そこにいたから
「あの、エルネさんは宿に来ましたか?」
確認だった。
部屋を見れば、いないことは分かっている。
それでも、口に出さずにはいられなかった。
「今日は見てないよ?昨日は一度も会わなかったのかい」
一度も、会っていない。
その言葉は、胸の奥に静かに沈んでいった。
波も立たず、ただ重く、底に落ちていくように。
今日会えなかっただけなら、ミアレとすれ違う日と同じだ。
けれど、それとは違う。
約束をしていた。
それを、自分が守れなかった。
それが、引っかかっている。
「会えてないです」
少しだけ、声が遅れる。
「私が約束の場所に行けなかったから……きっと、今頃、エルネさんは怒っていると思います」
おばさんは、はぁ、と小さくため息をついた。
手を腰に当てて、少しだけ呆れたように笑う。
「そういう時はね、ごめんなさいって謝るんだよ」
当たり前のことを、当たり前に言う。
「今日はもう遅い。明日にしな。それより、お腹は空いてないかい?」
お腹。
……空いていない。
正確には、食欲がない。
「食欲がないです」
「今日はいいです。結構です。ありがとうございます」
そう答えると、おばさんは少しだけ眉を下げた。
「そうかい」
無理には勧めない。
けれど、引くわけでもない。
その距離が、少しだけ居心地が悪かった。
おばさんは、優しい。
なぜだろう。
優しくされる理由が分からない。
私が、誰かも、何をしに来たのかも知らない。
それでも、ここに置いてくれる。
理由が、あるはずだ。
――ああ。
お金だ。
最初に渡した金貨。
それが、理由。
なぜだろう。
理由がないものは、あとで何かを求められる。
そのはずだ。
先に払ってしまえばいい。
そうすれば、これは支払い済みになる。
ミアレも、エルネも、
杖を拾って売った冒険者も、
バルクもロニオも、酒を飲んでいる男たちも、
癒し手も、調合師も。
みんな。
お金だ。
それが価値で、基準で、理由。
私は黙ってポーチに手を入れる。
中から硬貨袋を取り出し、金貨を四枚、取り出した。
四枚。
この四枚は、できれば手放したかった。
「あの、これで……もう少し泊まれますか?エルネの分も一緒に、宿代にできますか?」
差し出すと、おばさんは一瞬だけ目を丸くした。
けれどすぐに、いつもの調子で頷く。
「エルネちゃんの分もかい?太っ腹だねぇ。いいよ、日数は延ばしておくから。会ったら伝えとくよ」
それでいい。
誰かの優しさも、怒りも、悲しみも。
全部、その裏にあるのは、お金。
そう思えば、納得できる。
四枚の金貨。
それが何の価値なのかは、はっきりしない。
人の命か、オークの価値か。
どちらにせよ、重いものだ。
それを手放すと、少しだけ楽になった気がした。
けれど――消えたわけではない。
記憶として。
重しとして。
そのまま残る。
「ちょっと待ってなさい。そこで座ってなさい」
言われるまま、椅子に座る。
ポーチの口を開けて、閉じて。
指先で中を探る。
それだけで、少しだけ時間が進む。
やがて、おばさんが戻ってきた。
手には、木彫りのカップ。
見覚えのある、無骨なもの。
中には、白く濁ったスープ。
湯気が、ゆらりと立ち上っている。
「ポタージュだよ。これくらいは食べな」
スプーンをこちらに向けてくる。
食欲は、ない。
けれど、断る理由もなかった。
差し出されたものを拒む方が、後悔しそうだった。
スプーンを持ち、一口すくう。
とろりとした質感。
それを、口に運ぶ。
芋の味。
塩気は、ベーコンだろうか。
――食べられる。
家で食べていたスープの方が、ずっと美味しかった。
濃くて、甘くて、口に残る味。
それと比べれば、これは薄い。
美味しいはともかく、食べられる。
それだけのはずだった。
なのに、喉を通るたびに残るのは味ではなく、温かさ。
味はすぐに消えるのに、それだけが体の中に残っていく。
……エルネは、まだ怒っているだろうか。
もしここにいたら、このスープをどう思うだろう。
そんなことを考えて、すぐに打ち消す。
今は関係ない。
顔を上げる。
おばさんの目と合う。
優しい目。
それを見て、視線を逸らした。
一口。
また一口。
……あたたかい。
それだけが、確かだった。
手が止まる。
「おばさんは、どうして……私に優しくするんですか?」
言葉が、出た。
「みんな、お金が欲しくて関わってくるんですか?」
視線を上げる。
自分が何を言っているのか、分かっている。
おばさんはすぐには答えなかった。
布巾を畳み、手を拭き、
それから、こちらを見る。
「……半分は、そうだね」
否定しなかった。
「うちは宿屋だよ。部屋も出すし、ご飯も出す。そりゃあ、お金はもらうさ。もらわなきゃ続かない」
当たり前のことを、当たり前に言う。
でも、その声は少しだけ柔らかかった。
「優しくしてるように見えるのも、まぁ……商売のうちって言われたら、そういう面もあるかもしれないね」
少しだけ肩をすくめる。
「愛想が悪い宿より、感じのいい宿の方が人は来るからさ」
そこで一度、言葉が切れる。
「でもね」
ほんの少しだけ、声の温度が変わる。
「それだけじゃ、やってられないんだよ」
少しだけ、声が変わる。
視線が、私の包帯に落ちる。
「お金のためだけなら、あんたみたいな子は放っておくさ」
少しだけ苦笑する。
「血まみれで帰ってきて、泣きもせずに立ってるような子なんてね」
「そういうの見て、はい、金貨もらったから終わりです、なんてさ」
首を横に振る。
「できる人もいるかもしれないけど、私は無理だね」
少しだけの、間。
「……見ちゃったらさ」
短い言葉のあと、少しだけ視線を外した。
「放っとく方が、あとで面倒なんだよ」
軽く言う。 でも、その声は誤魔化しきれていないような感じがしていた。
「寝る前に思い出すし、顔も浮かぶし、あのままでよかったのかねって考える」
軽い言い方。
でも、少しだけ、重い。
「寝る前に思い出すしね。あれでよかったのかって」
「そういうのが、ずっと残るくらいならさ」
一度、リュシアを見る。
「ちょっと世話焼いて、あんたがちゃんと寝て、朝起きて、まぁ生きてるかって顔してくれた方が、よっぽど楽なんだよ」
小さく笑う。
「結局、自分のため」
「……それに、ここはそういうの、何度も見てきてる場所だからさ」
「全部に手は出せないよ。助けきれないのも山ほどある」
淡々とした言い方で続ける。
「でも、手が届くとこくらいはね」
ふっと息を吐く。
「見なかったことにするほど、器用でもないし」
リュシアの方へ、ほんの少しだけ顎を引く。
「だからさ」
「なんで優しくするのか、なんて、そんな大層な理由はないよ」
「そこにあんたがいたからだよ」
――その言葉を聞いたとき。
手が、止まっていた。
スープをすくう。
口に運ぶ。
あたたかい。
それだけ。
もう一度、すくおうとして。
手元が、少しずれる。
カツ、と小さな音。
それが、やけに大きく響く。
息を吸う。
うまく、吸えない。
喉が、引っかかる。
視界が、滲む。
おばさんの背中が、歪んで見えた。
……おかしい。
熱い。
顔に当たる湯気のせいかと思った。
でも違う。
それは外側からじゃない。
内側から、にじんでいる。
目を閉じて、開く。
変わらない。
手に力を込める。
震えてはいない。
ただ、うまく動かない。
もう一口。
ゆっくり、運ぶ。
飲み込む。
……あたたかい。
そのまま受け取ってしまうことが、
どうしてか、苦しかった。




