれそうになったあの感触。噛みつかれた痛み。
あのトカゲだ。
それが、これ。
肉なら食べられると思っていた。けれど、こうして別の形になるとは考えたこともなかった。
指先で外套を撫でる。
――なんて、ザマァないこと。
あんなことをしたのだから、こうなって当然だ。
自分に噛みついた個体ではないと分かっていても、そう思った。
広げてみる。
膝丈ほどまである大きさ。頭を覆うフードもついている。
大きい。
少し息を呑んだ。
「大きい……こんな大きいトカゲ、いるんですか……?」
おばさんは少しおかしそうに笑った。
「そりゃあ、あんた。数匹の皮を継ぎ接ぎにしてるんだよ。そんなでっかいのが一匹でいるわけないだろう?」
なるほど、と納得する。
考えすぎだ。
ただ、あの時の感覚が少し残っているだけだ。
情けない。
外套をもう一度見て、それから口を開く。
「あの、これは、いくらですか?」
自然と出た言葉だった。
おばさんは軽く肩をすくめる。
「貸しとくよ」
あっさりとした言い方だった。
「返したい時に、また返してくれればいいさ」
まただ。
雑貨屋の袋の時と、同じで終わりがない。
その言葉が一瞬、頭をよぎる。
返す。
何を返せばいいのか、考える。
金貨か、それとも別の何かか。
思い浮かんだのは、違う言葉だった。
――ありがとう。
エルネが、あのとき言っていた言葉。
おじさんに向かって、私に向かって、言わせようとしていた言葉。
言葉が、喉に引っかかる。
それでも、押し出すように言った。
ゆっくりと、口にする。
「ありがとう、おばさん」
言った瞬間、胸の中に小さな変化があった。
何かが少しだけ、ほどけるような感覚。
それだけで、何か返せたような気がした。
外套に袖を通す。
肩から背中、そして頭まで包まれていく。
軽い。
思っていたよりもずっと、動きやすい。
おばさんが近づいてきて、前を閉じる紐を結ぶ。慣れた手つきだった。
その動きに、ふと別の記憶が重なる。
家で、服を整えてくれていた人。
名前を思い出しかけて、やめる。
元気にしているだろうか、とだけ思った。
すっぽりと外套に包まれる。
袖口は少し大きく、指先が少しだけ顔を出している。
少しだけ、大きい。
「おばさん、行ってきます」
そう言って、扉の方へ駆け出す。
扉を開けるとチリン、と呼び鈴が鳴った。
「いってらっしゃい」
背中にかかる声は、やわらかかった。
ゆっくりと扉が閉じていく。
暖かな空気が、向こう側に残る。
パタン、と音がして、それは遮られた。
外に出る。
雨は変わらず降っていた。
外套に当たる音が、少し違う。
肩に当たる雨の感触が、ない。
その代わりに、柔らかく弾く音だけが残る。
冷たいはずの雨は、直接は触れてこない。
濡れていない。
それだけのはずなのに。
少しだけ、違って感じた。
それでも。
雨は、いつまでも変わらず降り続いていた。




