踏み込む一歩
気がつけば、先ほど立ち寄った雑貨店の前まで戻ってきていた。
広場の喧騒はもう遠く、耳に刺さるような怒声や騒ぎは届かない。それでも人の流れだけは絶えず、どこか落ち着かない気配が街の空気に残っている。
何事もなかったかのように、人は動いている。
その中で、エルネはすでにいつもの調子に戻っていた。
ポーションのことは、もう諦めたのだろう。さっきまでの出来事を引きずる様子もなく、表情は軽く、足取りも普段と変わらない。
(……切り替えが早いな)
前から思っていたことが、ふと浮かぶ。
あれだけの騒ぎがあったというのに、まるで最初からなかったかのように振る舞えるのは、ある意味で強さなのかもしれない。
それとも――考えないようにしているだけなのか。
「先輩」
不意に呼ばれ、顔を上げる。
エルネの視線が、まっすぐこちらを見ていた。瞳の奥に迷いはなく、どこか決意のようなものが宿っている。
「私、今日は宿に帰らないで、おばあちゃんのところに行きます。宿のおばさんに、よろしく伝えておいてください」
「わかりました。伝えておきます」
頷くと、エルネはほっとしたように笑った。
そして、思い出したように言葉を続ける。
「あ! それと私、その……先輩みたいに兎さんをちゃんと捌けるようになりたくて。だから明日、早朝にホーンラビットの依頼を受けようと思うんです」
少し照れたように笑いながら、それでもどこか誇らしげに続ける。
「先輩が教えてくれたこと、ちゃんと全部やってみます。そしたら、先輩みたいな冒険者になれますよね!」
その言葉はまっすぐで、疑いがない。
ほんの少しだけ、胸の奥が温かくなる。
「先輩も来てくださいよ! 余分に捕まえたら丸焼きにしましょう! 来なかったら……一人で全部食べちゃいますからね!」
くすくすと笑いながら、明日のことを楽しそうに話す。
悪くない、と思う。
ミアレもいれば、きっともっと賑やかになるだろう。三人で火を囲んでいる光景が、自然と頭に浮かんだ。
(……いいな)
心の中で、小さく笑う。
「はい。それでは……お昼くらいに、焚き火をした場所に集まりましょうか」
「うん、それでいいよ! 約束!」
エルネは私を指差して、にっと笑った。
そのままくるりと踵を返し、通りを駆けていく。
軽やかな足音が遠ざかっていくのを見送りながら、私はしばらくその場に立っていた。
やがて、ひとりになったことを実感し、宿へと足を向ける。
---
見慣れた扉の前に立つ。
古びた木製の扉は、年季こそ感じるものの、丁寧に手入れされているのが分かる。軽く押すと、抵抗なく滑らかに開いた。
キィ、と小さな音。
中に入ると、いつもの光景が広がっていた。
カウンターの向こうにいるおばさんと目が合う。
「ただいま」
自然と口をついて出る。
「おかえり」
変わらない声が返ってくる。
それはもう、すっかり習慣になっていた。
「おや? エルネちゃんは一緒じゃないのかい?」
「エルネさんは、一度家に戻るみたいです」
「そうかい……もしかして、このまま泊まらなくなるのかねぇ?」
少し心配そうな声色。
「いえ、今日だけだと思います」
確信はない。けれど、そう答えた。
人にはそれぞれ事情がある。
ミアレもそうだったし、エルネもきっと同じだろう。
深く踏み込むものではない。
「そうかい。まぁ、また顔を出してくれるといいねぇ」
おばさんはそう言って、小さく頷いた。
「あの、布と水桶を貸してもらえますか? 体を拭きたいので」
「ああ、いいよ。ちょっと待ってな」
おばさんは裏手へと引っ込んでいく。
その背を見送って、ふと視線をテーブル席へ向けた。
――いる。
例の酒飲みの男。
テーブルに突っ伏したまま、動かない。
眠っているのか、それともただ酔い潰れているのか。
分からない。
(……この人)
調合師、と名乗っていた。
以前、私が初めてポーションを買おうとしたとき、おばさんの言葉に対して、あの人は強く言い返した。
「信用を売っている」と。
あの言葉が、ふと頭をよぎる。
聞いてみたい。
何を、とはうまく言えない。
でも――
(……この人は、何を見てきたんだろう)
さっきの出来事と、無関係とは思えなかった。
気づけば、足がテーブルの方へ向いていた。
行くつもりだったのかは、自分でもよくわからない。
けれど、いざ近づくと、言葉が浮かばない。
何を聞くべきかも、分からない。
それでも。
立ち止まったままでは、何も変わらない気がした。
私は一歩、近づく。
近づくにつれて、わずかに足が重くなる。
そして、そっと声をかけた。
「おじさん。ポーションのおじさん?」
返事はない。
手を伸ばす。
ほんの少し迷ってから背中に手を置き、軽く揺する。
わずかに、体温が伝わってきたのを感じた。
触れた瞬間、ほんのわずかに後悔した。
けれど、もう手は離せなかった。




