立命 ~諾~ 立命
伊江谷の独り言「ポリッ」「カリッ」
薄暗い部屋。
ひと通り家具は揃ってはいるものの、生活音のない空間に胡坐をかく男。
男の前のサイドテーブルには2種類の錠剤の山が円を描くように並んでいる。
この部屋の主は伊江谷幸也。
その伊江谷のうつろな視線が宙を泳ぎ、その視線が薬の山に落ちた。
伊江谷の手が薬に伸びる。一粒口に入れた。カリッと音がした。
伊江谷の口の中にほのかに苦みが広がった。
「なんでこうなった?」
若狭という研究員が個人的に研究していた薬。画期的な開発と位置付けられプロジェクトチームが組まれて、伊江谷はそのチームリーダーとなった。
しかし、しばらくすると若狭は仕事を休みがちになり、開発は頓挫した。そんな中で伊江谷は若狭のパソコンの中に未公開の開発資料を見つけた。
そして若狭の死を機に、その資料を若狭から受け継いだ者として、会社に対し開発の権利を主張した。
「計画どおり進んでいた」
伊江谷の手が違う色の薬を摘んだ。口の中でポリッと音がした。
「あいつに代わったから」
若狭さんが会社に来なくなる前に、開発途中の薬を完成させてほしいと彼から頼まれた。私の名前で世に出してほしいと言ったのが、彼の最後の言葉だった。
だから私は若狭さんの遺志を継いで薬を完成させた。
このことは前所長の巖倉さんも承知していて、治験に関しても芳志総合病院の全面的な協力を受けて、合法的な形で行なった。
それが完成間近になって、権利は開発者にはなく会社の物だというのは納得がいかない。この薬は私が若狭さんから受け継ぎ、心血を注いで完成させた物だ
そう言う伊江谷の主張に対して、新しく着任した宇賀野という所長はまったく取り合わなかった。
若狭さんは、私に完成から販売までのすべてを託した。
妹のために必死で研究に打ち込んでいた彼を、会社は途中で無情にも切り捨てた。
会社がすべての責任を彼に負わせたために、その責務の重さに耐えられなくなった彼はあんなことになった。会社に不信感を抱いた彼に、頼れる者は私しかいなかった。
伊江谷は重ねて訴えたが、穏やかな表情を浮かべる宇賀野に軽くいなされた。
「巖倉だったらうまくいったのに」
伊江谷の手が薬に伸びる。カリッと音がする。
「俺だけが持っていたはずだった」
薬に関する資料が別に残されていたことが分かっても、私に託されたと言い張った。
ポリッと歯で嚙む。
「女子学生に手を出したあの男がバカなんだ」
個人的に依頼した治験者の女子学生が病死した。
口に残る苦味に顔をしかめながら次の薬をカリッと噛み飲み込む。
「赤いピルケース。その女の姉が騒がなければ問題はなかった」
その姉も交通事故で消えた。
伊江谷の手が無意識に薬を摘み、口へ運ぶ。
「すべて解決済みだ。そうだ問題はない」
乾ききった心が薬に手を伸ばす。ポリッと嚙んでも飲み込めない。
「なのに、どうして病院が俺を訴えるんだ?」
ここは引いたほうがいいと脅迫めいた言葉が迫り、伊江谷を追い込む。
口に残った薬を何とか飲み込んだ。
「俺は終わりか?」
傍らに置いたスマホが着信を知らせて震えた。
色のない静寂の中で、伊江谷の心の怯えにその震えが、どす黒く被さる。
「なんでこうなった?」
伊江谷の手が薬に伸びる。カリッと音がした。
肩で呼吸をしながらぼそぼそと繰り返される独り言。
ポリッという音、カリッという音だけが無機質な空間に現実を刻む。
薄暗い部屋に朝日がさし、2つの薬の山が混じり合うころには、伊江谷の独り言も軽い寝息に代わっていた。
雄介は芽唯や竹林庵のことを思いつつ、佐祐から渡されたオロチ退治と表に書かれたタウンに関する資料に目を通していた。
謎の名簿。色付けされた人のアルファベット。
この名簿はオロチに関係しているのだろうか?
佐祐が信頼を置く棚伏雷樹が調べあげて、オロチとよぶ奴らは堂本、白峰、向出手、朱雲、大黒。あとは・・・分かっていない。大黒の私邸に筒賀事務長と伊江谷が出入りしていたらしい。確かに芳志総合病院が建設中のタウン総合病院の経営に名乗りを上げているようだが・・・
考え込んでいた雄介に、市子のことで相談があると宇賀野から連絡が入った。雄介は頭を軽く振り、伸びをすると宇賀野の事務所に向かって走り出した。
宇賀野の事務所には佐祐も呼ばれたようで、雄介の到着を待っていた。
「久しぶりですね、雄介さん、佐祐君。今日はお呼び立てして申し訳ない。白峰鈴音のことでお知恵を借りたくて来てもらいました。まぁその前に2人とも気になっていたでしょうから、伊江谷君とのことを報告しましょう」
宇賀野の言葉に佐祐が身を乗り出してきた。
雄介は吹き出した汗を拭くと、頭から離れない大黒の研究所と竹林庵、そして治験実験台のことを思考の片隅に押しやった。
そんな雄介に軽く目をやり、宇賀野は話し始めた。
「伊江谷君に、薬の開発にはかなりの研究費用をつぎ込んでいることを数字で示しながら説明し、簡単に権利は譲れないことを伝えました。そして妥当な線での和解を提案しましたが、伊江谷君はあくまで争うという姿勢を崩しませんでした。しかし時を置き、若狭さんが和久さんに託したUSBメモリや、見たこともないと言っていた赤いピルケースの写真を見せたら、あっさりと引き下がりましたよ」
淡々とした宇賀野の口調に佐祐がオーバーに頷き、話の続きを促した。
「あの薬はあくまで会社のチーム単位での開発だったものなので、若狭さんが妹さんのために開発した薬で違法な治験をするはずはない。若狭さんの薬に伊江谷君が独断で手を加えて赤いピルケースに入れて配り、人体実験を行った。となれば会社としても黙ってはおれず、れっきとした背信行為だと話しました。若狭さんが個人の権利を主張されるはずはなく、まして若狭さんが会社にされた仕打ちを家族でもない彼が声を上げたとて、取り上げられないこと。それに加えて若狭さんの家族には、会社には責任がないということを取り付けていますし、それどころかご家族は伊江谷さんに対して息子を利用してお金を稼ぐつもりかとご立腹だったと伝えました」
「赤いピルケース?・・・伊江谷が違法な治験をするために使っていたものですね」
雄介の言葉に合わせて佐祐が尋ねた。
「あんなに探したのになかったものがどこにあったんすか?」
「あるホテルのフロントに落し物として届けられたそうです。そのケースから彼の指紋が出ました」
「えぇ・・・単なる落とし物なのに、なんで指紋まで調べたんすか?」
佐祐が首を傾げた。
「詳しくはわかりませんが、伊江谷君の薬が原因ではないかと思われる事故が別に起こっていたらしい」
「それに赤いピルケースが関係していたから・・・」
雄介と佐祐は口をそろえて言うと、顔を見合わせて頷いた。
「そんなことなら深入りはなしですね」
雄介が納得したとばかりに言った。
「そうです、赤いピルケースに入っていた薬は伊江谷君が独自に調合したものとされました。すなわち、わが研究所及び会社にはまったく関係がないとの結論です。ですから責任もありません」
「伊江谷はどうなるんすか?」
佐祐が上目遣いで尋ねた。
「これも詳しくは知りませんが、治験を依頼していた芳志総合病院から詐欺で訴えられたそうです」
思ってもみない結末に、ふたりは同時に驚きの表情を見せた。
「事務長から直々に連絡がありました。うちに対しては落ち度がないと認め、この件については伊江谷君を一個人として訴えるそうです」
言い終えた宇賀野は深いため息をついた。
雄介は研究所で会うたびに媚びた態度を見せていた伊江谷を思い出した。こんな悪事を計画していたなんておくびにも出さない男だった。
佐祐が「チッ」と舌打ちをした。
「すっきりしませんね。あれだけ都合のいい嘘を並べて振り回しておきながら、ばれたらごめんなさい。これでおしまいっすか?迷惑料ぐらいはいただきたいっすよ。納得いかねぇす」
憤懣やるかたないとばかりに佐祐が息を荒立てた。
「同じ気持ちです、私も。しかし会社としては相手方がすべてを取り下げるというのなら争う必要はありません。幕引きです」
「訴えないのですか?」
そう言う宇賀野に佐祐が不満をあらわに尋ねた。
「こんな場合は内輪もめで収めたほうがいいでしょう?雄介さん」
白峰のことで裁判になれば市子がさらし者になるのは避けられない。
その上伊江谷の件が大事になれば、市子は研究所の責任者として追及を受けることになる。そうなれば今の市子には耐えられないだろう。
結論を振られた雄介は、宇賀野が市子のことを考えて決断したと理解した。
宇賀野は伊江谷とのいきさつを話し終えると、ふたりに対して改めて向き直った。
「さてと、本題です。白峰鈴音、手ごわいですね。先日黄利木という男のスマホから、白峰鈴音の声で市子さんを名指ししてとどめを刺せと依頼している音声記録が見つかったのですが、鈴音が演技の練習をしていたと証言しました。黄利木はほぼ黒なのですが、黄利木の実行犯としての証拠がない。取り調べの間、黄利木はお遊びだったと笑っていたそうです」
かすかな怒りを隠して宇賀野は続けた。
「黄利木の暴行については、被害者の白峰露偉からの被害届が出ていないので傷害事件として成り立たず、スマホは黄利木に返されてしまいました。あなたたちの努力もないものにされましたね」
俺たちの努力?宇賀野さんは露偉と黄利木を嵌めたことに気づいてたんだ。
少し目元が笑った宇賀野から雄介は視線をそらし、佐祐はチラッと雄介を見て首をすくめた。
「ですから黄利木と実行犯との繋がりの証拠がでない限り、白峰鈴音を訴えることはできません。そして雄介さんが捕まえたふたりの男も故意ではなく偶然だったと言い張り、証拠不十分で釈放されました。鈴音も暴力を受けた弟の露偉も、黄利木とは何事もなかったかのように以前と同じように付き合っています。腹立たしくはありますが、この件については一旦被害届を取り下げることにしました」
佐祐は納得いかないとばかりにふてくされた表情をしていた。
そんな佐祐に宇賀野はかわいい弟でも見るような表情で話しかけた。
「佐祐君、狭霧さんからの情報を教えましょう。実は本社に市子さんを標的にした脅迫文が頻繫に届いていました。しかし6月に入りピタリとその動きが止まったそうです。なにやら脅迫まがいの買収工作を仕掛けていた人物が急死し、撤退を余儀なくされたとか。それに市子さんと同じように、娘さんのことで脅されて広大な土地を脅し取られた方が白峰を提訴したそうです。いずれ白峰は逮捕され、賠償金支払いや企業イメージの悪化など相当なダメージを受けることになるでしょう」
「ひとまず、最悪は避けられそうだな・・・」
肩の力を抜き、ふうと息を吐いた雄介の脳裏に、堂本がぼんやりと浮かんだ。
「あとは白峰鈴音・・・」
佐祐が吐き捨てるようにその名前を言った。
3人が同時にうなずいた。
「ところで宇賀野さん、俺、鈴音のファンクラブに入会したんすよ」
「お前・・・」
雄介の呆れ顔を見て佐祐はケラケラと笑い、首をカクッと鳴らした。
「なにか掴めましたか?]
「鈴音のファンクラブの集まりが近々ある。そこに俺が潜り込んで市子さんの事件に関係している人物を特定出来れば、しめたもんすよ」
「佐祐・・・」
「雄介さん、手伝ってくださいよ。これから忙しくなりますよ」
「どうするつもりだ?」
「俺、ファンの心理を利用して罪を犯させる鈴音が許せないっす。ファンの純粋な気持ちを踏みにじるなんて、ファンの純粋さを知らしめてやるっすよ」
佐祐が真顔になっていた。
雄介はそんな佐祐を見るたびに昇を思い出し、成彦の言葉が脳裏を過ぎる。
「佐祐・・・そんなこと・・・大丈夫か?」
「ネット制裁すよ」
「ネット制裁?・・・」
佐祐は返事の代わりにカクッと首を鳴らした。
そんな2人のやり取りを腕を組み聞いていた宇賀野は、立ち上がり息まく佐祐の肩に手を置いた。
「佐祐君、くれぐれも深入りと無理は禁物ですよ」
見送ろうと2人が立ち上がったとき、出口に向かう宇賀野のスマホが鳴った。
スマホを耳に当てた宇賀野の顔がこわばった。
その表情に2人は声をかけられないほどの緊張を読み取った。
「警察からです・・・伊江谷君が・・・亡くなったそうだ」
一変して、緊張の消えた宇賀野の淡々とした声は、その事実とともに言い知れない虚しさを雄介に伝えた。




