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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
25話
132/150

ただ戻っただけ

 


 夜だった。


 静かすぎる夜だった。


 目を開けたとき、最初に感じたのは暗さではなく――音の無さだった。


 そっと、左肩に触れる。服の上から撫でると、じん、と遅れて痛みが滲んだ。


 動かすと、沁みるように広がる。


 生きている、という感覚だけが、そこにあった。


 ……いつの間に、寝ていたのだろう。


 ぼんやりとした意識が、ゆっくりと浮上してくる。水の底から上がるように、思考が一つずつ形を取り戻していく。


 ベッドの上だった。


 体を起こすと、ふわりと匂いがした。髪か、布か、分からない。ただ、自分の匂いだった。


 落ち着かない。


 理由の分からない違和感だけが、胸の奥に引っかかっている。


 ベッドの脇に落ちていたポーチを拾い上げる。無意識に手を入れ、取り出したのはポーションだった。


 蓋を開けて、一気に飲み干す。


 どろりとした液体が喉を通る。苦味が舌に残る。


 ……持っていた。

 ずっと、持っていたのに。


 使うことも、存在すらも、頭から抜け落ちていた。


 今になって思う。

 あのとき、これを使っていれば――


 そんなもしもが、遅れて浮かんでくる。


 約束も……全部、忘れていた。


 いや、違う。


 忘れたのではなく、考える余地がなかった。


 奪われていた。


 思考も、感情も。


 あのときの私は、それどころじゃなかった。


 エルネに、謝らないと。


 夢の中で勝手に約束を使って、一緒に食べたなんて言ったら――きっと怒る。


 でも。


 そのあと、笑う気もした。

 くだらないって。

 そんなことで、笑い合えるような。


 ――そのはずなのに。


 そこで、思考が止まる。


 違和感。


 もう一つ。


 目が覚めたとき、聞こえなかった。


 あの音が。


 扉を叩く、遠慮のない、あの音が。


 夜だから……?


 いや、それでも、おかしい。


 それが、言葉になる。


「エルネが、いない?」


 確証はない。

 けれど、分かる。


 これまでの彼女を思えば、分かる。


 あの子は来る。

 必ず、来る。

 私のところへ。


 だから――

 いないのは、おかしい。


 ひどく落ち着かないような。

 胸の奥がぽっかりと穴のあいたような…。


 考えすぎたもしれない。

 静かすぎて思考が悪い方へと考える。


 いいや、誰も来ない夜は、こういうものだったかもしれない。


 ランタンに火を灯す。淡い光が部屋を照らす。


 その光の中で、自分の身体を見下ろす。


 ……違う。

 着ている服が。


 見覚えがない。


 少し大きい。袖が長く、スカートも余っている。


 おばさんのものだろうか。


 血まみれだったはずだ。


 洗うために着替えさせてくれたのかも知れない。


 記憶がない。


 抱きしめられて――

 そのあとが、ない。


 まるで、そこだけ切り取られたみたいに。


 空白。


 氏族の者が泣くなんて知られたら、笑われる。

 情けないと。


 恥だと。


 そう思うのに。

 何も、軽くならない。


 むしろ、重いままだ。


 それでも、体は動く。

 考えるより先に。


 ポーチとランタンだけを持つ。


 杖には手を伸ばさなかった。

 ……今は、持たなくていい気がした。


 持つ理由が、思いつかなかった。


 ナイフも持たないまま、部屋を出た。


 廊下は静かだった。


 カウンターの方にだけ、明かりがある。


 おばさんは、起きているはずだ。


 ……でも。


 足は、そちらへ向かなかった。


 エルネの部屋の前で止まる。


 扉の前。


 手を上げる。


 止まる。


 今日は、来ていないのかもしれない。


 珍しい、とは思う。


 けれど、ずっと一緒にいるわけでもない。


 狩りに出て、そのまま家に戻る日だってあるはずだ。


 いや、それでもいい。


 コンコン。

 乾いた音が、二つ。


 返事はない。

 気配も、ない。


 手が、勝手に動く。


 扉を開ける。

 ギィ、と軋む音。


 暗い部屋。

 誰もいない。


 ベッドに膨らみもない。

 荷物もない。


 空室。


 ただの、空いた部屋。


 ……いない。

 いない。

 エルネは、いない。


 ……やっぱり、帰ったんだ。


 今日は遅かったんだ、疲れていたはずだ。


 わざわざ私のところに来る理由もない。


 そう思うと、少しだけ安心する。


 扉を閉める。


 中を、もう一度だけ見ることはしなかった。


 思考が離れる。


 昼のことから。


 逃げるように。


 カウンターへ向かう。


 ギシ、と床が鳴る。


 ランタンを消す。


 明かりの中に入る。


 足取りが、少しだけ慎重になる。


 理由は分からない。


 恥ずかしいのかもしれない。


 居心地が悪いのかもしれない。


 自分でも分からない。


 もう一歩。


 視線を向ける。


 ――いない。

 いない。


 ……少しだけ、ほっとした。


 今は、誰とも話さなくていい。


 少し待つ。


 椅子に座る。


 静寂。


 奥から、わずかな物音。


 それだけ。


 窓の外を見る。


 夜。


 誰もいない。


 いつもいるはずの人影もない。


 静かすぎる。


「もう大丈夫なのかい?」


 声。


 振り返る。


 おばさんが立っていた。


 布巾で手を拭きながら。


「はい。もう平気です」


 言ってから、自分で思う。


 本当に?


 分からない。


「あの、服をありがとうございます」


「いーよ、そんなの。昔のやつだしね。もう着れないし」


 軽く笑う。


 それを見て、自分の格好を見る。


 少しおしゃれで、場違いで。


 袖が余る。


 子供みたいだ。


 ……あの場所にいたのも、この腕だった。


 無意識に袖をまくる。


 その動作が、やけに小さく感じた。


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