すれ違う歩幅
しばらく歩き続けて、ようやく呼吸も落ち着いてきた頃だった。
不意に、左腕が脈打つように痛み始める。
ドクン、ドクン、と。
心臓の鼓動と連動するように、内側から押し上げるような痛みが広がっていく。
足を止め、袖口へと視線を落とした。
布が、じわりと赤く滲んでいる。
それでようやく気づいた。
手首――噛まれた場所の皮膚が擦り削れ、血が滲んでいる。
傷自体は、思ったより浅い。
出血も酷くはない。
痛みも、強いかと問われれば、そうでもない。
ただ。
あの時、掴まれて引きずられた衝撃。
潰されるような感覚の余韻が、まだ腕全体に残っている。
その残響の方が、ずっと重かった。
指先で軽く手首を庇うように擦る。
――大丈夫。
ポーションを使うほどでもない。
これくらいなら、すぐに治る。
そう自分に言い聞かせるようにして、顔を上げた。
ふと、気になって後ろを振り返る。
エルネが付いてきているか、確認するために。
彼女は――少し離れた位置にいた。
半歩どころか、それ以上の距離。
足取りは落ち着かず、視線は落ち着かず、周囲を何度も見渡している。
さっきまで隣にいたエルネとは、まるで別人のようだった。
「エルネさん?」
呼びかけると、彼女はハッとしたようにこちらを見る。そして、すぐに駆け足で近づいてきた。
その様子を見て、少しだけ考える。
……もしかして、さっきのことが引っかかっているのだろうか。
あの水辺での出来事。
そう思い至って、言葉が先に出た。
「大丈夫です。エルネさん」
自分でも、少し口数が多いと感じながら続ける。
「今度は水には近付きません。何より、あの魔物は水の中で襲ってきましたけど、陸に出ていれば隠れられませんし、あの見た目なら――いざというときは杖も、ナイフもあります。平気です」
言いながら、自分の中で何かが引っかかる。
――なんで、こんなに説明しているんだろう。
けれど、その違和感を掴む前に思考は流れていく。
陸にいれば目立つ。
敵意を見せれば、次は――。
今度は、こちらが仕掛ける側になる。
そうなれば、同じことは繰り返さない。
こんなことで、私は止まらない。
一歩を強く踏み込んで、そう思った。
だが。
エルネからの返事はなかった。
彼女は物憂げな顔をしたまま、黙り込んでいる。
しばらくの沈黙のあと、ようやく言葉が返ってきた。
「先輩って……強い人ですね……」
ぽつりと、途切れ途切れに。
「私だったら、その……怖くて、痛くて、泣いて……。その、だから、冒険者をやめてたかもしれないかなって……思うのに」
言葉がゆっくりと落ちていく。
その一つ一つが、どこか重たかった。
私はその言葉を頭の中で繰り返す。
もし、あの場にいたのがエルネだったら。
噛まれていたのが、彼女だったら。
――どうなっていただろう。
その想像と同時に、別の声が浮かぶ。
バルクの言葉。
――そこで死ぬやつは死ぬ。
死にかけてやめるやつは、そこでやめる。
それでも残るやつだけが、次に行く。
思考が、静かに巡る。
姉に魔法を教わった日々。
痛みを伴って覚えたこと。
痛い思いをしなければ、身につかないものもある。
次に同じ痛みを味わわないために。
繋げるために、覚える。
……本当は、痛い思いをしなくてもいいはずだった。
けれど、こうなってしまっただけ。
私はエルネの方を向いた。
「バルクさんが言ってました。Eランクはお触り期間だと」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「そこで危ないと思った人は、エルネさんの言う通り、冒険者は辞めてます。でも――私は辞めません」
視線を合わせていたはずなのに、気づけば少し遠くを見ていた。
「エルネさんがいなければ、私はどうなっていたか分かりません。でも、この痛みと苦しみが、辞める理由には出来ないです」
言い終える。
空気が、少しだけ重くなる。
エルネは何も言わない。
ただ、黙り込んでしまった。
「ごめんなさい……」
小さく、そう呟く。
俯いたまま。
――なんで謝るんだろう。
私は別に怒っていないのに。
その疑問も、すぐに流れていく。
視線の先に、何かが光った。
キラリと反射する小さな光。
――魔石だ。
周囲を見渡す。
水たまりはない。
湿った気配も薄い。
今度は、大丈夫。
「エルネさん、あれ」
歩きながら指を差す。
エルネは顔を上げると、すぐに駆け出した。
「私が取ります!先輩は待っててください」
ぬかるんだ土を踏む足音が、一定のリズムで響く。
私はその背を見ながら、念のために杖を構えた。
風が木々を揺らす音。
視界の中で動くのは、それだけ。
――何も起きない。
確認するように、息を整える。
エルネはしゃがみ込み、剣とは反対の手で魔石を拾い上げる。
何事もなく。
「先輩!無事に取れましたよ」
振り返り、駆け寄ってくる。
開いた手のひらに、小さな石がいくつも乗っていた。
その表情は、少しだけ明るい。
いつものエルネに戻っている。
私はそれを受け取り、革袋の中へと落としていく。
カラリ、と乾いた音が重なる。
数は、揃っている。
それでも、私は袋の口を閉じながら、もう一度だけ周囲へ視線を巡らせた。
――まだ、落ちているかもしれない。
そう思いながら。




