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立の章 使命 ~遂~

雄介は、雷樹という先輩から連絡が来たと、わざわざ知らせてくれた佐祐を追い返してしまった後悔に揺れながら、その後ろ姿を見送った。


これでいいのだと何度も自分に言い聞かせて、宇賀野が待つ会社へと向かった。


宇賀野は、市子の4月入社に向けての準備を進めていた。

そんな状況の宇賀野に、雄介は大歳の話に加えて、市子と因縁のある白峰鈴音の母親の企みの情報を話すべきか、決めかねていた。


会社に着くと、管理部と書いてある宇賀野の部屋を訪ねた。

デスクの上の書類の山に、宇賀野の忙しさを目の当たりにした雄介は、大歳の話だけを伝えることにした。

堂本をオロチと決めつけている佐祐の情報に、一抹の不安を感じていた雄介は、今の宇賀野に不確かな情報を伝えるべきではないと判断したのだ。


「研究所はそんな状態なのですか・・・それは、もう少し詳しく聞かないと何とも言えませんね。その上で、所長とその主任研究員の伊江谷さんにも話を聞きましょう」

「宇賀野さん、早速明日にでも大歳さんに会いに行きましょう」

勇んで言う雄介に、宇賀野はソファーに座るように言った。

「研究所や会社で話をするのは、人目もあるので避けましょう。そうですね、市子さんの家に来てもらいましょう」

「市子の家に呼ぶのですか?」

「はい、僕から了解を取っておきますから、その大歳さんに、明日18時に市子さんの家に来るように伝えてください」

「分かりました。伝えます」

雄介は宇賀野の考えを図り兼ねていたが、ここは冷静な宇賀野に従うことにした。


翌日、大歳は約束の時間に市子の家に現れた。


応接間で宇賀野を交えて改めて話を聞いたが、それは雄介が聞いたものとほとんど同じ内容だった。

コーヒーを持って現れた香も加わり、雑談を始めた。


なぜ大歳を、宇賀野は市子の家に呼んだのか?

雄介は、宇賀野に何か考えがあってのことだろうと思った。

宇賀野が大歳に穏やかな口調で尋ねた。

「会社をお辞めになる意向だと伺いましたが、差し支えなければ、理由を教えていただけませんか?」

「辞める理由は、顕微鏡を覗くのに飽きたからです。僕は研究には向いていません。ここで気づいたので、違うことにチャレンジしてみたいだけです。会社について不満はありません」


「私の疑問ですがね、辞めようと思っている人間が、退職直前に波風を立てる必要がありますか?・・・あなたにとってのメリットはなんですか?」

「私のメリット・・・ですか?」

「リークして同僚を窮地に追いやったまま、自分だけ知らぬ顔で退職するというのは、あなたの印象を悪くするし、まず後味が良くないでしょう?」

「密告はいい気持ちではありませんが、元々、研究室での僕の印象は良くはないですし、あの方々が無責任にやってきたことを思えば、逆に後味はさっぱりしてますよ」

大歳はさばさばした言い方で応えた。

「退職後の先を考えていますか?」

「今は考えていません・・・僕はこれで・・・そろそろ失礼します」


大歳は宇賀野の質問に答えるとコーヒーを飲み、これ以上の雑談は勘弁とばかりに席を立った。

立ちかけた雄介に、大歳は見送りを断る仕草をして部屋を出た。


大歳がいなくなると、市子が顔を出した。

「あの人は誰?」

「研究員の大歳さんという方です、会社のこと心配してくれています」

「そうなの?香ちゃん、第一印象はどうだった?」

「普通ね・・・」

「怖そうな人じゃなかった?」

「悪い人ではなさそうよ、でも・・・」

「でも?なに?」

「だから普通・・・」


2人の会話を聞いていた雄介は、市子の変化に気付いていた。

市子は雄介に声を掛けようとせず、距離を取り、目も合わせようとしなかった。

そんな市子を見るにやるせなく、雄介は席を立った。

「それじゃあ、俺も帰ります」

「雄介さん、今日はありがとうございました。明日、所長の巖倉さんと伊江谷さんに話を聞いてみます」

雄介は、大歳について何も触れない宇賀野に物足りなさを感じたが、宇賀野の性格を思うと、問い詰めても無駄なことは分かっていた。


玄関を出ると、市子が追ってきた。後ろには香が立っていた。

「おう、元気か?」

市子は少し笑って、うん、と答えた。

雄介は話したげな市子に、ぎこちなく笑い返した。

「・・・またな」


雄介は東京での日々を思い出しながら、通い慣れた街灯のともる道をゆっくり自宅へと向かった。


雄介は3月の初め、市子に卒業祝いをせがまれて、一緒に千葉のテーマパークへ行った。

市子は記念日にすると言って、1日を無邪気に過ごした。

夜のパレードを見終わり、最寄り駅に着くまでに、市子は今日が終わってしまうと言って、泣き出した。

なだめながら家まで送り届けると、一言もしゃべらずにいた市子が、真っ直ぐに雄介を見て聞いてきた。

「島根に帰るの?」

うん、と頷いた雄介に、市子は目に涙を残したまま無理に笑った。

「分かった、雄介、今日は楽しかったね」

いつもは名残惜し気に見送ってくれる市子が、雄介を誘うことなく家に入った。


退職を決めて以来、市子の母の茅野に距離を置くように言われていた雄介は、その日から市子と2人で話すことを避けた。


今夜の市子は、あのときの市子とは少し違っていた。

雄介は、自分が市子にとって必要のない存在になった、と感じた。

市子から離れることを望んでいたのに、居場所がなくなるということは、こんなに寂しく切ないものなのか。


ふと、 竹林庵を思い出した。

「ばっちゃま、芽唯、元気か?もうすぐ帰るよ・・・」

市子を守るという約束を投げ出してしまった独り言は、雄介の挫折感をいたわることなく、虚しく消えた。



翌日、宇賀野は大歳の情報の、若狭という研究員の研究を伊江谷が横取りした件、治験の件、大手の病院との癒着の件の3点を確かめるために、所長の巖倉と伊江谷を会議室に呼び出した。


宇賀野は所長の巖倉に、若狭という研究員の退職と、亡くなった経緯を尋ねた。

研究員のことは、仕事に支障のない限り干渉しない主義だから、分からなかった、亡くなったことは残念だったと首を振った。パワハラの事実についてはそのような事実は全くなく、若狭が辞めた理由は研究に行き詰まったからで、あくまで個人的な問題だと応えた。


そして伊江谷は、開発中の薬については自分の研究だと言い張り、若狭が何をしていたかは知らない、と言い切った。

治験については、提携病院に協力してもらっているだけで、一般の人への治験は行っていないし、病院との個人的な関係はない。

その上、伊江谷は宇賀野に対して、誰がリークしたかは知らないが、研究員がどんな思いで研究を進めてきたかも知らないで、簡単に背信行為のように言われたらたまらない、と息まいた。


それを受け宇賀野は、再度大歳と会い、所長巖倉と伊江谷の言い分を伝えた。

宇賀野と雄介を前に、大歳はしばらく黙っていた。


「そうですか、もちろんすんなりと認めるはずはないと思っていました。3月で退職する和久という研究員がいます。その人は若狭さんと親しくしていた人で、彼の研究を記録したのUSBメモリーを持っています。若狭さんが亡くなった後、主任は、若狭さんが何か残していないか必死で探していました。僕は若狭さんのUSBメモリーを拾い、主任にではなく、和久さんに渡しました。証拠とは言えませんが、それと主任のデータを比べれば、はっきりとするんじゃないですか?」

「和久さんですか・・・」

「赤いピルケースについては、複数の研究員が、伊江谷さんが封筒に入れるのを目撃しています。ただ現物がありませんし・・・それに何の薬が入っていたのか、もしかすると、ケースだけだったのかも知れません。そして病院関係者と言っても、電話の取次ぎをしただけだったので、報告はしませんでした」

宇賀野は少し考えて口を開いた。

「先日、最初になぜこのことを話してくれなかったのですか?」

「和久さんは若狭さんのことで傷つき、立ち直れていません。それに退社が決まっていて、今は出社していません。そんな彼女に、また嫌な思いをさせたくありませんでした」

「そうですか、分かりました・・・」


頃合いを見て、香がコーヒーを運んできた。

「どうぞ」

大歳の前にコーヒーを置いた。

「どうも・・・」

大歳は軽く香に頭を下げた。

雄介の前にもコーヒーが置かれた。


宇賀野は前に置かれたコーヒーを一口飲むと、大歳に軽い口調で話しかけた。

「会社に残りませんか?」

思いがけない一言に、大歳はカップを持つ手を止めた。

「いやいや、それはありません。じっと座って顕微鏡を覗くのには、飽きたと言ったはずですが」

「はい、聞きました。顕微鏡を覗く仕事ではありません。研究所の副所長をお願いしたいと思っています」

その言葉にカップを置いた。

「・・・僕が副所長ですか」

大歳の対面に座っていた雄介も、驚いて顔を上げた。

「どうして僕に・・・」

「この会社にあなたが必要と考えています」

「・・・お断りします」

「そうですか、残念ですね、まあ大歳さん、結論は急がずに」

「はい、僕はこれで失礼します」

大歳は宇賀野の言葉を最後まで聞かずに、部屋を出て行った。

同席していた雄介も、宇賀野の思い切った提案に驚いた。

だが、すべてを託された宇賀野に対して、雄介は疑問を表情に出すことすらできなかった。


何日か経つと、若狭の薬についての調べが進み、所長は責任を取って辞めるらしいという噂が流れ始めた。

所長の巖倉は、その噂のことで雄介に泣きついてきた。

巖倉は会社のためと言われ、伊江谷のすることを黙認していたという。

今では、伊江谷は諌めようにも、事あるごとに大黒大臣の名前を出し、逆に脅され、協力を無理強いされているという。

巖倉は、そんな事情を宇賀野に雄介から話してほしいと頼み込んできた。


大黒大臣が、佐祐の言っているオロチの黒幕なのでは、と考えていた雄介は、巖倉の、巻き込まれてしまったと言う言葉を信じて、宇賀野を訪ねた。

宇賀野は書類を整理しながら、ソファーに座っている雄介の話を聞いた。


「雄介さん、人はすべての人に対して、いい人にはなれません。いい人とはいくつもの顔を持っています。いい人になろうとするより、人を陥れる悪人にならなければいいのです。しかし、相手の持つ正義次第で、敵や悪人は生まれてしまいます。人との関係とは、すべての局面で変化するものなのです」


宇賀野はさらに続けた。雄介は途中から、俯き気味に宇賀野の話を聞いていた。


「所長は管理者として、伊江谷さんのことは責任を持って対処しなければなりません。それを雄介さんに助けを求めるとは、職務怠慢で処罰もんです。雄介さん、人に頼られることは嬉しいものです。役に立つことは喜びを生みます。しかしそれが本当に道理なのか、その人のためなのかを考えないと自己満足で終わり、トラブルの原因になります。世の中には穏便に済ませてはいけないこともあります」


宇賀野は雄介の前に座ると、静かに雄介を見た。


「雄介さん、ここまでにしましょう」


雄介はその言葉の意味を理解できなかった。


「あなたは3月末には退職して、市子さんのことも区切りを付けるとおっしゃいました。今回の情報は非常にありがたい。はっきりとさせなければ、今後に支障をきたすでしょう。しかし今後、雄介さんが市子さんと人生を共にするつもりがないのなら、このことも含めて、今後は全て私に任せていただきたい」

「・・・関わるなということですか?」

「そうです、一切です。市子さんのことはもちろん、会社のことも、この薬のこともです」


宇賀野は穏やかに、しかし冷静に雄介に告げた。


拒否された、いや、迷惑だと言わんばかりに切り捨てられた気分になった。だが、感情の高ぶりは唐突に喪失感に変わった。


雄介は会社での居場所も無くした。

「分かりました。明日から有休を取ります。失礼します」


悔しさや心残りや、やり切れなさが言いようのない寂しさになって、雄介を日暮れの街へと追いやった。


いつの間にか雄介は、以前佐祐と飲みに来た、昇との思い出の居酒屋に来ていた。

暖簾を潜りかけてやめた。

余計に孤独を感じた。

雄介は当てもなく歩いていると、佐祐に似た後姿を見つけた。

思わず追いかけた。

近づき、佐祐ではないことに気づいた雄介は、そのまま抜き去り、人を避けながら走り続けた。


「佐祐ごめん」走るのをやめて、歩き始めた。


雄介は迷惑とばかりに、追い返したときの佐祐を思い出していた。

佐祐にこんな思いをさせたのだろうか?

あのとき、佐祐にはもう少し、ましな言いようがあったのかもしれない。

寂しさが後悔を深くした。


ふと、宇賀野が言っていた、人の持つ正義のことを思い出した。

佐祐を巻き込まないためには、あれでよかったんだ。


家の近くまで帰り着いた雄介は、宇賀野の心情を理解していた。


退職の日、雄介は送別会のために、市子の家に呼ばれた。

食事の間中、雄介は市子の視線を避けていた。

しばらく雑談をしたあと、みんなに見送られ、門を出た雄介を市子が追いかけてきた。

「雄介、今までありがとう・・・私は大丈夫だから、宇賀野さんや香ちゃんがいてくれるし、本当に大丈夫だからね・・・これ雄介に似合うと思ったから、使ってね」

と言って、時計らしきものを手渡した。


雄介は黙って受け取ると、市子の肩に手を掛けようとして、思い留まった。

「市子、ごめんな。俺・・・」

「雄介、私もちゃんと理解しているよ。雄介の気持ち、分かってるから。一番いい方法なのよね、私にとって」

雄介は頷くだけで、市子にかける言葉を思いつかなかった。

「市子、家に入って、みんなが心配する」

「うん、雄介・・・今まで私を守ってくれてありがとう。雄介、元気でね」


市子は雄介をじっと見つめて、ゆっくりと背を向けた。そして決心したように踏み出すと、市子は一度も振り返らずに家に入った。


雄介も市子のプレゼントと一緒に、未練をポケットにしまって、大山家を後にした。


俺は市子を守るために東京に来た。今もその気持ちは変わらない。あの冷酷非道な堂本が市子を巻き込んで、何か企んでいる。

そんな中、市子から離れることが最善の策なのか?


堂本は、俺が会社と関係がなくなれば、手を引くかもしれない?

いや、堂本には通用しない、そんな簡単な奴じゃない、まして組んでいるのが白峰の鈴音の母親となれば・・・あくどいやり方で何か仕掛けて来るに違いない。この状況で市子を守れるだろうか?


俺のやり方で市子を守り続ける。

約束だから、投げ出すわけにはいかない。


雄介が、気持ちを新たに見上げた空には、珍しく星が瞬いていた。

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