表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
20話
108/142

正しさの輪郭

 


 癒し手の少女は、誰に語りかけるでもなく、ただ静かに言葉を紡いでいた。


 助けられる命を見逃したくない。

 帰ってきてほしい。

 どうか、生きてほしい。


 その声は強くはない。けれど、真っ直ぐで、迷いがなかった。


 広場に集まった人々もまた、その言葉を受け止めるように静まり返っていた。ざわめきは消え、空気は張り詰め、まるで世界がその一言一言に耳を傾けているかのようだった。


 ――そのときだった。


 静寂を切り裂くように、低い声が響いた。


「綺麗事だな」


 それは鋭く、短く、けれど深く突き刺さる声だった。


 私の視界には、その声の主は映っていない。けれど分かる。どこか暗がりから放たれたその声は、まるで針のように、あの少女の言葉を貫いていた。


 一瞬で、空気が変わった。


 先ほどまでの静けさが嘘のように、ざわめきが広がる。


 怒号、罵声、そして――鈍い音。


 何かが起きている。けれど、それは単純な善悪で片付けられるものではないと、直感的に理解していた。


 私は、頭の中で必死に状況を整理する。


 癒し手は、人を救うためにポーションを作る。

 調合師は、生きていくためにポーションを作る。


 同じ“ポーション”のはずなのに、その意味はまるで違う。


 価格も違う。

 癒し手のものは安く、多くの人に届く。

 調合師のものは高く、それでも彼らの生活を支えるために必要な対価だ。


 だからこそ――衝突する。


 どちらかが正しければ、どちらかが間違っている、そんな単純な話ではない。


 むしろ逆だ。


 どちらも正しいからこそ、ぶつかるのだ。


 視線を巡らせる。


 人々は、怒りの矛先を一人の男へと向けていた。調合師だと名乗ったその男に、言葉と拳が浴びせられている。


 不思議なことに、全体で見れば、その男の方が“悪く”見える。


 だから、殴られる。

 だから、責められる。


 けれど――


(……本当に?)


 胸の奥に、引っかかるものがあった。


 魔物なら、簡単だ。

 倒せばいい。そこに迷いはない。


 人に害をなす存在であれば、それだけで理由になる。


 でも、これは違う。


 これは、そんな単純な話じゃない。


 私は考え込んでいた。


 そのとき、不意に腕を引かれる。


「行きますよ」


 エルネの声だった。


 気づけば私は、群衆の縁に立っていた。少しでも遅れれば、あの暴力の渦に飲み込まれていたかもしれない。


 引かれるままに、その場を離れる。


 けれど、視線だけは後ろに残したままだった。


 癒し手の少女は、警護の人間に支えられながら退場していく。

 その背後で、なおも荒れ狂う群衆。


 その光景を最後に、私は前を向いた。


 理解できない。


 どうすればいいのかも、分からない。


 胸の中にあるのは、言葉にならない感情だった。


 裏通りを走る。


 人の流れに逆らうように、騒ぎから遠ざかっていく。


 今でも、男が殴られている光景。

 鈍い音が頭に残る。


 あの場にいながら、何もできなかったこと。


「迷惑ですよね、本当に」


 息を切らしながら、エルネが言った。


 その言葉は、どこか軽く、しかし確信に満ちていた。


 私は何も答えなかった。



「あんなことされたら、せっかくのイベントも台無しですし……ポーションも配ってくれなくなるかもしれません? 顔を見に来る人だって減っちゃう」


 エルネは困ったように、しかし少し苛立ったように眉をひそめる。


 その視点は、分かる。


 銀貨二枚。


 それだけで救われる命がある。


 安いからこそ、多くの人が手に取れる。

 それがどれだけ大きな意味を持つかも、理解できる。


 でも――


(それだけでいいの?)


 ふと、そんな考えが浮かぶ。


「エルネさん」


 私は口を開いた。


「もし、癒し手さんのポーションがなくて、調合師さんのものしかなかったら……買いますか?」


 エルネは少しだけ考え、すぐに首を横に振った。


「買わないです。その分、生活費に回します」


 即答だった。


 迷いは、ほとんどない。


「……緊急のときでも?」


「そんなこと、ないです」


 少しだけ視線を逸らしながら、エルネは続ける。


「もしそんな状況になったら……多分、もう手遅れかもしれませんし」


 言いにくそうに、そう付け加えた。


「そう、ですか……」


 思わず声が漏れる。


 責めるつもりはない。


 どちらが正しいとも、まだ言えない。


 同じ銀貨二枚なのに、

 誰かにとっては軽く、誰かにとっては重すぎる。


 ただ一つ、確かに感じたことがある。


「悪い人がいないのに、誰かが困ってる……」


 その言葉に、エルネはきっぱりと言い返した。


「悪いのは調合師の人ですよ。人の善意を、あんなふうに台無しにするなんて」


 ああ――


 そうか。


 エルネにとっては、もう答えは出ている。


 彼女はまだ知らない。


 あの裏側も、あの男の言葉も、そこにある現実も。


 私だって、理解しきれていない。


 それでも――


(簡単に決めていいことじゃない)


 そう思った。


 だから私は、曖昧に頷くだけにした。


 何も断言せず、何も否定せず。


 どちらも正しいように見えて、どちらもどこかで間違っている気がした。

 だから、何も言えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ