立の章 使命 ~遂~
ゴールデンウイークに入ると、由宇子は新幹線で母の住む広島に向かった。
窓際の席に座ったが、車内は旅の装いの人々で混み合っていた。
由宇子は楽し気な人々をよそ目に、車窓に流れる景色を見ていた。
一瞬たりとも止まらないその景色に、テラとの出会いを重ねていた。
子どものように泣きすがるテラの手を放すことができず病院に留まったあの夜、徐々に落ち着き自分を取り戻したテラに由宇子の不安は消えていた。
夜中に一度都医師が顔を出したが、テラの様子に安心して、由宇子に向かって親指を立てるとすぐに退室した。
しばらくして由宇子はソファーにうずくまり、浅い眠りについた。
夢の中で優しく笑うテラに、由宇子は楽しげに笑い返していた。
朝方、誰かの呼ぶ声で目を開けると、テラが由宇子に毛布を掛けようとしていた。
「起こしちゃった」
テラは申し訳なさそうに小声で言った。
昨夜のテラとは何かが違っていた。
首を横に振る由宇子に、テラはほっとした表情で微笑み、由宇子もそれに応えるように笑った。
由宇子は夢で見た情景が、時間を巻き戻したように繰り返されていることが不思議だった。
夢と現とが混ざりあった中で、目に見えるものだけを信じていた由宇子が、目に見えないものの存在に触れようとしていた。
由宇子はテラを見た。
洗面を済ませたテラと目が合った。
どうしたの?という顔でテラが屈託なく笑った。
何でもないと由宇子は笑い返した。
言葉のない笑い顔は由宇子の気持ちを軽くした。
その笑顔を受け入れるように、由宇子は今の置かれた状況を少しずつ受け入れている自分に少し驚いていた。
そのあと、由宇子は都の指示に従い、テラを支えて上階の病室へ移動した。
広々とした特別室に入ると、テラはベッドには横にならず、座り心地のよさそうなソファーに座りスマホを取り出した。
由宇子は、電話をするテラから離れて窓際に行き、外を眺めた。
昨夜、テラのすべてを背負わされ、逃げられないと思い詰めて歩いた中庭が、眼下に広がっていた。
由宇子は、今は気持ちの変化をはっきりと意識して、中庭を見下ろした。
そんな気持ちの変化を、夜中の散歩に付き合ってくれた卯月は理解してくれるだろうか?「もちろん」と笑う卯月が想像できた。
テラの電話が終わるや否や、太力がいかつい顔を心配顔に変えて飛び込んできた。
「大丈夫か?」
それにテラは笑って「大丈夫・・・」と答えた。
「それは良かった。心配したぞ」
テラは太力からの着信履歴の数に、声を立てて笑った。
太力は朝早くから病院の駐車場で待機していたという。
「ごめんなさいね。連絡できなくて・・・」
テラは、そんな様子を遠目に見ている由宇子に声をかけて、手招きした。
「由宇子さん、紹介しますね。この人、女野宇太力さん。こんなだけど、とても優しい人なの。こちらは由宇子さん・・・」
紹介しようとしたテラだったが、由宇子のことを何も知らないことに気づき、言葉に詰まった。
「和久由宇子です、不思議なご縁でテラさんのお世話をしています」
あとを受けて、由宇子は自己紹介した。
「昨夜、低血糖で倒れてしまって、由宇子さんが助けてくれたの。今はもう大丈夫」
「それは良かった。良い人に助けてもらったんだな」
ほっとした顔のテラに、太力のいかつい顔が人懐っこい笑顔になった。
「私ったら由宇子さんのことを何も知らないのに、でも夕べはとても安心出来たの」
「そうだったのか、安心出来たのなら良かった」
「ところで由宇子さん、お願いがあるの・・・」
テラは太力から由宇子に向き直り、申し訳なさそうに切り出した。
「何でしょう?」
「この人と私の家に行って、着替えを持って来てほしいのだけれど、お願いできない?」
「いいですよ、着替えが必要ですね。早速、行きましょうか」
「昨夜も迷惑をかけたのに、ごめんなさい。お願いしますね」
由宇子は太力と共にテラのマンションへ向かった。
そして、テラに必要なものを届け終わると11時を過ぎていた。
由宇子はテラに別れを言って、都に挨拶をするために院長室を訪ねた。
院長室では都が由宇子を待っていた。
「お疲れ様でした。あなたがいてくれて助かった。本当にありがとう」
都は由宇子に、会議用のテーブルにつくように勧めて、コーヒーを準備し始めた。
「由宇子さん、ありがとう。本当に助かったわ。彼女は自分を守るために、人との接触を避けてきたの。そんな彼女があなたをストレートに受け入れた。理屈じゃないのね、テラさんにとってあなたとの出会いは。でも、巻き込まれたと感じているあなたにとっては困惑の極みだったはず。だけどどう?気持ちが変わってきた?そうでしょ。でも決心ができないよね。由宇子さん・・・私に話してみない?気持ちの整理ができるよ」
都は椅子を1つ開けて由宇子の横に座り、己に言い聞かせるように話し始めた。
「私たちは日々理解できないことに遭遇する。そんなとき、私は不思議なことや、受け入れられないことはそのままにしておくの。たかが知れてる私たちの知識でどう足搔いても、抗っても、変わらないときは変わるのを待つしかない。すると環境が、気持ちが、そして関係が変わる。私たちの意識の深いところから、何かが夢に現れてみたり、偶然を装って知らせてくれる。あなたはテラさんとの出会いに戸惑っていた。突然のことで受け入れられないでいた」
カップのコーヒーに目をやり、一口飲み、都は続けた。
「でも、この世には一瞬たりとも変化しないものはない。私たちが見ている実体もそう。人の気持ちなんて最たるもの。本人さえも気づかないうちに変わっていることもある。そんなものに囚われていては、苦しくなるばかり。今回、あなたが自分の心の奥にしまい込んだものを、取り出してみてはどうかしら?時が過ぎて、変わったものに気付けば、自分を実感できる。変わっていく自分を信じられるわ」
都はそこで話を止めた。
少し由宇子が震えていた。
都は大きく息を吸って、強い口調で思いを言葉にした。
「私は若狭さんのことを諦めていない。私たちは、時とともに変わっていくものを止めることはできないけれど、願い続けること、思い続けることはできる。執着することと囚われないこと、矛盾しているけれど、若狭さんが残してくれたものをはっきりさせないとね」
「先生・・・」
「何かあるの。今は分らないけれど、見えないけれど、必ず原因があると思う。テラさんも原因が分からない病気で苦しんだの。何かがある、何かが起こっている、私はそう思う。テラさんを守りたいから、若狭さんの死をしっかりと受け止めているあなたに手伝ってほしいの」
都の言葉は、言葉を留めることを避けていた由宇子の心に刻まれた。
「若狭・・・」
そして由宇子は漠然とだが、姿を現し始めた心の奥の恐怖に向き合うために、新幹線の車中の人となったのだ。
母に会うために・・・
車内放送が次の停車駅を告げた。
母に近づいていくのを意識した。
会いたいわけではない。
できればこのまま違う場所へ行きたい。
はっとして、由宇子は思い出したようにバックの中を探した。
「あった」小さく言うと、バックから手を戻して目を閉じた。
手に当たった封筒。
あの日、帰り際に院長室で都と話しているとき、稲木医師が顔を見せた。
母に会いに行くというと1通の封筒を渡され、母に届けてほしいと頼まれた。
中身は手紙と写真だという。稲木の穏やかな表情の中の真剣な眼差しが、その写真が大切なものだと語っていた。
由宇子は窓の外の流れる景色に目を移した。
「私は、また大切なものを預かっている。また何かに巻き込まれるのだろうか?稲木先生は郵便で送ればいいのに、何で私に頼むのかな?」
次の駅で、車窓は大勢の人が往来する景色に変わった。
人の動きを追うのに疲れた由宇子は、少し寝ることにした。
大切な物を入れたバッグを抱きかかえて、目を閉じた。
広島というアナウンスで目を覚ました。
由宇子はもう一度バックの中の預かった封筒を確認した。
降りる準備をする。母が迎えに来ているはずだ。
改札口を出て、母の車を探す。
軌跡診療所と書いてある福祉車両の側に立って、手を振っている母が見えた。
由宇子は口元に笑みを作って近づいていく。
母はとても元気そうで、由宇子の背中をポンポンと叩いた。
「元気だった?荷物、後ろに積むけんね」
そう言うと後ろのドアを開けた。
車いす専用の車だった。この車に乗りたくない。
由宇子の胸がきゅぅと締め付けられた。
「どうした?乗って、乗って」
由宇子の気持ちにお構いなく、母は助手席側のドアを開けて由宇子を押し込んだ。
「急がないと。日が暮れると大変だからね、なんせ山の中だから」
そんな母に圧倒され助手席に座った由宇子だったが、居心地が悪く、何度も座り直した。
何度位置を変えても、後部座席が気になった。
車は比婆山の麓に向かって走り始めた。
由宇子は諦めて横を向き、外を眺めた。
市街地を抜けると美しい新緑が目に入った。
由宇子は、子どもの頃から母の姿を視覚でとらえ、触れて確認してからでないと落ち着くことができなかった。母の存在が傍にあれば母を求めたが、仕事に出かけた母を追い求めることはしなかった。すぐに帰るから、今日は一緒にいるからと約束した母に、何度も裏切られ、そのうちに言葉だけのものには反応しなくなった。感情をまとった言葉という実体のないものは聞き流して、心に取り込むことをしなくなった。
母は運転しながら診療所での生活を話している。
母の存在が隣にあるのに、なぜか落ち着かない。
聞き流しているうちに山は日が暮れ、由宇子の気の重さに比例するように、辺りが薄暗くなり始めた。
さらに山道を進む。
暗闇が濃くなると木々の中を目に見えぬ物が動いていて、由宇子の不安を煽る。
徐々に息苦しさが由宇子を縛り始めた。
そっと母を見る。
由宇子は母の横顔にどきりとして、鼓動が早くなった。
ヘッドライトの明かりを頼りに運転している緊張した母の顔が、由宇子に衝撃を与えた。
ぐるぐる巻きにして胸の奥に終い込んだ物が、ほどけた布の隙間から見え隠れする。
あのとき、震災の直前に、母は鬼気迫る顔をして車を走らせていた。
由宇子はそのときの母の顔をはっきりと思い出した。
母は日の出前の薄暗い早朝、由宇子を連れて勤務先の病院の駐車場に行き、動かずに待つように言った。そして病院から車いすで連れ出した人を車に乗せ、走り出した。
幼心に母の行動に疑問を持った。
由宇子は膝のズボンを握りしめて、身動ぎもせず助手席に座っていた。
しばらく車を走らせてその人を別の車に乗せ換えると母は病院に戻り、由宇子に当直室で寝るように言うと、平然と仕事に入った。
そして、あの地震が起こり、幼かった由宇子の母への怖ろしい疑惑は、地震の恐怖にのみ込まれた。
「母は犯罪者・・・」
由宇子の手が両膝の上で血の気が引くほど固く握られていた。
母の横で、由宇子は蘇った記憶に喘ぎながら、大人になっても問いただすことのできない幼い日の恐怖と闘っていた。
「由宇子、着いたよ。大丈夫?途中から気分悪そうだったけど」
「うん、大丈夫」
答えたものの母の顔を見ることができなかった。
母の部屋に荷物を置くと、すぐに稲木から預かったものを母に渡した。
「これ稲木先生から預かってきた。お母さんに渡してくれって」
「ありがとう」
そう言ったが、母は中身を確かめようともせずに机の上に封筒を置いた。
そして母は大戸野先生のもとへ挨拶に行くと言って、由宇子を連れて向かった。
大戸野に挨拶してほっとする間もなく、もう1人会わせたい人がいると、今度は奥の部屋に向かった。
そこには母と同じ年格好の女性が静かに外を眺めていた。
「那美さん、連れてきましたよ。娘の由宇子です」
その人はゆっくりと振り向き、由宇子を見て嬉しそうに微笑み、歩み寄ると那美は由宇子の手を取り優しく手を重ねた。
那美の手が触れたとき、手と手の間に薄い膜がふわりと張ったように感じた。
「私にために長い間辛い思いをさせましたね、ずいぶん昔に、お母さんに助けていただいて、私は今も生きています」
那美の言葉に、由宇子はすべてを理解した。硬く巻いた布がほどけて、胸の奥底が軽くなり、隠していたものが現れた。
あのとき車椅子に乗っていたのはこの人、那美さん、稲木先生の奥さんだったんだ。
お母さんは罪を犯したわけではなかった。
何かの事情で危険なことをやってのけ、そのうえ今も那美さんのそばにいる。
由宇子は振り向き、にこにこと笑っている母に抱きつき、しゃくり上げて泣いた。
「どうしたの?子どもみたいに泣いて・・・」
「お母さん、お母さん・・・」
そんな母娘を微笑ましく見ていた那美の表情に寂しげな色が射し、那美はそっと2人から目をそらした。
その夜、都の言葉が由宇子の背中を押した。「言葉の持つ優しさや温もりを考えてみて。一瞬だとしても、すぐに変わってしまう気持ちだとしても、それを繋げて、人は人として生きている。人は変化を嫌がるらしいけれど、でも時を刻みながら気付かないうちに、私たちは変化を受け入れている。変化の先には死が待ち構えている。そこまでの道のりは誰にも分らないから不安になる。だけど失うことや傷つくことを不必要に恐れることはないと思う。失ったものは戻らないし、傷つけば痛みを感じる。でもそれは傍らにある慈愛に満ちた言葉に癒されて救われる。人生の中で気持ちを伝えることはとても大切なことよ」
由宇子は長年抱えていた思いを母に打ち明けた。
そして母は当時のことと、現在の那美さんの様子を大人になった由宇子に話した。
由宇子は那美からテラへ、母から由宇子へと繋がる何らかの意図をはっきりと感じていた。
話し終えたころには、東京に帰ってテラとの生活に踏み出すことへの由宇子の迷いは消えていた。
今年も一年間プロトコルを読んでいただきありがとうございました。
ゆっくりゆっくりにお付き合いいただいて、只々感謝しています。
来年もよろしくお願いいたします。
みなさまがよい年を迎えられますようにお祈りいたします。




