正しさの輪郭
癒し手の少女は、誰に語りかけるでもなく、ただ静かに言葉を紡いでいた。
助けられる命を見逃したくない。
帰ってきてほしい。
どうか、生きてほしい。
その声は強くはない。けれど、真っ直ぐで、迷いがなかった。
広場に集まった人々もまた、その言葉を受け止めるように静まり返っていた。ざわめきは消え、空気は張り詰め、まるで世界がその一言一言に耳を傾けているかのようだった。
――そのときだった。
静寂を切り裂くように、低い声が響いた。
「綺麗事だな」
それは鋭く、短く、けれど深く突き刺さる声だった。
私の視界には、その声の主は映っていない。けれど分かる。どこか暗がりから放たれたその声は、まるで針のように、あの少女の言葉を貫いていた。
一瞬で、空気が変わった。
先ほどまでの静けさが嘘のように、ざわめきが広がる。
怒号、罵声、そして――鈍い音。
何かが起きている。けれど、それは単純な善悪で片付けられるものではないと、直感的に理解していた。
私は、頭の中で必死に状況を整理する。
癒し手は、人を救うためにポーションを作る。
調合師は、生きていくためにポーションを作る。
同じ“ポーション”のはずなのに、その意味はまるで違う。
価格も違う。
癒し手のものは安く、多くの人に届く。
調合師のものは高く、それでも彼らの生活を支えるために必要な対価だ。
だからこそ――衝突する。
どちらかが正しければ、どちらかが間違っている、そんな単純な話ではない。
むしろ逆だ。
どちらも正しいからこそ、ぶつかるのだ。
視線を巡らせる。
人々は、怒りの矛先を一人の男へと向けていた。調合師だと名乗ったその男に、言葉と拳が浴びせられている。
不思議なことに、全体で見れば、その男の方が“悪く”見える。
だから、殴られる。
だから、責められる。
けれど――
(……本当に?)
胸の奥に、引っかかるものがあった。
魔物なら、簡単だ。
倒せばいい。そこに迷いはない。
人に害をなす存在であれば、それだけで理由になる。
でも、これは違う。
これは、そんな単純な話じゃない。
私は考え込んでいた。
そのとき、不意に腕を引かれる。
「行きますよ」
エルネの声だった。
気づけば私は、群衆の縁に立っていた。少しでも遅れれば、あの暴力の渦に飲み込まれていたかもしれない。
引かれるままに、その場を離れる。
けれど、視線だけは後ろに残したままだった。
癒し手の少女は、警護の人間に支えられながら退場していく。
その背後で、なおも荒れ狂う群衆。
その光景を最後に、私は前を向いた。
理解できない。
どうすればいいのかも、分からない。
胸の中にあるのは、言葉にならない感情だった。
裏通りを走る。
人の流れに逆らうように、騒ぎから遠ざかっていく。
今でも、男が殴られている光景。
鈍い音が頭に残る。
あの場にいながら、何もできなかったこと。
「迷惑ですよね、本当に」
息を切らしながら、エルネが言った。
その言葉は、どこか軽く、しかし確信に満ちていた。
私は何も答えなかった。
「あんなことされたら、せっかくのイベントも台無しですし……ポーションも配ってくれなくなるかもしれません? 顔を見に来る人だって減っちゃう」
エルネは困ったように、しかし少し苛立ったように眉をひそめる。
その視点は、分かる。
銀貨二枚。
それだけで救われる命がある。
安いからこそ、多くの人が手に取れる。
それがどれだけ大きな意味を持つかも、理解できる。
でも――
(それだけでいいの?)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
「エルネさん」
私は口を開いた。
「もし、癒し手さんのポーションがなくて、調合師さんのものしかなかったら……買いますか?」
エルネは少しだけ考え、すぐに首を横に振った。
「買わないです。その分、生活費に回します」
即答だった。
迷いは、ほとんどない。
「……緊急のときでも?」
「そんなこと、ないです」
少しだけ視線を逸らしながら、エルネは続ける。
「もしそんな状況になったら……多分、もう手遅れかもしれませんし」
言いにくそうに、そう付け加えた。
「そう、ですか……」
思わず声が漏れる。
責めるつもりはない。
どちらが正しいとも、まだ言えない。
同じ銀貨二枚なのに、
誰かにとっては軽く、誰かにとっては重すぎる。
ただ一つ、確かに感じたことがある。
「悪い人がいないのに、誰かが困ってる……」
その言葉に、エルネはきっぱりと言い返した。
「悪いのは調合師の人ですよ。人の善意を、あんなふうに台無しにするなんて」
ああ――
そうか。
エルネにとっては、もう答えは出ている。
彼女はまだ知らない。
あの裏側も、あの男の言葉も、そこにある現実も。
私だって、理解しきれていない。
それでも――
(簡単に決めていいことじゃない)
そう思った。
だから私は、曖昧に頷くだけにした。
何も断言せず、何も否定せず。
どちらも正しいように見えて、どちらもどこかで間違っている気がした。
だから、何も言えなかった。




