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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
20話
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割れた理想



 声は、まだ震えていた。


 胸の奥に残る緊張は消えず、言葉の端にかすかに揺れが混じる。それでも、止まるわけにはいかなかった。ここで言葉を止めれば、それまで積み上げてきたものが崩れてしまう気がした。


 だから、続ける。


「だから……私は――」


 そのときだった。


 ――カン、と。


 乾いた音が、空気を裂いた。


 次の瞬間、何かが肩に当たる。


 軽い衝撃。

 ほんの一拍遅れて、じん、とした痛みが広がった。


「……っ」


 足元が揺れる。


 視界が傾き、身体のバランスが崩れる。


 台の上で踏みとどまることができず、そのまま尻もちをついた。


 硬い感触が背中に響く。


 ころり、と転がる音。


 視線の端で、それが見えた。


 ――空のガラス瓶。


 中身のない、乾いた音を立てて止まった。


 静寂。


 ほんの一瞬、何もかもが止まったような感覚。


 そして、遅れてざわめきが広がる。


「……誰?」


 痛む肩に手を当てながら、顔を上げる。


 投げられた方向へと視線を向ける。


 そこにいたのは――一人の男だった。


 煤と薬品の匂いをまとった、中年の男。


 汚れた身なりと粗末な外套に、荒れた手。

 その中で、目だけが異様にぎらついている。


「……は、綺麗事だなァ」


 低く、吐き捨てるような声。


 ざわめきが一瞬、引く。


「何が()()だ。何が()()()()だ」


 空気が、冷える。


 私は言葉を失ったまま、男を見つめる。


 男は一歩、踏み出した。


「知ってるか?」


 指がこちらへ向けられる。


 突き刺すような、鋭い動き。


「お前らのせいでなァ……食えなくなった奴がいるんだよ」


 ざわめきが強くなる。


 誰かが小さく「やめろ」と呟いた。


 けれど、止める者はいない。


「調合師だ」


 吐き捨てるように言う。


「薬を作って、生きてきた連中だ。怪我人に頭下げられて、金もらって、それで食ってた」


 一歩。


 また一歩。


 距離が詰まる。


「それがどうだ?」


 男は笑った。


 歪んだ、ひび割れたような笑み。


「安い、早い、効く――だと?」


 吐き出される言葉は、重く、鈍い。


「上から手ぇかざして全部終わりだ」


 肩が、びくりと震えた。


「薬なんか売れねぇ。依頼も来ねぇ。腕も知識も……全部、無価値だ」


 声が荒れていく。


 押し殺していた何かが、滲み出るように。


「借金抱えてなァ……首吊った奴もいる」


 広場の空気が、重く沈む。


「俺の弟だ」


「家族ごと消えた奴もいる」


 その言葉が、胸の奥に落ちる。


「……知ってたか?」


 静かな問い。


 逃げ場のない言葉。


 私は――答えられなかった。


 唇が、震える。


「……わ、私は……」


 声が出ない。


 男は鼻で笑う。


「知らねぇよなァ」


「考えもしねぇよなァ」


「だって()()()()してるんだもんなァ?」


 その言葉は、鋭く胸を刺した。


「誰かを救ってる」


「誰かに感謝されてる」


「気持ちいいよなァ?」


 否定しようとする。


「違……っ」


 けれど、言葉が続かない。


 頭の中に浮かぶ。


 ――助けた人たちの顔。

 ――ありがとう、と言われた声。


 その裏側。


 その向こう側。


 一度も、考えたことがなかった。


「……っ、わたし、は……」


 喉が詰まる。


「私は……ただ……」


 言えない。


 ()()()()()()()()


 その言葉が、喉の奥で止まる。


 男は吐き捨てた。


「何が癒し手だ」


 沈黙。


 広場に、重い空気が落ちる。


 視界が滲む。


 否定できない。


 自分のしてきたことが、誰かを追い詰めていたかもしれない。


 その可能性を――


 私は、一度も考えなかった。


 ぽろり、と涙が落ちる。


「……ごめ、なさ……」


 か細い声。


 誰に向けたものかも分からない。


 その瞬間――


「――おい、てめぇ!」


 怒号が、空気を裂いた。


「やりすぎだろ!」


「女の子に何してんだ!」


 一気に流れが変わる。

 群衆が動く。


 誰かが男の肩を掴む。

 別の誰かが拳を振り下ろす。


「ぐっ……!」


「やめろ! 離せ!」


 叫び声。

 だが止まらない。


 誰かが正義を掲げた瞬間、それは連鎖する。

 殴る側が興奮していてもう止まらない。


「暴れるな!」


「警備兵呼べ!」


 殴打の音が響く。


 罵声が飛ぶ。


 男は地面に押し倒される。

 踏まれる。

 蹴られる。


「……っ、は……」


 それでも、男は笑った。


 血の混じる口元で。


「ほらなァ……」


 誰にも届かない声。


「……お前らは……そうやって……」


 言葉は途中で途切れた。

 殴打にかき消される。


 私は、動けなかった。


 助けることも。

 止めることも。

 何もできずに。


 ただ、その光景を見ていた。


 目の前で起きていることを、理解できないまま。


 理解しようとして、できないまま。


 涙だけが、頬を伝って落ち続ける。


 音が遠くなる。


 止まらない。

 止められない。


 ――私は、何をしていたのだろう。

 ――私は、何を信じていたのだろう。


 その答えは見えなかった。

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