静かな朝
静かな朝だった。
差し込む光はやわらかく、窓辺の空気をゆっくりと温めている。
目を覚ましたとき、あの騒がしい叩音はなかった。
早朝に扉を叩く、遠慮も加減もないあの音が――今日はない。
エルネがいない。
ただそれだけのことが、こんなにも穏やかさを連れてくるものなのかと、少しだけ不思議に思う。
けれど、それは同時に、胸のどこかが軽く空いたような感覚でもあった。
私は起き上がり、いつも通りに身支度を整える。鏡を見るでもなく、手慣れた動作で装備を確認する。腰に視線を落とせば、ナイフ、ポーチ、ランタン――どれもきちんとそこにある。
欠けているものはない。
……そう思ってから、ほんの一瞬だけ、何かが引っかかった気がした。
その正体に触れる前に私は杖を手に取る。片手で掴むと、木の感触が掌に馴染んだ。
乾いた表面と長く使われたことで生まれた微かな滑らかさ。
ふと、サイドテーブルの引き出しに目が向く。
開けると、そこにはミアレからもらった木箱の貯金箱がある。
指で掴むように持ち上げ、軽く揺らす。
中で硬貨が擦れ合い、乾いた音を立てた。
……軽い。
木箱の上面には、硬貨を落とすための細い口がある。そこに最後に金貨を通した日のことを、ぼんやりと思い出す。
あの日から、金貨は一枚も増えていない。
依頼の報酬は銅貨と銀貨ばかりだ。Dランクになれば、金貨も手に入る。そのはず。
それまでは、辛抱。
そう思えば、まだやっていける。そう思うしかない。
木箱を元に戻し、引き出しを閉じた。
一歩踏み出すと床が小さく軋む。
その音が、やけに静かな部屋に響いた。
宿のカウンターに向かうと、おばさんがいつものようにそこにいた。軽く挨拶を交わし、用意してくれた朝食を受け取る。
黒パン。
もう、すっかり食べ慣れてしまった。
最初は固くて味気ないと思っていたそれも、今ではどう食べるかを考えるのが当たり前になっている。焼き卵とバーコンを挟んでみたり、スープに浸して崩してみたり。
今日は、少し多めにスープに沈めてみた。
ぐずぐずに溶けた黒パンは、最初の形をほとんど残していない。
それでも、こうして食べると不思議と悪くない。
おばさんは何も言わない。
食べ方に口出しをすることもないし、特別な反応もない。
誰も何も言わない。
だからこそ、私は一人で工夫する。
――きっと、兄さまも。
そんなふうに思うと、少しだけ気持ちが軽くなる。
ふふ、と、声にならない笑いが胸の奥で揺れた。
食べ終え、宿を出る。
「行ってきます」
「気をつけて行ってらっしゃい」
いつもと同じやりとり。
変わらない、朝の始まり。
それが、妙に安心できる。
石畳を踏む。
コツ、コツ、と一人分の足音が規則的に反響する。
裏通りは人通りが少ない。建物の隙間から差し込む朝の光が、細く道を切り取っている。
人はいるはずなのに、気配が遠い。
音も、視線も、どこか薄い。
この街にも、少しずつ慣れてきた。
最初はただ異質だったものが、今では居場所の一つのように感じられる瞬間もある。
それでも――
この街にいる人たちのこと、ここで生きている理由、その裏側。
考え始めれば、いくらでも疑問は出てくる。
私はそれらを、一度だけ頭の片隅に押しやる。
深く息を吸って、吐く。
それだけで、少しだけ楽になる。
足取りが自然と速くなる。
やがて駆け足に変わる。
ギルドへ向かう道は、迷わない。
エルネはもう、依頼を受けて出ているかもしれない。
そう思うと、じっとしている理由はどこにもない。
私には私のやることがある。
軽く済ませられる依頼を受けて、終わらせる目処を立ててから合流する。
それが一番効率がいい。
それが、一番無駄がない。
……そう、考えた。
ギルドの扉の前に立つ。
一瞬だけ、呼吸を整える。
そして――
躊躇いなく、手で押しのけた。
思ったより強く押してしまい、扉が大きな音を立てて開いた。




