側近Bと吸血城5
「おやまぁ。要らんものまで付いてきたのぅ」
ぞっとする、冷たい声が近くで聞こえた。あたしはこの声を知っている。だからこそ身体中が震えて逃げることもできなくなった。
「久しいのう、娘よ」
目の前で、血のように赤い瞳が細くなる。薄い唇がゆっくりと弧を描く。覗いた牙は白く光る。
血の気の無い紙のような顔色の肌と、墨のように黒い爪の手。この黒は塗ってある訳じゃない。幾人もの皮膚を裂いて血に染まり、それを何千回も繰り返した、そうして付いた色だと聞いた。
「・・・お久しぶりです、始祖様」
カタカタ震えるしかないあたしの前に、庇うように腕を出した吸血鬼が言った。
押されて一歩分後ろに下がると、誰かに手を引かれてもう一歩。壁に背中を預ける位置に下げられた。
誰かなんて一人しかいない。オニキスだ。あの光の中、戻ってきて、この召喚に巻き込まれてしまったんだ。
何てことだろう。魔族のあたしや吸血鬼と違ってオニキスは人間なのに。こんな所に来てしまったら、もう生きては帰れないかもしれないのに。
「ほぅ、付いてきたのは一族であったか。おんしはミーヤか?」
「始祖様。エルミーヤルトは私の曾祖父にございます」
「ふぅん? ミーヤが産まれてすぐに娘に出会ったと思うておったが、少しばかり間があったようだのぅ」
細く長い指を曲げて、自らの顎に当てて、ふむ、と呟く。
雰囲気はかたくも無いし、厳しくも無い、ように見える。けれど、とても危険な相手。
一番最初の吸血鬼。
最も神に近い真祖。
それが、吸血鬼に向いていた視線をふいとこちらに移して、言った。
「のぅ娘。名を付けてやろう」
「…!」
息を呑んだのは吸血鬼だ。あたしは意味が分からなくて何の反応も返せない。
「どうか、それはどうかお許し下さい」
吸血鬼は膝を付き、両手を広げてあたしを始祖の目から隠す。必死だ。名を付けるというのは何の意味があるんだろうと思ってから、ユーディットに言われたことを思い出した。
ーーー絶対に一対一で真祖に会ってはいけないよ。名付けられると隷属させられる。直接会話をするだけで浸食される恐れがある。
ひょい、と気軽な動作で始祖が指を振った。
「始祖様!」
吸血鬼が懇願の悲鳴を上げたけれど、真横へと吹き飛ばされた。壁にガスンとぶつかって、瓦礫とともに崩れ落ちる。ぴくりとも動かない吸血鬼は、気を失っているのか、死んでいるのか分からない。
まさか一族を殺すなんて事、無いとは思う…けれど。分からない。普通は一族の者に攻撃なんてしないから。
吸血鬼の方を見て唖然としていると、ふ、と始祖が微笑んだ。
「心配しておるのか? メリィは優しいのぅ」
「ーーーメリィじゃない!」
反射的に否定をする。
あたしはメリィじゃない。そう強く思わないと、何かに引っ張られるように頷きたくなる気持ちに負けてしまいそうになる。
「そうかぇ? あやつが付けた名より、よほど良い名だと思うがのぅ?」
あたしに名前を付けたのは、ユーディットと魔王様だ。
あたしはあたしだ。シェリーメイがあたしなのだ。
ゆっくりと首を振る。
「そうかのぅ? 美しいそなたの魂に似合うと思うがのぅ。
・・・それとも、おんしはやはり、クリスタルの方が良いのかぇ?」
ビクリ。今度はあたしの前で庇っていたオニキスの体が震える。
クリスタル? と囁いて、あたしの顔を振り返って見る。その真っ黒な目と目が合う。
見たばかりだから覚えているよ。クリスタルって、ユーディットの母親の、妹。あの肖像画の人だ。
「勿体ないのぅ。クリスタルもヒトにしては美しかったが、おんしはさらに美しい。しかも長持ちする。…ふぅむ。やはり、クリスタルではもの足りぬ。メリィが良い。
そのように品のない衣では無く、青い裏地のす黒が良い。唇は紅を、髪は銀に。透き通るような肌はそのままで問題なかろ。
のうメリィ。今後は決して陽の元に出るでないぞ?分かったな。
ーーーメリィ」
赤い目がこちらを見る。頭の先から足の先まで、一つ一つ、あたしたちがダンジョンの修理をする時みたいに、確認されている。
一言ごとに、空気の重さが増す。
潰されてしまいそうで、あたしは息が出来ていないことに気づいた。
気づくと途端に、苦しくなる。
否定しないと。
でも声が出ない。
あたしはあたし。誰かに隷属したりしない。所有物にもならない。
モノじゃないんだもの。
あたしにはあたしの心があるって、魔王様が仰ったんだもの。
あたしは、魔王様の部下なんだもの!!
あたしはメリィなんて名前じゃない!!
「シェリーメイ!!」
かはっ、と喉から空気の固まりが押し出される音が漏れて、唐突に楽になった。
震える手で口元を押さえようとすると、誰かが手を握ってくれているのが分かった。今だけじゃ無くて、ずっと握ってくれていたんだ。
誰かなんて、一人しかいない。
オニキス。
オニキスはこちらを見て微笑んでいた。
あたしの名前を呼んでくれた? 初めて呼んでくれた気がする。
なんだか凄く嬉しくて、心が急に暖かくなって、動かない唇をゆっくりと曲げて、綺麗には出来なかったかもしれないけれど、あたしも微笑み返した。
その瞬間、真祖が腕を振って、空気の刃が、オニキスを裂いた。
胸に大きな裂け目が出来て、真っ赤な血がばっと吹き出る。
あたしを掴んでくれていた手が肘あたりで二つに分かれて、体の方が引き倒されるように地面に落ちていく。それを止めようと手を延ばすけれど、あたしの手は届かない。
真祖がさらに腕を振るう。次々と刃が迫って血が飛び散る。
オニキスが見る間に真っ赤に濡れていく。
「やめて!!!」
叫ぶけど、真祖は手を止めない。
あたしはそんなこと分かり切っていたから、叫びながら真祖に殴りかかった。爪を最大限に延ばして、上から下に思い切り薙払う。
真祖みたいに真空の刃なんて出てこないけれど、でも切られれば動きは止まるはずだ。
でも当たり前のように防がれる。
刃を飛ばすついでに肘で止められる。もう片方を切り上げるように振るっても同じ。手の甲で軽くそらされる。真祖の後ろの壁には深い亀裂が出来たけれど、それだけ。
真祖は目線すら動かさずに、ずっとオニキスに危害を加えている。
「ヒトの割に、しぶといのぅ…」
そして退屈そうに、強く手を振り下ろした。オニキスのくぐもった悲鳴が響く。どうしよう。あたしは怖くてそちらが見れない。
じわりと目に何かが滲んできて、目の前の真祖がぶれた。
肩と膝から力が抜けて、すとんと崩れてしまう。真祖に掴まれたままの腕が私を吊り上げて、地面に落ちはしなかった。ふらふら揺れるぼやけたあたしの視界に、オニキスが映る。
血を流して大怪我をしていた。
けれど、立っていた。身体のどこも欠けていない。
オニキスは死なない。大丈夫だ。
そうと分かって、やっと元気が出た。
オニキスは死なない!
掴まれている真祖の手をこじ開けて剥がして、床に降りた。オニキスの元へと急ぎ、傷の具合を見た。
大丈夫です、とオニキスは力なく笑う。
血は流れている。でも、その流れの元には小さな傷しかない。あれだけの攻撃を全て防いだのかと驚く私の目の前で、オニキスの傷はじわじわと小さくなり、やがて消えた。
「ほらだから、大丈夫なんです」
言いながら、オニキスは泣きそうな顔でこちらを見た。
「ほぅ。おんし、種入りであったか」
種・・・?
真祖が急に言い出た言葉で、オニキスが固まった。
「これは僥倖。随分とすくすく育っておるようではないか。刈り入れも近いのぅ」
刈り入れ・・・?
何のことか分からない。分からないけれど、ロクでもない事だけは分かった。
オニキスの身体が細かく震えている。これ以上真祖と話させちゃいけない。
それには、真祖を止めてオニキスを逃がさなくちゃいけない。
でも勇者にさえ負けたあたしが、真祖になんて勝てるはずがない。引き留めることすら出来ないと思う。
悩んでいると、オニキスと目があった。
オニキスはまだ震えていたけれど、その魔王様と良く似た黒い目には力があった。
「大丈夫です。俺は・・・死にません。死なないんです」
そんな泣きそうな顔で言われたって、あたしは安心できない。
「いやだ。だめ。オニキスはあたしが守るってアルビアにも言った。パルとも約束した! だから、オニキスは帰るの」
「いいえ。帰れません。・・・俺が全力で飛び込みます。どんな風になっても死なないし、彼にも俺を利用する予定があるようですから、悪いようにはならないでしょう」
「死なないって・・・ねえオニキス。じゃあ、あたしを呼んだ“殺して欲しい”って」
「不可能って分かっていました。でも、成功した。俺を殺せるのはあなただけだから。安心して、城で待っていて下さい」
にっこりと笑ってオニキスは立ち上がる。
その身体に傷は何も無かった。ううん、それどころか、爪や髪が延びている。綺麗に切りそろえられていたはずのオニキスの爪が、親指の節ひとつぶんくらい、延びている。
何でだか分からない。けれど、良くない感じがした。オニキスをこのまま行かせてはいけないって強く思った。
あたしはオニキスの手を離さなかった。真祖は面白そうにこちらを見ている。
「メリィ、それが欲しいかぇ? こっちにおいで。そうすれば、それをあげよう」
それ、と真祖はオニキスを指し示す。何度も何度も呼ばれるうちに、メリィという名前に抵抗がなくなってきたのが自分でも分かる。
ふらふらと、足が勝手に前に進む。
「駄目だ」
オニキスがあたしを止める。
でも、足は止まらない。傷が消えてもオニキスはボロボロなのだ。それではあたしの力のが強い。
真祖は、自分のものになれとか言ってるんじゃ無い。ただこちらに来いって言ってるだけだ。
それだけなのに、なんでオニキスは必死に止めるんだろう?
ゆっくりと歩きながら、首を傾げる。腕に鳥肌が立っていて、ひどく寒いのも不思議といえば不思議だった。
「ようこそ、メリィ」
始祖様が笑う。
嬉しいのに、どうしてこんなに胸が痛いんだろう。
あたしの歩みに合わせて始祖様が手をこちらに伸ばす。真っ黒に染まった爪が目に近づき、手のひらが頬を包むために丸められる。
深紅の目に見つめられて、段々と寒さも忘れて、その美しさに見とれてしまう。
「****!」
何か、後ろで叫び声がする。思い切り引かれて、始祖様に触れて貰えずに身体が後ろへ下がってしまった。
私と始祖様の間にあいたのは腕を伸ばしても少し届かない程の距離。
喪失感に腕を伸ばすのに、始祖様は麗しい笑みを浮かべるだけでこの手を取ってはくださらない。
「おや、もうおしまいかぇ。しかし、ああ、ひさしぶりに楽しかったのぅ」
ザン!!!
満足そうに頬を染めた始祖様が、突然背後から2つに分かれた。等分に真ん中から銀の刃が縦割ったのだ。
左右に分かれた始祖様は楽しそうに笑い声を上げたまま、その身を複数の蝙蝠へと変えて空高く舞い上がる。
「娘! 全てに飽いたらまた遊ぼうぞ!」
カラカラと笑って、蝙蝠はさらに小さい虫に分かれ、やがて消えた。
「始祖様…。」
私は見捨てられてしまった。せっかく差し伸べて頂いた御手を取ることが出来なかったから。始祖様がおられなくなってしまえば、私に存在する意味など無い。
泣くこともできずに呆然と立ち竦んだ。きっともう始祖様は帰ってきては下さらないし、呼んでも下さらないのだ。
目の前には始祖様に刃を入れた女が立っている。湾曲した扱いの難しそうな刃だが、苦もなく操る女は相当な手練のようだ。
人間のようだが、始祖様のおられる深部に来るほどなのだから、下僕たる私を見逃すことは無いだろう。無力なこの身だが、始祖様と同じ刃に貫かれて絶命するのは悪くはない。
両腕を下ろし、目を瞑る。
「…にしてる、シェリーメイ!」
どん、と肩を掴まれて揺すられた。
ずっと聞こえていた音が、やっと声として耳に届いた。
目をあけろと言われたので、瞬きをして前を見れば、黒髪黒目の男が立っている。
きょとん、とあたしは、もう一度閉じて目を開ける。
「魔王様…?」
あれ?
「どうしてこんな所にいらっしゃるんですか? 魔王様?」
右へ左へ首を傾げる。
すると、ふぅぅぅ、と魔王様は長い長いため息をついて、地面にしゃがみ込んでしまわれた。
「もうさー、もう、やめてよシェリーメイ」
片目を片手で押さえて、前髪をくしゃりと握ってこちらを見上げる魔王様。髪に触れるのは困った時の魔王様の癖である。
「何か困っていらっしゃるんですか? 魔王様」
あたしもしゃがみ込んで魔王様より視線を下げる。すると、魔王様はへにょりと力無く笑われた。
「もう困ってないよ。間に合って良かった」
そう仰って、くしゃくしゃとあたしの頭を撫でて下さったので、あたしはそれはもう、とても幸せな気持ちになってにまにまと笑った。
「まぁ、留守番のユーディットはカンカンに怒ってるから。ほんと、俺にどうにか出来るレベルじゃないから。頑張ってね、シェリーメイ」
あたしは一瞬で絶望した。
○○○○○
始祖を切ったのはオニキスの母親だったらしい。あたしを見て泣き出してしまったので全然話せていないんだけど、あたしとオニキスの事をアルビアから聞いて、駆け付けてくれたんだって。
魔王様とも知り合いで、丁度あたしがいなくなって大騒ぎしていた魔王城に連絡が入って、魔王様の転移で2人で助けに来てくれたんだって。
とまあ、そんな事を、オニキスをお城に送って、魔王様に魔王城に連れてきて頂いて、仁王立ちで待っていた鬼のようなユーディットに、正座して延々とされたお説教の中で、もうろうとなりながら聞いたんだ…。
オニキスとろくに挨拶もしないで別れちゃったけど、大丈夫かな?
「聞いてる? シェリーメイ」
「はい! 聞いてます!」
あたしは魔王様の側近B。
ところでカキ氷はいつ作ったら良いん…聞いてる!聞いてますから!ごめんなさい!
全然終わってないんですが、他の話を書くためにここで一旦打ち切ります。
「今後、次話投稿されない可能性が極めて高いです。」と言われても、完結はさせます。ごめんなさい。