ただ戻っただけ
夜だった。
静かすぎる夜だった。
目を開けたとき、最初に感じたのは暗さではなく――音の無さだった。
そっと、左肩に触れる。服の上から撫でると、じん、と遅れて痛みが滲んだ。
動かすと、沁みるように広がる。
生きている、という感覚だけが、そこにあった。
……いつの間に、寝ていたのだろう。
ぼんやりとした意識が、ゆっくりと浮上してくる。水の底から上がるように、思考が一つずつ形を取り戻していく。
ベッドの上だった。
体を起こすと、ふわりと匂いがした。髪か、布か、分からない。ただ、自分の匂いだった。
落ち着かない。
理由の分からない違和感だけが、胸の奥に引っかかっている。
ベッドの脇に落ちていたポーチを拾い上げる。無意識に手を入れ、取り出したのはポーションだった。
蓋を開けて、一気に飲み干す。
どろりとした液体が喉を通る。苦味が舌に残る。
……持っていた。
ずっと、持っていたのに。
使うことも、存在すらも、頭から抜け落ちていた。
今になって思う。
あのとき、これを使っていれば――
そんなもしもが、遅れて浮かんでくる。
約束も……全部、忘れていた。
いや、違う。
忘れたのではなく、考える余地がなかった。
奪われていた。
思考も、感情も。
あのときの私は、それどころじゃなかった。
エルネに、謝らないと。
夢の中で勝手に約束を使って、一緒に食べたなんて言ったら――きっと怒る。
でも。
そのあと、笑う気もした。
くだらないって。
そんなことで、笑い合えるような。
――そのはずなのに。
そこで、思考が止まる。
違和感。
もう一つ。
目が覚めたとき、聞こえなかった。
あの音が。
扉を叩く、遠慮のない、あの音が。
夜だから……?
いや、それでも、おかしい。
それが、言葉になる。
「エルネが、いない?」
確証はない。
けれど、分かる。
これまでの彼女を思えば、分かる。
あの子は来る。
必ず、来る。
私のところへ。
だから――
いないのは、おかしい。
ひどく落ち着かないような。
胸の奥がぽっかりと穴のあいたような…。
考えすぎたもしれない。
静かすぎて思考が悪い方へと考える。
いいや、誰も来ない夜は、こういうものだったかもしれない。
ランタンに火を灯す。淡い光が部屋を照らす。
その光の中で、自分の身体を見下ろす。
……違う。
着ている服が。
見覚えがない。
少し大きい。袖が長く、スカートも余っている。
おばさんのものだろうか。
血まみれだったはずだ。
洗うために着替えさせてくれたのかも知れない。
記憶がない。
抱きしめられて――
そのあとが、ない。
まるで、そこだけ切り取られたみたいに。
空白。
氏族の者が泣くなんて知られたら、笑われる。
情けないと。
恥だと。
そう思うのに。
何も、軽くならない。
むしろ、重いままだ。
それでも、体は動く。
考えるより先に。
ポーチとランタンだけを持つ。
杖には手を伸ばさなかった。
……今は、持たなくていい気がした。
持つ理由が、思いつかなかった。
ナイフも持たないまま、部屋を出た。
廊下は静かだった。
カウンターの方にだけ、明かりがある。
おばさんは、起きているはずだ。
……でも。
足は、そちらへ向かなかった。
エルネの部屋の前で止まる。
扉の前。
手を上げる。
止まる。
今日は、来ていないのかもしれない。
珍しい、とは思う。
けれど、ずっと一緒にいるわけでもない。
狩りに出て、そのまま家に戻る日だってあるはずだ。
いや、それでもいい。
コンコン。
乾いた音が、二つ。
返事はない。
気配も、ない。
手が、勝手に動く。
扉を開ける。
ギィ、と軋む音。
暗い部屋。
誰もいない。
ベッドに膨らみもない。
荷物もない。
空室。
ただの、空いた部屋。
……いない。
いない。
エルネは、いない。
……やっぱり、帰ったんだ。
今日は遅かったんだ、疲れていたはずだ。
わざわざ私のところに来る理由もない。
そう思うと、少しだけ安心する。
扉を閉める。
中を、もう一度だけ見ることはしなかった。
思考が離れる。
昼のことから。
逃げるように。
カウンターへ向かう。
ギシ、と床が鳴る。
ランタンを消す。
明かりの中に入る。
足取りが、少しだけ慎重になる。
理由は分からない。
恥ずかしいのかもしれない。
居心地が悪いのかもしれない。
自分でも分からない。
もう一歩。
視線を向ける。
――いない。
いない。
……少しだけ、ほっとした。
今は、誰とも話さなくていい。
少し待つ。
椅子に座る。
静寂。
奥から、わずかな物音。
それだけ。
窓の外を見る。
夜。
誰もいない。
いつもいるはずの人影もない。
静かすぎる。
「もう大丈夫なのかい?」
声。
振り返る。
おばさんが立っていた。
布巾で手を拭きながら。
「はい。もう平気です」
言ってから、自分で思う。
本当に?
分からない。
「あの、服をありがとうございます」
「いーよ、そんなの。昔のやつだしね。もう着れないし」
軽く笑う。
それを見て、自分の格好を見る。
少しおしゃれで、場違いで。
袖が余る。
子供みたいだ。
……あの場所にいたのも、この腕だった。
無意識に袖をまくる。
その動作が、やけに小さく感じた。




