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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
21話
109/143

踏み込む一歩

 


 気がつけば、先ほど立ち寄った雑貨店の前まで戻ってきていた。


 広場の喧騒はもう遠く、耳に刺さるような怒声や騒ぎは届かない。それでも人の流れだけは絶えず、どこか落ち着かない気配が街の空気に残っている。


 何事もなかったかのように、人は動いている。


 その中で、エルネはすでにいつもの調子に戻っていた。


 ポーションのことは、もう諦めたのだろう。さっきまでの出来事を引きずる様子もなく、表情は軽く、足取りも普段と変わらない。


(……切り替えが早いな)


 前から思っていたことが、ふと浮かぶ。


 あれだけの騒ぎがあったというのに、まるで最初からなかったかのように振る舞えるのは、ある意味で強さなのかもしれない。


 それとも――考えないようにしているだけなのか。


「先輩」


 不意に呼ばれ、顔を上げる。


 エルネの視線が、まっすぐこちらを見ていた。瞳の奥に迷いはなく、どこか決意のようなものが宿っている。


「私、今日は宿に帰らないで、おばあちゃんのところに行きます。宿のおばさんに、よろしく伝えておいてください」


「わかりました。伝えておきます」


 頷くと、エルネはほっとしたように笑った。


 そして、思い出したように言葉を続ける。


「あ! それと私、その……先輩みたいに兎さんをちゃんと捌けるようになりたくて。だから明日、早朝にホーンラビットの依頼を受けようと思うんです」


 少し照れたように笑いながら、それでもどこか誇らしげに続ける。


「先輩が教えてくれたこと、ちゃんと全部やってみます。そしたら、先輩みたいな冒険者になれますよね!」


 その言葉はまっすぐで、疑いがない。


 ほんの少しだけ、胸の奥が温かくなる。


「先輩も来てくださいよ! 余分に捕まえたら丸焼きにしましょう! 来なかったら……一人で全部食べちゃいますからね!」


 くすくすと笑いながら、明日のことを楽しそうに話す。


 悪くない、と思う。


 ミアレもいれば、きっともっと賑やかになるだろう。三人で火を囲んでいる光景が、自然と頭に浮かんだ。


(……いいな)


 心の中で、小さく笑う。


「はい。それでは……お昼くらいに、焚き火をした場所に集まりましょうか」


「うん、それでいいよ! 約束!」


 エルネは私を指差して、にっと笑った。


 そのままくるりと踵を返し、通りを駆けていく。


 軽やかな足音が遠ざかっていくのを見送りながら、私はしばらくその場に立っていた。


 やがて、ひとりになったことを実感し、宿へと足を向ける。



 ---


 見慣れた扉の前に立つ。


 古びた木製の扉は、年季こそ感じるものの、丁寧に手入れされているのが分かる。軽く押すと、抵抗なく滑らかに開いた。


 キィ、と小さな音。


 中に入ると、いつもの光景が広がっていた。


 カウンターの向こうにいるおばさんと目が合う。


「ただいま」


 自然と口をついて出る。


「おかえり」


 変わらない声が返ってくる。


 それはもう、すっかり習慣になっていた。


「おや? エルネちゃんは一緒じゃないのかい?」


「エルネさんは、一度家に戻るみたいです」


「そうかい……もしかして、このまま泊まらなくなるのかねぇ?」


 少し心配そうな声色。


「いえ、今日だけだと思います」


 確信はない。けれど、そう答えた。


 人にはそれぞれ事情がある。


 ミアレもそうだったし、エルネもきっと同じだろう。


 深く踏み込むものではない。


「そうかい。まぁ、また顔を出してくれるといいねぇ」


 おばさんはそう言って、小さく頷いた。


「あの、布と水桶を貸してもらえますか? 体を拭きたいので」


「ああ、いいよ。ちょっと待ってな」


 おばさんは裏手へと引っ込んでいく。


 その背を見送って、ふと視線をテーブル席へ向けた。


 ――いる。


 例の酒飲みの男。


 テーブルに突っ伏したまま、動かない。


 眠っているのか、それともただ酔い潰れているのか。


 分からない。


(……この人)


 調合師、と名乗っていた。


 以前、私が初めてポーションを買おうとしたとき、おばさんの言葉に対して、あの人は強く言い返した。


「信用を売っている」と。


 あの言葉が、ふと頭をよぎる。


 聞いてみたい。


 何を、とはうまく言えない。


 でも――


(……この人は、何を見てきたんだろう)


 さっきの出来事と、無関係とは思えなかった。


 気づけば、足がテーブルの方へ向いていた。

 行くつもりだったのかは、自分でもよくわからない。


 けれど、いざ近づくと、言葉が浮かばない。


 何を聞くべきかも、分からない。


 それでも。

 立ち止まったままでは、何も変わらない気がした。


 私は一歩、近づく。

 近づくにつれて、わずかに足が重くなる。



 そして、そっと声をかけた。


「おじさん。ポーションのおじさん?」


 返事はない。

 手を伸ばす。

 ほんの少し迷ってから背中に手を置き、軽く揺する。


 わずかに、体温が伝わってきたのを感じた。


 触れた瞬間、ほんのわずかに後悔した。

 けれど、もう手は離せなかった。

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