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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
20話
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与えられるものの重さ



 昼の街は、思っていたよりも騒がしかった。


 人の流れが絶えず続き、肩が触れそうな距離ですれ違う。朝や夜とは違う、途切れない動き。大通りに出れば、さらにその密度は増すのだろう。


 けれど私は、人混みの中を進むよりも、裏通りへと足を向けていた。


 日陰に入ると、濡れた服が急に冷たくなる。肌に張り付いた布が体温を奪い、じわりと不快感が広がった。


 それでも袖口は乾き始めている。乾ききらない中途半端な状態が、余計に気持ち悪い。


 ふと気づく。


 人混みをかき分けるより、こうして外れた道を歩くほうが、ずっと楽だということに。


 後になって分かることばかりだ。


 通りの端には、身なりの汚れた人たちが座り込んでいた。何もせず、ただこちらを見ている。観察するような視線。


 けれど、誰もそれを気にしない。

 私も同じように、何も感じないふりをして通り過ぎる。


 ――それが普通なのだと、街が教えてくる。


「先輩、こっちです!」


 エルネの声が前から飛んできた。


 小さな背中が、迷いなく一つの店へと駆け込んでいく。


 雑貨店。


 古びた木の扉。色はくすみ、角は削れている。

 エルネは迷いなく中へ入り、扉の鈴が軽く鳴った。


 私は一歩遅れてその前で足を止める。


 古い。

 それが第一印象。


 けれど、それ以上に――


 何かが詰まっていそうな気配がした。


 扉に手をかけ、押し開ける。


 ギギ、と重たい音。

 そして遅れて、チリンと鈴が鳴る。


 中に入った瞬間、空気が変わった。


 乾いた薬草の粉っぽい匂い。

 そこに混ざる、獣か脂のような重たい匂い。


 思わず息を止める。


 視線を上げると、カウンターの奥まで木箱が積み上がっていた。中身は分からない。ただ、古びた箱が天井近くまで重なっている。


 小さな窓から差し込む光の中、塵がゆっくりと舞っている。


 新品のものは一つもない。


 何に使うのか分からない道具ばかりが並んでいる。


 杭、紐、石、鉄片、脂の塊。


 思わず手を伸ばす。


 鉄製の細長い湯釜。

 用途の分からない鉄板。

 木の小箱を開けると、中には乾いた葉。


 ――違う。


 思っていたものではない。


 その瞬間、強い刺激臭が鼻を突いた。


 思わず顔をしかめ、すぐに蓋を閉じる。

 ほとんど投げるように元の場所へ戻した。


 それでもどこか、楽しかった。


 宝探しのような感覚。


 エルネの方へ歩み寄る。


 天井から吊るされた薬草。

 歪んだ棚。

 一歩踏み込むたびに、床が軋む。


 店主の男が、何も言わずにこちらを見ていた。


 視線が合う。


 けれど何も言わない。


 そのまま奥へと消え、すぐに戻ってきた。


 カウンターの上に、布が二枚置かれる。


 そして、私を見る。


 何を考えているのか、意味が分からない。


「あの、これは……」


「拭け」


 短い言葉。


 それ以上の説明はない。


 商品なのか、値段はいくらなのかも分からない。


 少しだけ躊躇してから、一枚を手に取る。


 白い布。

 薬草の匂いが染みついている。


 本当に使っていいのか。


「おじさん、いいの?ありがとう!」


 エルネは迷いなくもう一枚を取り、膝を拭き始めた。


 その様子を見てから、私は小さく言葉を返す。


「……ありがとう、ございます」


 布を服の中に差し込み、濡れた部分を拭いていく。


 首、腕、胸元。


 叩くように水気を吸わせる。


 けれどすぐに布は湿る。


 足りない。

 何枚も必要だ。


 顔を上げると、店主の姿はなかった。


 再び戻ってきたとき、今度は服が置かれていた。


 無言で。


 ただ、視線だけがこちらを向いている。


「これは、いくらなんですか?」


「銅貨九枚」


 短い答え。


 私は一瞬、考える。


 銅貨九枚。


 それは、今日の報酬と同じ額だった。


 全部が消える。


 けれど、このままではいられない。


 私は黙って硬貨を取り出し、カウンターに置いた。


 店主は奥を指す。


 着替えろ、ということだろう。


 奥へ向かおうとしたとき、エルネが声を上げる。


「ねぇ、おじさん!私は?」


 くるりと回って見せるエルネ。


 膝から下は濡れている。


 店主は一度視線を落とし、何も言わなかった。


 それが答えだった。


「大丈夫ってことですね!」


 エルネは納得したように笑う。


 私はそのまま奥へ入った。


 薄暗い。

 木箱が積まれ、どこが通路なのかも分からない。


 適当に死角を見つけ、服を手にする。


 古着だった。


 糸はほつれ、色はくすみ、匂いは店のものが染みついている。


 それでも、丈夫そうだった。


 装備を一つずつ外し、濡れた服を脱ぐ。


 肌に空気が触れる。


 そして、新しい服を着る。


 ざらついた感触。


 けれど、乾いている。


 それだけで十分だった。


 装備をまとめ、元の場所へ戻る。

 売り場に出ると、光が眩しく感じた。


 店主が振り返る。


 何も言わない。


「わ、先輩!なんかお揃いみたいですね!」


 エルネが笑う。


 お揃い?

 そう言われても、よく分からない。


「似合ってますか?」


「似合ってます!」


 即答だった。

 その顔は、本当に嬉しそうだった。


 店主がまた袋を一つ出す。


 カウンターに置く。


 私はそれを見て、当然のように思った。


 ――これも買うのだと。


「これも、ですか?」


 店主は首を横に振る。


 理解できない。


「いくら……」


 もう一度、首を横に振る。


 分からない。


 どうすればいいのか。


 エルネを見る。


「先輩?受け取らないんですか?」


「え……?」


「たぶん、おまけですよ」


 その言葉で、ようやく気づいた。

 お金を払わなくても、受け取っていいものがある。


 そんなことを、考えたこともなかった。


 手を伸ばしたが手が止まる。

 店主の顔を見てから恐る恐る袋を手に取り、濡れた服をしまう。


 それだけのことなのに、少しだけ躊躇いが残る。


 エルネがそっと近づき、耳元で囁く。


「先輩……ありがとう、って」


 私は顔を上げる。


 店主を見て、言葉を探す。


 そして、口を開いた。


「……ありがとう、ございます」


 店主は何も言わなかった。

 ただ、少しだけ視線を外した気がした。

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