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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
22話
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静かな朝

 




 静かな朝だった。


 差し込む光はやわらかく、窓辺の空気をゆっくりと温めている。


目を覚ましたとき、あの騒がしい叩音はなかった。

早朝に扉を叩く、遠慮も加減もないあの音が――今日はない。


 エルネがいない。


 ただそれだけのことが、こんなにも穏やかさを連れてくるものなのかと、少しだけ不思議に思う。


 けれど、それは同時に、胸のどこかが軽く空いたような感覚でもあった。


 私は起き上がり、いつも通りに身支度を整える。鏡を見るでもなく、手慣れた動作で装備を確認する。腰に視線を落とせば、ナイフ、ポーチ、ランタン――どれもきちんとそこにある。


 欠けているものはない。


 ……そう思ってから、ほんの一瞬だけ、何かが引っかかった気がした。


 その正体に触れる前に私は杖を手に取る。片手で掴むと、木の感触が掌に馴染んだ。


 乾いた表面と長く使われたことで生まれた微かな滑らかさ。


 ふと、サイドテーブルの引き出しに目が向く。


 開けると、そこにはミアレからもらった木箱の貯金箱がある。


 指で掴むように持ち上げ、軽く揺らす。

 中で硬貨が擦れ合い、乾いた音を立てた。


 ……軽い。


 木箱の上面には、硬貨を落とすための細い口がある。そこに最後に金貨を通した日のことを、ぼんやりと思い出す。


 あの日から、金貨は一枚も増えていない。


 依頼の報酬は銅貨と銀貨ばかりだ。Dランクになれば、金貨も手に入る。そのはず。


 それまでは、辛抱。

 そう思えば、まだやっていける。そう思うしかない。


 木箱を元に戻し、引き出しを閉じた。


 一歩踏み出すと床が小さく軋む。

 その音が、やけに静かな部屋に響いた。




 宿のカウンターに向かうと、おばさんがいつものようにそこにいた。軽く挨拶を交わし、用意してくれた朝食を受け取る。


 黒パン。


 もう、すっかり食べ慣れてしまった。


 最初は固くて味気ないと思っていたそれも、今ではどう食べるかを考えるのが当たり前になっている。焼き卵とバーコンを挟んでみたり、スープに浸して崩してみたり。


 今日は、少し多めにスープに沈めてみた。


 ぐずぐずに溶けた黒パンは、最初の形をほとんど残していない。


 それでも、こうして食べると不思議と悪くない。


 おばさんは何も言わない。


 食べ方に口出しをすることもないし、特別な反応もない。


 誰も何も言わない。


 だからこそ、私は一人で工夫する。


 ――きっと、兄さまも。


 そんなふうに思うと、少しだけ気持ちが軽くなる。


 ふふ、と、声にならない笑いが胸の奥で揺れた。




 食べ終え、宿を出る。


「行ってきます」


「気をつけて行ってらっしゃい」


 いつもと同じやりとり。


 変わらない、朝の始まり。


 それが、妙に安心できる。




 石畳を踏む。


 コツ、コツ、と一人分の足音が規則的に反響する。


 裏通りは人通りが少ない。建物の隙間から差し込む朝の光が、細く道を切り取っている。


 人はいるはずなのに、気配が遠い。


 音も、視線も、どこか薄い。


 この街にも、少しずつ慣れてきた。


 最初はただ異質だったものが、今では居場所の一つのように感じられる瞬間もある。


 それでも――


 この街にいる人たちのこと、ここで生きている理由、その裏側。


 考え始めれば、いくらでも疑問は出てくる。


 私はそれらを、一度だけ頭の片隅に押しやる。


 深く息を吸って、吐く。

 それだけで、少しだけ楽になる。




 足取りが自然と速くなる。


 やがて駆け足に変わる。


 ギルドへ向かう道は、迷わない。


 エルネはもう、依頼を受けて出ているかもしれない。


 そう思うと、じっとしている理由はどこにもない。


 私には私のやることがある。


 軽く済ませられる依頼を受けて、終わらせる目処を立ててから合流する。


 それが一番効率がいい。


 それが、一番無駄がない。


 ……そう、考えた。




 ギルドの扉の前に立つ。


 一瞬だけ、呼吸を整える。


 そして――


 躊躇いなく、手で押しのけた。


 思ったより強く押してしまい、扉が大きな音を立てて開いた。

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