割れた理想
声は、まだ震えていた。
胸の奥に残る緊張は消えず、言葉の端にかすかに揺れが混じる。それでも、止まるわけにはいかなかった。ここで言葉を止めれば、それまで積み上げてきたものが崩れてしまう気がした。
だから、続ける。
「だから……私は――」
そのときだった。
――カン、と。
乾いた音が、空気を裂いた。
次の瞬間、何かが肩に当たる。
軽い衝撃。
ほんの一拍遅れて、じん、とした痛みが広がった。
「……っ」
足元が揺れる。
視界が傾き、身体のバランスが崩れる。
台の上で踏みとどまることができず、そのまま尻もちをついた。
硬い感触が背中に響く。
ころり、と転がる音。
視線の端で、それが見えた。
――空のガラス瓶。
中身のない、乾いた音を立てて止まった。
静寂。
ほんの一瞬、何もかもが止まったような感覚。
そして、遅れてざわめきが広がる。
「……誰?」
痛む肩に手を当てながら、顔を上げる。
投げられた方向へと視線を向ける。
そこにいたのは――一人の男だった。
煤と薬品の匂いをまとった、中年の男。
汚れた身なりと粗末な外套に、荒れた手。
その中で、目だけが異様にぎらついている。
「……は、綺麗事だなァ」
低く、吐き捨てるような声。
ざわめきが一瞬、引く。
「何が救うだ。何が死なないだ」
空気が、冷える。
私は言葉を失ったまま、男を見つめる。
男は一歩、踏み出した。
「知ってるか?」
指がこちらへ向けられる。
突き刺すような、鋭い動き。
「お前らのせいでなァ……食えなくなった奴がいるんだよ」
ざわめきが強くなる。
誰かが小さく「やめろ」と呟いた。
けれど、止める者はいない。
「調合師だ」
吐き捨てるように言う。
「薬を作って、生きてきた連中だ。怪我人に頭下げられて、金もらって、それで食ってた」
一歩。
また一歩。
距離が詰まる。
「それがどうだ?」
男は笑った。
歪んだ、ひび割れたような笑み。
「安い、早い、効く――だと?」
吐き出される言葉は、重く、鈍い。
「上から手ぇかざして全部終わりだ」
肩が、びくりと震えた。
「薬なんか売れねぇ。依頼も来ねぇ。腕も知識も……全部、無価値だ」
声が荒れていく。
押し殺していた何かが、滲み出るように。
「借金抱えてなァ……首吊った奴もいる」
広場の空気が、重く沈む。
「俺の弟だ」
「家族ごと消えた奴もいる」
その言葉が、胸の奥に落ちる。
「……知ってたか?」
静かな問い。
逃げ場のない言葉。
私は――答えられなかった。
唇が、震える。
「……わ、私は……」
声が出ない。
男は鼻で笑う。
「知らねぇよなァ」
「考えもしねぇよなァ」
「だって良いことしてるんだもんなァ?」
その言葉は、鋭く胸を刺した。
「誰かを救ってる」
「誰かに感謝されてる」
「気持ちいいよなァ?」
否定しようとする。
「違……っ」
けれど、言葉が続かない。
頭の中に浮かぶ。
――助けた人たちの顔。
――ありがとう、と言われた声。
その裏側。
その向こう側。
一度も、考えたことがなかった。
「……っ、わたし、は……」
喉が詰まる。
「私は……ただ……」
言えない。
救いたかっただけ。
その言葉が、喉の奥で止まる。
男は吐き捨てた。
「何が癒し手だ」
沈黙。
広場に、重い空気が落ちる。
視界が滲む。
否定できない。
自分のしてきたことが、誰かを追い詰めていたかもしれない。
その可能性を――
私は、一度も考えなかった。
ぽろり、と涙が落ちる。
「……ごめ、なさ……」
か細い声。
誰に向けたものかも分からない。
その瞬間――
「――おい、てめぇ!」
怒号が、空気を裂いた。
「やりすぎだろ!」
「女の子に何してんだ!」
一気に流れが変わる。
群衆が動く。
誰かが男の肩を掴む。
別の誰かが拳を振り下ろす。
「ぐっ……!」
「やめろ! 離せ!」
叫び声。
だが止まらない。
誰かが正義を掲げた瞬間、それは連鎖する。
殴る側が興奮していてもう止まらない。
「暴れるな!」
「警備兵呼べ!」
殴打の音が響く。
罵声が飛ぶ。
男は地面に押し倒される。
踏まれる。
蹴られる。
「……っ、は……」
それでも、男は笑った。
血の混じる口元で。
「ほらなァ……」
誰にも届かない声。
「……お前らは……そうやって……」
言葉は途中で途切れた。
殴打にかき消される。
私は、動けなかった。
助けることも。
止めることも。
何もできずに。
ただ、その光景を見ていた。
目の前で起きていることを、理解できないまま。
理解しようとして、できないまま。
涙だけが、頬を伝って落ち続ける。
音が遠くなる。
止まらない。
止められない。
――私は、何をしていたのだろう。
――私は、何を信じていたのだろう。
その答えは見えなかった。




