立の章 使命 ~遂~
その頃、雷樹は事務員の話を糸口に、朱雲がNPOの団体を隠れ蓑にして、学生相手の貧困ビジネスをしていることを突き止めた。
事務員の塔野羽純は大学3年のときに、朱雲が関係するNPOでボランティア活動を始めた。
朱雲は面倒見がよく、色々と相談に乗ってくれたと言う。
しばらくして、当時付き合っていた彼氏とのことを朱雲に相談すると、向井出を紹介された。向井出にこの恋愛は身の破滅と言われて、その彼氏とは別れた。
その後、いい相手を紹介すると言う向井出の誘いの言葉に、羽純は就職をせずに昼は事務所で働き、夜は向井出の経営する居酒屋で手伝いをする生活を始めた。
その頃、同じように朱雲の紹介で、居酒屋でアルバイトを始めた女子学生がいた。向井出のお眼鏡にかなえば、玉の輿に乗れると信じていた女子学生は、しばらくすると客として現れた堂本に気に入られ、いつの間にかいなくなった。
羽純は、向井出先生にはお世話になっているから手伝っているが、堂本に声をかけられたら逃げられないと嘆いた。堂本という男は恐ろしいと震えながら話した羽純は、恐怖からか、最後には目に涙をためて「先生には言わないでください」と拝むように手を合わせた。
「なぜ辞めないんだ?」
雷樹は湧いた疑問をふふんと鼻で笑った。俺と一緒か・・・
俺は犬、お前は餌?か・・・
この社会に拡がる目に見えぬ沼。
善意の沼、良心の沼、希望の沼、必要以上に光り輝く美しい水面に惹かれて足を踏み入れると、その足は徐々にぶずっぶずっとひざ丈まで沈み込む。
朱雲はその沼に、夢を追う若者を巧みに誘い込む。
その先には飼い殺しの、逃げられない生活が待っている。
上を目指せと叱咤激励され、気に留めずにいた足元には朱雲の魔の手が伸び、いつの間にか鷲づかみにされている。
朱雲に交われば向井出のもとへ、そして交わらなければどこへ行くのか・・・
ある日、雷樹が羽純と雑談をしていると、向井出から呼ばれた。
ライフシェアタウンにある土屋の現場事務所に書類を届け、ついでにタウン管理棟の鴫山という男に菓子折りを届けろという指示だった。
こともあろうに前の職場だった管理棟に行く羽目になるとは。二度と関わりを持たないと切り捨てた場所に引きずり込まれ、忘れていた犬の文字が額に浮き上がった。
それを隠すように、駐車場から管理棟までの道を俯き気味に歩いた。
通い慣れていた道が果てしなく長く思えた。
強気の顔をしていても、心のうちの情けない顔の自分が、余計に哀れに思えた。
管理棟に着くと気を取り直して、受付で鴫山を呼び出す。
隔壁で囲まれた奥から、鴫山という男が愛想よく出てきた。
「向井出先生から連絡をいただいています。鴫山です」
俯いていた雷樹が顔を上げると、初対面なのにその男はいやに親しげに挨拶をした。
「これを差し上げるようにと言い付かってきました」
雷樹は周りを気にしながら紙袋を差し出した。
「わざわざありがとうございます」
雷樹の顔をまじまじと見つめて首を傾げる鴫山に、要らぬ探りを受ぬよう雷樹は土屋の事務所の場所を聞くと、挨拶もそこそこに管理棟を出た。
抑えても抑えても、何かに追われているかのような早足になった。
ライフシェアタウンの端にある土屋の事務所の2階に、雷樹は駆け込むように入った。
事務員が1人いて、ノックもせずに入ってきた雷樹に驚いたようだった。
雷樹は気まずさを照れ笑いに変えて、預かった書類を事務員に渡した。
土屋は今日戻ってこないのだろう、その書類は所長の机に無造作に置かれた。
雷樹は車に乗り込んで一息ついた。
額をごしごし擦った。犬の字は・・・ルームミラーに映った額になかった。
なぜこうも同じ思いをさせられるのだろう。犬、犬、犬・・・なぜ俺について回るんだ?
試練?
何のための試練なのか?
そうか犬か、俺の中の犬を消すための試練なのか?
俺の中に犬が巣くっている限り、試練は続くのか?
だが、俺が俺になるための試練なら話は違う。目的を持つ試練なら何度でも受けて立つ。
今日こんな思いをしてまでタウンに来なければならなかった理由があるのか?
奴らを叩きのめすために・・・俺に何ができる?
考えた末に雷樹は佐祐に連絡をした。
そしてその夜、雷樹は佐祐の友人として再びタウンに入り、闇に紛れて土屋の事務所に向かった。
土屋の事務所に着くと、何食わぬ顔でポストの中を見た。
奥の方に鍵があった。
佐祐が調べてくれていた。
鍵を開けるとポストに戻し、内側から鍵をかけた。
事務所の中は薄暗く、昼間に事務員が机の上に置いた書類を探したが、似たような封筒が多く手間取っていた。
ようやく封筒を見つけたとき、階段を上がってくる音がした。
雷樹はとっさにロッカーの影に身を隠した。
部屋の明かりが点いた。
「土屋社長」
見覚えのある顔だった。雷樹は息を止めた。
入り口を開けた土屋は、息をひそめている雷樹の気配に気付いたようだ。
土屋でなければ隙を見て逃げようと思っていた。だが土屋であれば姿を見られた瞬間に雷樹だと気づかれ、向井出に知られることになる。
土屋はゴルフのクラブを持ち、潜む相手の出方を見ているようだ。
逃げても無駄だと観念した雷樹は、ゆっくりと土屋の前に姿を現し、深く一礼した。
「きみはたしか・・・」
土屋は雷樹を覚えていた。
チクチクと刺されるような無言の時間が続く。
ようやく雷樹は覚悟を決めて口を開いた。
「あの時は助けていただき、ありがとうございました」
「僕は君を助けたつもりはないが」
「・・・あのまま声をかけていただけなかったら、私はどうなっていたか。土屋社長のお言葉で、あの悪夢の時間が終わりました」
土屋は何も尋ねずに目を細めて雷樹を見ていた。
無言の中で、土屋は雷樹がここにいる理由を聞いていた。
すべてを話すべきか、盗みに入ったとひたすら謝って逃げるか。
雷樹はじりじりとドアの方へ体の向きを変えた。
土屋という男には下手な芝居は通用しないことは分かっていた。
だが、この人なら冷静に話を聞いてくれるかもしれない。
雷樹は土屋の生き様に賭けることを選んだ。
俺は負け犬にはならない。
「先生から、今日こちらに真木様のビルの契約書をお持ちするように言われました。真木様を今の状況に追い込んだのは、私のせいなのです。どんな契約をされているのか気になってこんな真似を・・・申し訳ありません」
そして、雷樹は向井出の計画を話した。
「それだけか?それだけではあるまい。君の話は、にわかには信じがたいものだし、僕があの女に君のことを話せば、命がないことぐらいわかるだろう。よりによってあの女の手の内を言い訳にするとは・・・もっとましな言い訳はいくらでも出来たろうに。君は僕にあの女を裏切り、敵に回すと宣言した。どういうことかわかっているのか?」
雷樹はごくりと生唾をのんだ。
「覚悟はできています」
雷樹は後戻りができないことを悟っていた。
そのうえで土屋にすべてを預けた。
言葉ではなく、土屋の視線が雷樹の心に切り込んでくる。
受けて立つ。
俺はそう決めている。
「分かった、僕は今日君を見なかったことにするよ。君もそのつもりでいるように。それから真木さんの契約書を持って行くといい。どうせ形だけのコピーだから紛失したことにする」
土屋はしばらく考えて、冷静な口調で雷樹に告げると部屋の電気を消した。
土屋の静かな声が暗闇の中に残された雷樹の背中を押す。
「先に出るから気をつけて帰りなさい。実は君には感謝している。あの食事の後から引き際を考えていたからね」
そう言い残して土屋は事務所を出ていった。
真木の契約書を手にした雷樹は、しばらくして事務所を後にした。
雷樹は封筒の中身が真木の契約書だと確信していた。
真木が手にした契約書と実際の契約書は違っている。
だが、真木はビルが人手に渡るように仕組まれていることに気づいていない。もしそうなら、この契約書が奴らを追い詰める証拠になるかもしれない。
帰りに雷樹は佐祐に契約書を預けた。ほぼ計画通りに進んだことを佐祐に話すと、土屋との掛け合いを武勇伝だと、自分のことのように喜んだ。
土屋という男をなぜ信じられたのかは分からないが、逃げずに正面突破した結果に雷樹は満足していた。
そして宿命に立ち向かう勇気が自分の中に存在することに気づいた。
しばらく土屋との口約束を不安に思っていた雷樹だったが、日が経つにつれその不安は薄れていった。
向井出の性格ならば、もし土屋が雷樹の裏切りを話したのなら、すぐさま烈火のごとき怒りで雷樹は葬られるだろう。
だが、向井出は何も言わない。
やはり土屋は約束を守り許してくれたと気を緩めた日の夜、突然雷樹は向井出に呼び出された。
占い部屋に入ると向井出は腕を組み、目を閉じていた。
雷樹は入り口で項を垂れて立っていた。
「今日、お前の運勢を占ってみた。お前が私を裏切ると出た・・・」
冷酷な目が雷樹を金縛りにした。
「何にこそこそやってんだい?」
不意を打たれた雷樹は、うろたえた表情を見せてしまった。
やはり土屋はばらしたのか?
向井出は鎌をかけているのか?
どちらにしても何か掴まれているのは確かだ。
なんだ?裏切りとはなんだ?
どうする?どう逃げる?
俺はほかに何をした?
これも試練なのか?試練ならば乗り越えられる。考えろ、冷静になれ。
雷樹はその場に正座した。
「すみませんでした。羽純ちゃんを女性として見てしまいました。ちょっと話はしましたが、付き合うまではいってません」
雷樹はおろおろと狼狽えて、床に擦るほど頭を下げた。
向井出の物に手を出してこっぴどくやられた真木のことを思い出して、羽純とのことに賭けたのだ。
向井出の声色が変わった。
「雷樹、少し人の目っていうものを考えてくれ。羽純は大切な預かりものなんだよ。良い人と結婚したくてここにいるんだからね。お前と噂になったらご両親に顔向けできないんだよ」
「すみませんでした。気を付けます」
「分かりゃいいよ」
それだけ言うと向井出は、手で払い帰るように言った。
ゆっくりと部屋を出た雷樹の背中はじっとりと冷や汗で濡れていた。
翌日、日課の日掛け金の取り立てを済ませて事務所に戻ると、羽純の姿が見えなかった。雷樹はあの夜から羽純を避けていた。それは羽純も分かっているようで、お互い目を合わせるくらいで2人で話すことはなくなった。
向井出の部屋から声が漏れてきた。
電話で誰かと話している。
「そろそろ手放す時期だから、そのあたり頃合いみて、いつものようにお願いしますよ」
誰と話しているんだ?
「25歳にもなると、結婚結婚ってうるさいから、早めに旨いこと片付けてくださいよ。後釜?そこは朱雲さんが用意してくれてるから」
後釜?誰のことだ?
「それから、羽純のスマホだけど、うちの関係の連絡先は消しといてね」
「なんとでも言えるだろ堂本さんなら」
その名前に反応して雷樹はトイレに駆け込んだ。
雷樹かと呼ぶ向井出の声がした。
スマホの佐祐の連絡先とやり取りを消した。
羽純は・・・どうする?
「雷樹帰ったのか?」
雷樹はトイレの中でわざと音を立てた。
「・・・あとで来て」
トイレから出ると、雷樹は吞気な顔をして向井出の部屋に入った。
「すみません」
「・・・そこ、座って」
雷樹は何食わぬ顔で客が座るソファーに座った。
「スマホを見せて」
雷樹は、きたと思った。
「早く出して」
「何ですか?また俺やらかしましたか?」
「素直に見せりゃいい」
向井出の差し出された手に、雷樹はしぶしぶスマホを乗せた。
向井出は連絡先にざっと目を通して、羽純の連絡先を消してテーブルに置いた。
「個人的な連絡は必要ないだろ、分かったね」
「分かりました」
向井出の発する尖った雰囲気が消えた。
それでも雷樹は顔を上げずにテーブルの上のスマホを見ていた。
「帰っていいよ、気を付けるんだよ。私の取り巻きにはお前のこと妬んでる奴が何人もいるんだ。何されるか分からんからね」
雷樹はスマホをポケットに入れて、頭を下げて部屋を出た。
世の中は分からない。こんなみじめな俺を妬んでいる奴がいるのか?
俺は羨ましいと思われているのか?
人間というものはそういうものなんだ。少し前まで俺も吐き気がするような奴らに憧れていた。
夜道を歩きながらスマホを開くと、やはり羽純の番号が消去されていた。
他に変わったところはなかった。
向井出は単純に俺と羽純が付き合うことを嫌がっただけなのだろうか?
考えながら歩いていると、雷樹は首筋にぞわぞわと虫が這うのを感じた。
慌てて手で払った。
払った先には小さな多足類の虫が丸くなっていた。
ムカデ?もう一度首筋を払った。
虫が素早く動いた。その姿に向井出を見た。
ゾクッと背筋に悪寒が走った。
これからは何をするにも用心しなければならない。雷樹は逃げていく虫を目で追いながら肝に銘じた。




