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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
24話
129/151

渡されたままの行き先

 


 紙を、握ったまま動けなかった。


 紙が、くしゃりと音を立てた。


 強く握りすぎていることに、そこで初めて気づく。


 開こうとして、指が止まる。


 見れば、そこに書かれている場所に行かなければならなくなる。


 行けば、話さなければならない。


 話せば——


 それが、全部「起きたこと」になる。

 ……だから。

 開けなかった。


 指先に力だけが残っている。

 けれど、それ以外は何も動かない。


 何も言わず、それをポーチの中へ押し込む。


 周囲の視線。

 ざわめき。

 誰かのひそめた声。


 それらを背中に感じながら、私はそこから一歩も動けなかった。


 ギルドの中。

 見慣れた内装。

 聞き慣れた音。


 ……なのに。


 どこか、違う。


 すべてが遠く、薄く、現実感を失っている。


 世界は動いている。

 人は歩き、話し、笑い、手を動かしている。


 でも私は。


 止まっている。


 時間に置き去りにされたみたいに、そこに立ち尽くしていた。


 何かあればと、渡された紙。


 ポーチの中から取り出して、握っている。


 今がその“何か”なのだと、頭では分かっている。


 けれど。


 足が、動かない。


 どこへ行くのか。

 何をするのか。

 誰に、何を話せばいいのか。


 何も分からない。


「……」


 喉は開いているはずなのに、言葉が出てこない。


 ただ、立っていた。


「リュシアさん」


 不意に、声が届いた。


 受付の女性だった。


 いつもと同じ、淡々とした声音。


「少し、こちらへ」


 促される。


 考えるより先に、体が動いた。


 カウンターの脇、少し奥まった場所。

 人の声が届きにくい、静かな空間。


 受付の女性が、静かに口を開く。


「それでは依頼の詳細を、聞かせていただけますか」


 問われたことだけを、答えた。


 場所。

 討伐対象のオークの数。

 途中で遭遇したゴブリンの群れ。

 パーティーの構成。

 戦闘の流れ。


 誰が、どう動いて。

 どこで、何が起きたのか。


 言葉にするたびに、少しずつ。


 少しだけ。


 現実が戻ってくる。


 断片的に、繋がっていく。


 それでも、まだ遠い。


「……全員、死にました」


 その一言だけが、やけに重く落ちた。


 自分の声なのに、どこか他人のように聞こえた。


 一拍だけ、間があった。


 書き留めていた手が、ほんの少しだけ止まる。


 それから、何事もなかったように動き出した。


「……確認します」

 声は変わらない。


 受付の女性の表情が、ほんのわずかに揺れた気がした。


 けれど、それは一瞬で消える。


「冒険者証は、これで全員分ですか?」


「ケインさんのだけ、回収できなくて……」


 喉が詰まる。


 視線が自然と落ちた。


「……すみません」


「いいえ」


 即座に返ってきた声。


「あなたのせいではありません」


 その言葉は、確かに届いたはずなのに。


 なぜか、うまく受け取れなかった。


 どこにも落ちないまま、ただ耳に残る。


 頷いた。


 それしかできなかった。


 手続きは、淡々と進む。


 やがて、金貨がテーブルに置かれた。


 一枚。

 二枚。

 三枚。

 四枚。

 五枚。


 並べられたそれを見た瞬間——


 吐き気がした。


 視界の奥が、ぐらりと揺れる。


 けれど。


 手を伸ばした。


 伸ばしかけた手が、止まる。


 これを受け取れば、終わる。

 受け取らなければ、終わらない。

 ……終わらせたい。


 そう思った。


 それに気づいて、ぞっとした。


 それでも、手は伸びる。


 金貨に触れる。

 重い。


 ——助かった。

 一瞬だけ、そう思ってしまった。


 その瞬間、自分の中の何かが、ひどく冷えた。


 そのまま、五枚の金貨を掴む。


 冷たい。


 ただ、それだけの感触。


 これを受け取らなければ、何も終わらない気がした。


 だから、受け取った。


 それだけだった。


 ……でも。


 これがあれば、私の杖の代金に。

 宿のお金にも食事もできる。

 明日も、生きられる。


 それは、確かなことだった。


 硬貨をポーチに押し込む。


 金属同士が触れ合う、乾いた音がした。


「肩の傷は、診ていただきましたか」


「……まだ」


「ギルド付きの治療士がいます。案内しますか」


「……お願いします」


 言われるままに頷く。


 案内された部屋は静かだった。


 簡素な寝台。

 棚に並ぶ道具。

 差し込む外の光。


 椅子に座っていた年配の男が、こちらを見た。


「矢は、抜かないといけないね」


 落ち着いた声。


「痛むよ」


「……はい」


 覚悟は、していた。


 けれど実際は。


 思っていたよりも、ずっと早く終わった。


 引き抜かれる瞬間よりも、その後の消毒の方が痛かった。


 焼けるような感覚。


 歯を食いしばる。


 声は出さなかった。


 出せなかった。


 血は拭き取られ、布が当てられ、包帯が巻かれる。


「化膿しなければ、動かすのに支障はない」


「無理はしないように」


「……はい」


 それだけ。


 何も聞かれなかった。


 何も問われなかった。


 ただ処置をして、


「終わりです」


 それだけ言われた。


 私は頭を下げた。


「ありがとう、ございます」


 かろうじて出た言葉。


 それが、精いっぱいだった。


 部屋を出る。


 廊下。


 差し込む光の中に、埃が舞っている。


 ゆっくりと。


 静かに、漂っている。


 しばらく、それを見ていた。


 何も考えずに。


 ただ、見ていた。


 ふと、思う。

 どうして、私なんだろう。


 同じ場所にいた。

 同じように戦っていた。


 なのに、

 私だけが、ここに立っている。


 ——間違っている気がした。


 …。


 私は、どこへ行けばいいのか。


 宿。


 帰れば、おばさんがいる。


 何を話すのか。


 分からない。


 何も話したくない。


 けれど。


「ただいま」と言えば。


「おかえり」と返ってくる。


 それだけが、確かにあった。


 一歩、踏み出す。


 廊下を歩く。


 視線は感じる。


 けれど、もう気にする余裕もなかった。


 扉を押す。


 外へ出る。


 光。


 まだ、昼だった。


 そんな時間だったのか、とぼんやり思う。


 石畳を踏む。


 コツ、コツ、と音がする。


 一人分の足音だけ。


 空は変わらない。


 雲が、ゆっくりと流れている。


 そのまま、宿へ向かった。


 扉の前で止まる。


 手をかける。


 少しだけ、間があく。


 そして、開けた。


 チリン、と鈴が鳴る。


 中に入る。


 おばさんが顔を上げた。


 一瞬だけ、表情が動く。


 けれど、何も言わない。


 私も、何も言えない。


「……ただいま」


 声は、かすれていた。


 おばさんは、すぐには動かなかった。


 私を見る。


 そのまま、数歩の距離を置いたまま。


 それから、おばさんは一歩、近づいてゆっくりと近づいてくる。


 触れられる直前。


 反射的に、一歩引いた。

 ——触られたくない。


 血で汚れている。

 自分が。


 でも。

 逃げきれなかった。


 抱き寄せられる。


 強く。


 抵抗しかけた力が、そこで抜けた。


 触れられて、


 初めて、自分が震えていることに気づいた。



 そして——


 何も言わずに、私の頭を抱えた。


 強く。


 けれど優しく。


 包み込むように。


 血に濡れたままの私を、気にすることもなく。


 引き寄せる。


 声は出なかった。


 言葉も出なかった。


 ただ。


 涙だけが、落ちた。


 止まらなかった。


 音もなく、ただ流れ続けた。


 おばさんは、何も言わなかった。


 ただ、そこにいた。


 それだけだった。


 それだけで——


 よかった。

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