置いてきた約束
言葉を失ったまま、私は立ち尽くしていた。
焚き火の前。揺れる炎。ぱちぱちと薪が弾ける音だけが、やけに現実味を帯びて耳に届く。
「もぉ〜、そんなところでボーッと立ってないで」
明るい声が、軽やかに空気を揺らした。
「隣に座って、座って。先輩が火加減をみてくれないと焦げちゃいます」
倒木を椅子代わりにして、エルネがぽんぽんと隣を叩く。
……言われるままに、足が動いた。
なぜだろう。
考えるより先に、体が従っていた。
エルネの隣に腰を下ろす。
膝の横に、杖があった。
……当たり前みたいに。
握れば、何の抵抗もなく手に馴染む。
軽い。
あまりにも、軽すぎる気がした。
視線をエルネに戻す。
彼女は、いつもと同じ顔で笑っていた。
口角を少し上げた、あの、見慣れた笑顔。
……おかしい。
そう思うべきなのに。
喉が動かない。
声が出てこない。
ただ、呼吸だけが、ゆっくりと整っていく。
「ふぅ……」
吐いた息が、白く見えた気がした。
焚き火の熱が頬に当たる。
目の前では、ホーンラビットの肉がじっくりと焼かれている。
脂が滲み、表面が照りを帯びている。
……美味しそうだ。
そんな感覚が、わずかに戻ってくる。
「先輩」
呼ばれて、顔を上げた。
「私、罠も作って、ウサギさんも捕まえられて、それも捌けて、納品の数も揃えられて……」
エルネは胸を張る。
「これで、私も先輩みたいな立派な冒険者ですね!」
その声は弾んでいて。
未来を疑っていない音だった。
私は、ほんの少しだけ視線を落とす。
「そうですね……」
言葉が、ゆっくりと出てくる。
「これだけできたら、私が教えることはもうないかもしれません」
言いながら、自分でも違和感があった。
それでも、言葉は止まらない。
「そんなことないです!」
すぐに返ってくる。
「私、知らないことがたくさんあるんです。だから、これからも先輩と一緒ですよ」
楽しそうに笑う。
無邪気に。
まっすぐに。
その横顔を、ただ見ていた。
「これから試験を受けて、Eランクを卒業して、Dランク冒険者になって……お金を稼ぐんです!」
未来の話。
まだ何も失っていない言葉。
「……もし、試験に落ちたら?」
ふと、口からこぼれた。
少しだけ、意地の悪い問いだった。
「何度落ちても、諦めませんよ」
エルネは眉を寄せて、きっぱりと言う。
「でも、先輩!おいて行かないで下さいね」
甘えるような声。
その響きに、思わず笑みがこぼれた。
「大丈夫ですよ」
自然と、言葉が続く。
「置いていきません。私たち、同じパーティですから」
……あれ?
胸の奥が、微かに痛んだ。
この言葉。
これは。
私の言葉じゃない。
――ミアレだ。
あのとき。
試験に落ちて、落ち込んでいた私に、かけてくれた言葉。
どうして、今。
こんな形で。
「えへへ、ありがとうございます」
エルネは満足そうに笑った。
「ワイバーン倒して、おっきな魔石持って帰ってきたりして、一気に有名になったりして!」
夢が、次々と溢れてくる。
大きくて、明るくて。
現実なんてまだ触れていない夢。
それが、まぶしい。
本当に、まぶしい。
「エルネさん」
気づけば、口を開いていた。
「私、エルネさんの夢を一つだけ叶えてあげます」
言葉が、自分でも意外だった。
「なんでもいいです。ひとつだけ」
「いいの!?」
顔が近づく。
目が輝いている。
「私にできる範囲で、ですけど」
「じゃあ……!」
少し考えて。
すぐに、あふれ出す。
「いろんなところに行きたい!この街だけじゃなくて、山も、海も、高いところからの景色も!」
両手を広げる。
「光が差して、空があって……いろんな景色を見たいです。先輩と!」
その言葉に、少し遅れて頷いた。
……今、なんて返すのが正しかったんだろう。
「あ!あと、いろんなもの食べたいです!」
……ひとつじゃない。
思わず、吹き出した。
「一つだけって言いましたよね」
「えへへ」
笑う。
つられて、私も笑う。
何がおかしいのか分からないまま。
ただ、笑った。
笑っているのに、胸の奥がじくじくと痛んだ。
息を吸うたびに、少しだけ引っかかる。
苦しいわけじゃない。
でも、楽でもなかった。
ひとしきり笑ったあと。
エルネは焚き火へと視線を戻した。
「先輩、串、回してください」
立ち上がる。
言われるままに、串を持つ。
焼けた肉。
皮はなく、頭もない。
ただの肉。
脂が垂れ、炎に落ちる。
バチッ、と弾ける音。
その火の粉が。
肩に触れた。
――痛い。
その感覚だけが、やけに鮮明だった。
ここにいれば、
何も失っていないままでいられる。
彼女みたいに、無邪気なままで。
戻らなくてもいい。
――戻りたくない。
そう思った瞬間、
目が開いた。
息を吸う。
体を起こす。
暗い。
見慣れた天井。
宿の、自分の部屋だった。
静寂。
焚き火の音は、もうどこにもなかった。




