もしもあの子じゃなかったら【別人】
若い愛人と再婚すると言って、夫が出て行ってから半月が過ぎました。
もう私も諦めがついて、彼が置いていった離縁届を出しに行こうかと思っています。
再構築は無理でも、せめて一度きちんと話したかったのですが、向こうがそれを望んでいないのだから仕方がありません。
幸い私には仕事がありますので、ひとりになっても生きて行けるでしょう。
子どもがいたらなにか違ったのかもしれないと思う気持ちもあります。
でもいないのだから、考えても仕方がありません。
王都騎士団の方がいらっしゃったのは、私が離縁届を手に立ち上がったときでした。
愛人の家で寝泊まりしていた夫があの子を殺したと言うのです。
そのとき夫は酔っぱらっていたらしくて、事件当時のことを覚えていません。たとえ酔いに任せて相手を突き飛ばして殺してしまったとしても、執拗に顔を潰したりはしないと言っているそうなのです。
「私が行ってもなんのお役にも立てないと思いますが……」
「わかります。貴女はその場にいらっしゃらなかったのですからね。ですが、ご夫君は心の安寧を貴女に求められているのだと思いますよ」
騎士団の方は、夫は混乱状態で泣き叫んでいると言います。
衛兵隊の小隊長で事件を解決する側だった自分が、事件を起こした側として見られていることも辛いのでしょう。
これまで夫が解決した事件や部下達についても疑いの目で見られるようになるかもしれませんもの。もっとも、夫の愛人は新しく入った部下の女性だったのですけれど。家で待っているだけの私よりも、一緒に戦ってくれて背中を任せられるあの子が良いのだと、彼は言っていたのです。
「ご同行いたします。……途中で神殿に寄っていただいてもよろしいですか?」
私の言葉に、騎士団の方は頷きました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「こちらは、彼の愛人だった女性とは別人だと思います」
神殿で傷病者を相手にする治療者という仕事をしているので、私はご遺体にも耐性がありました。
事件現場に向かう途中で騎士団の方に事件について聞いていたら気になることがあったので、ご遺体を見せてもらったのです。
顔を潰されたご遺体は若い愛人とは違いました。たぶん私と同年代でしょう。
「あの方は学園を卒業したばかりで、まだ十代でした。三十を越えた私のように、爪に線が入っているとは思えません。それに髪が……生え際の色が違います。あの方は髪を染めていたのでしょうか?」
「染めてなかった! 半月一緒に暮らしていたが、あの子が髪を染めているところなど見たことがなかった」
隠れて染めていた可能性もあります。
でも彼の言葉は正しいのではないでしょうか。
騎士団の方は首を捻ります。
「その生え際には我々も気付いていました。ご遺族の方々は、ご令嬢は髪を染めていたとおっしゃっています」
首を捻る方々の中でひとり、いいや、と声を上げた方がいました。
「そちらの奥さんの言う通り、この遺体は十代とは思えない。騎士になるために体を酷使していたとしても、こうはならない。そもそも健康で鍛えている、衛兵の体とは思えない」
検死を担当している方のようです。
王都には貴族の事件を取り扱う騎士団と平民の事件を取り扱う衛兵隊があります。
平民の事件であっても貴族が関わっていることがありますので、衛兵隊も上層部は騎士が多いのです。
この王国の貴族子女と裕福な平民が通う学園で騎士爵を得た卒業生が、未来の幹部候補として衛兵隊へ入隊するのはよくあることでした。
借金持ちの男爵家の令嬢だったという若い愛人もそうです。
あの子は衛兵隊に入隊した後は家を出て、独身用の宿舎で暮らしていました。借家を借りるようになったのは、上司の愛人になってからでしょう。
男爵令嬢は、小隊の副隊長が学園にいたときに可愛がっていた後輩だと聞いています。
その副隊長は借金こそないものの貧しい貴族家の出で、豪商の病弱なお嬢さんを娶っています。
副隊長の妻は私と同年代でした。病弱だったので婚期が遅れたのです。
「……彼には信じてもらえなかったのですけれど」
私は、彼に一瞬だけ視線を送りました。
以前の会話を思い出したのでしょう。その顔色が曇ります。
彼が私と住んでいた家を出て行ったのは、あの会話のすぐ後でした。
「私、この家に人目を憚るような様子で入っていく副隊長さんの姿を見たことがあります。この借家に住んでいた男爵令嬢の本命は、本当は副隊長さんだったのでしょう。ふたりのほうが年齢も近いですしね。……芝居の見過ぎだと笑われるかもしれませんが副隊長さんの奥さんを殺して顔を潰し、男爵令嬢はヴェールを被るなどして顔を隠して彼女の身代わりになることで実家の借金から逃げ、殺人の罪は上司である彼に着せる。そういう絵図を描いていたのではないでしょうか」
副隊長の妻の実家には体調が悪くて出歩けないし、見舞いに来られると気を遣って疲れてしまうから、とでも言えば時間が稼げます。男爵令嬢の実家のほうは最初から知っていたか、知らなくても令嬢が家の借金から逃げることを受け入れたのでしょう。
上司の小隊長が罪を犯したとなれば、副隊長が離職して引っ越すと言い出しても自然です。
そうして、どこか遠くで自分達だけが幸せに暮らすつもりだったのでしょう。
――私の芝居染みた考えは、間違ってはいませんでした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
副隊長と一緒にいた男爵令嬢が見つかって、事件は解決しました。
「……すまなかった」
容疑が晴れて、家へ戻って来た彼が私に謝罪します。
彼が事件当時の記憶を失っていたのは、飲んでいたお酒に妙な薬を入れられていたからでした。副隊長が犯罪組織から押収したものを着服して使ったのです。
副隊長の妻が髪を染めていたのは、愛人の男爵令嬢と入れ替えるための前準備でした。年下の夫にせがまれて、自分の年齢を気にしていた妻は髪を染めたのです。
「なんの謝罪ですか?」
「浮気したことや妙な事件に巻き込んだことだ。助けてくれて、ありがとう」
「構いませんよ。私としても元夫が殺人者だなんて嫌ですもの」
「元夫?」
「貴方が置いていった離縁届、事件現場へ行く途中で神殿に提出したんです。今日この家に来たのは荷物をまとめるためですわ」
「おい、ちょっと待て。俺はもうあの女とは切れたんだぞ?」
「あの子が貴方を罠に嵌めたからでしょう? 貴方の愛人が、もしもあの子じゃなかったら、今もあの借家で一緒に暮らしていたんじゃありませんか?」
「……」
殺人の罪を着せるためでなければ、若い貴族のお嬢さんが彼にすり寄って来たとは思えませんが。
彼は最初から幹部候補として入隊した騎士ではなく、叩き上げで小隊長にまで上り詰めた平民です。
愛人を借家に住まわせる余裕があったのは、妻の私が働いていたからです。
「貴方は浮気したことを反省したからではなく、自分自身の意志であの子と別れたのでもなく、利用されて困った状況に追い込まれたから、尻拭いのために私を呼びつけただけじゃありませんか!」
淡々と話したかったのに、どうしても声が大きくなってしまいます。
「どうして私があの子の爪や髪に気付いたと思います? 気にしていたからですよ。結婚して十年以上経っていても貴方を愛していたから、少しでも綺麗に見せたくて年齢の出る爪や髪を気にしていたから、あのご遺体が若いあの子じゃないと気付いたんです!」
「……」
貴方が本当にあの子を殺して私に泣きついてきていたら、罪を犯してでも助けてしまったかもしれません。
でもそれは起こらなかったことです。
私は荷物をまとめて、彼と暮らしていた家を出ました。
王都の道を歩きながら、自分の爪を見ます。
三十を越えて線の入った爪には、治療者の仕事の妨げにならないくらいに色を付けています。愛した人が好きだった、淡い薄紅色です。
……そのだれかさんは気づいてもくれませんでしたけれどね。
<終>




