表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
21話
111/145

洗われないもの


 


その後、宿のおばさんが裏手から戻ってきた。

桶とタオルを手にしている。



店内で、そのおじさんがいつものように酒をねだっていた。

声を張り上げて、おばさんとやり合っている。


怒鳴り合いに近い。

けれど、どこか違う。


互いに距離は詰めないし、手も出ない。

決して越えない線が、最初から引かれているみたいだった。


ひとしきり言い終えると、おばさんはため息をついた。

そして酒瓶を一本、ドン、とテーブルに置く。


その瞬間だった。


さっきまであれだけ食い下がっていたおじさんが、急に姿勢を低くする。

申し訳なさそうに、言葉まで柔らかくなる。


見ていると、妙な光景だった。


喧嘩のようで、喧嘩ではない。

関係のようで、関係とも言い切れない。


……不思議だ。


 


おばさんは私に視線を向けた。


「聞きそびれたけれど、いつも着ている服はどうしたんだい」


そう言って、私の今の服装を上から下まで見下ろす。



私は片手に持っていた紙袋を少し持ち上げて見せた。


トカゲに引きずり込まれて、びしょ濡れになったなんて——そんなこと、言えるはずがない。


「湿地のぬかるみに足を取られて、転びました」


誤魔化すように、そう答えた。


ほんのわずか、間があった。


おばさんの口元が、ほんの少しだけ動いた気がした。

けれどそれ以上は何も言わず、すぐに口を開く。


「一緒に洗ってあげようか?」


私は少しだけ迷って、うなずいた。

そのまま袋を差し出す。


「お願いします」


 


自室へ戻る前、ふと振り返る。


おじさんは、もう騒いでいなかった。

酒をちびちびと舐めるように飲んでいる。


その背中は、さっきまでの勢いが嘘みたいに静かだった。


時折、手が止まっては視線がずっと下に向いていたままだった。




部屋に戻る。


水の入った桶を床に置いて、その前に座り込む。


上着を脱いで、濡れたタオルで髪を撫でる。

絡まった毛先を、ゆっくりと梳かすように。


タオルには、細かな砂や土がわずかに残った。


 


……昔は、もっと長かった。


 


小さな頃、私は髪を伸ばしていた。

姉さまの後ろ姿が綺麗で、ただそれを真似しただけだった。


長く伸びた髪を揺らして歩く姿。

それだけで、どこか特別に見えた。


周りの人も、よく褒めてくれた。

可愛いとか、お姫様みたいだとか。


髪を洗うときも、整えるときも、

いつも誰かが手伝ってくれた。


 


けれど——


胸のあたりまで伸びた頃、気づいた。


自分一人では、どうにもならないことに。


絡まる。引っかかる。汚れる。

思ったよりもずっと、面倒で、不自由だった。


 


姉さまが家を出て、しばらくして戻ってきたとき。


その髪は、ばっさりと切られていた。


肩ほどの長さ。


あのときの光景を、今でも覚えている。


 


それから私も、髪を短くした。


 


「切ったんだ」


姉さまはそう言って、私の頭を撫でた。

落ち着いた声だった。


けれど——


ほんの少しだけ、含みのあるように聞こえた気がする。


……気のせいかもしれない。

昔の記憶は、どうしても曖昧になる。


 


タオルで体を拭く。


腕、横腹、そして下へ。


汚れを落とすように、なぞる。


 


それでも、泥の匂いは消えない。


鼻の奥に残っているのか、

それとも、まだ体に残っているのか。


もう、よく分からない。


 


こんなことならば、石鹸も買っておけばよかった。


そう思った。


けれど——


あれもこれも頼るのは、なんとなく気が引けた。


 


拭き終えて、桶を持って部屋を出る。


カウンターの上にそれを置いた。


「あの、おばさん、これ……」


声をかけると、裏手から顔を出した。


「ああ、ちょっと待っててね」


 


おばさんは、今度は両手にレザーの胸当てを持って戻ってきた。


それを私に差し出す。


「これは返しとくよ。洗って拭いただけだけどね。明日も出るんだろ?」


私はそれを受け取る。


「はい。明日も出ます。エルネさんとホーンラビット狩りです」


「ほーん。頑張ってきなよ。困ったら言いな。話し相手くらいにはなれるからね」


 


少しだけ、頬が緩んだ。


 


おばさんは桶を持って、また裏手へ戻っていく。


 


窓の外は、赤く染まり始めていた。


エルネは、明日も一人で早く出るつもりだろう。


私は後から向かって、様子を見て、状況を見て——

そして、何か言う。


 


……本当に、先輩みたいだ。


 


ふ、と笑みがこぼれた。


心の中で、小さく笑う。


少しだけ、足元が浮ついている気がした。


 


そのまま部屋へ戻る。


扉を押すと、ギィと軋んだ音が鳴る。


中に入り、振り返って閉める。


 


バタン、と。


 


音だけが、やけに大きく響いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ