知らない人たち
おじさんの方を振り返ることはなかった。
視線をまっすぐ掲示板へと向け、そのまま足を進める。背後に残る気配や、あの湿った笑い声を意識の外へ押し出すように。
掲示板の前には、いくつかの人影があった。
四人組のパーティーが、誰かに向かって声をかけている。
けれど、それは私ではない。
一度だけ視線を向けてから、すぐに掲示板へと戻す。
今は、自分のことだけを考えればいい。
Eランクの依頼を目で追う。
ベリーナッツの採取は見当たらない。ホーンラビットの素材集めもない。エルネが受けているからだろうか、とふと思う。
それなら、他の依頼を探せばいい。
薬草集め。無難だ。
依頼書に手を伸ばし、そのまま掴む。
そのまま、隣に並ぶDランクの依頼へと視線が滑った。
ゴブリン討伐。オーク討伐。護衛任務。
どれも、自分が受けられるはずのないもの。
ただ、眺めるだけのもの。
――そのはずだった。
「……討伐。誰か一緒にしませんか?」
隣から声がした。
「オーク討伐」
オーク。
その単語が、頭の中で強く響く。
Dランクの依頼。
そして、Dランクの冒険者が受けた依頼には、Eランクが同行できるという話を思い出す。
手に持っていた薬草の依頼書を、勢いよく掲示板へと戻した。
オークなら。
オークなら簡単だ。
私の魔法なら、一撃で瀕死にできる。
バルクとロニオと一緒に行ったあの時、私の魔法を直に受けたオークは一撃で吹き飛んで倒れた。
――できる。
思考が一気に前へ進む。
この人たちと一緒に討伐に行って、オークを倒す。それから途中で抜けて、エルネに合流すればいい。
報酬も、後から受け取ればいい。
問題はない。
そうだ、そうしよう。
うまくいくはずだ。
「私も、参加していいですか?」
気づけば声が出ていた。
四人の視線が一斉にこちらへ向く。
「あ、じゃあこれで五人だね」
杖を持った女性がそう言った。年は私より少し上だろうか。動きが軽く、どこか慣れている印象を受ける。
残りの三人は男で、全員が腰にロングソードを下げている。見るからに冒険者といった風貌だった。
「あなた、ランクは?」
「E、ランクです」
少しだけ言い淀んだが、嘘をつく理由はなかった。
「そっか。同じ魔法使いなら、Eランクでも大丈夫だよね」
女性は振り返り、後ろの三人に確認するように言う。
「俺は構わん」
一人が短く答え、他の二人は軽く手を上げて意思を示した。
「じゃあ決まり。リーダー、行こう。あ、自己紹介もしないとね」
慌ただしく話を進める彼女が、改めてこちらへ向き直る。
「私はセナ。後衛で魔法担当。よろしくね」
明るく名乗る。
続いて、男たちが順に口を開く。
「俺はラウド」
低い声の男。無駄のない動きが目につく。
「ケインだ。盾役をやってる」
がっしりとした体格の男が短く言う。
「ディル。まあ、斥候みたいなもんだ」
少し軽い口調の男が肩をすくめた。
それぞれの顔と名前が、ゆっくりと結びついていく。
「私は、リュシア……」
そう名乗りかけた瞬間。
「ああ、知ってる。登録試験のとき、ド派手にやったやつだろ?」
ラウドが言った。
「ね、私も見てた」
セナも頷く。
その言葉に、思考が一瞬止まる。
……あ。
そうだ。
あの日、私は試験で…。
目立たないはずがない。
つまり――
ここにいる人たちは、私を知っている。
でも、私は知らない。
誰も知らない。
この人たちのことも、この場所のことも。
知らないのは、私だけ。
胸の奥に、言葉にできない感覚が広がる。
誇らしいはずなのに、そうは思えなかった。
むしろ、どこか後ろめたい。
「Eランクです」と言った自分の言葉が、急に重く感じられる。
杖を胸元へ引き寄せた。
「リーダー、それじゃあ受付に行こう」
「ああ」
ラウドが受付へ向かう。
その隣りにいたケインがちらっとこちらの様子を見る。
その背中をぼんやりと見つめていると、隣から声がかかった。
「実は私たち、この間Dランクに上がったばかりなの」
セナが少しだけ声を落として言う。
「オーク討伐は初めてだからね。安全のために人数を揃えたの。最低五人って決めてたんだ」
なるほど、と頷く。
「五人いれば報酬は分割になるけど、その代わり安全。報酬は金貨五枚だから、一人金貨一枚。いいと思わない?」
彼女は微笑む。
「金貨……一枚」
思わず口に出た。
金貨一枚。
その重みを、私は知っている。
もし一人で受けて、倒し続ければ――
すぐに、金貨は集まる。
杖を、買い戻せる。
その考えが、頭の中に強く浮かぶ。
「私、オークを倒したことあります」
気づけば口が動いていた。
「私、強いですから。役に立ちます」
勢いのまま言い切る。
セナが一歩だけ後ろに下がった。
「わ、わお……あー、じゃあ、期待してるね?でも、討伐数は三体だから、張り切りすぎてバテないようにね」
少し苦笑しながらそう言う。
そこへ、ラウドが戻ってきた。
「依頼、受けてきた。行くぞ」
短い一言で、場の空気が動く。
他の三人はすぐに準備に入る。
私も少し遅れて、その流れに乗った。
「準備は大丈夫?忘れ物ない?」
セナが振り返る。
「大丈夫です」
杖はある。
ナイフもある。
ポーションも、ポーチの中に入っている。
問題はない。
ギルドの扉を押し開ける。
外の光が、まっすぐ差し込んできた。
その光の中へ、一歩踏み出す。




